とまのす

ちいさくゆっくり、民俗さんぽ

報恩寺の五百羅漢さんたち。

*報恩寺羅漢堂*
岩手に「チャグチャグ馬コ」を見に行ってきた。
その記事はまた改めて書くと思うけれど、
馬ッコたちと滝沢村→盛岡駅周辺まで歩いたついでに
五百羅漢さんがあるという斑鳩峰山・報恩禅寺さんに行ってきた。
立派な門である!f:id:ko9rino4ppo:20160614225140j:image
門扉にはこれまた立派な彫刻が。
麒麟かな。竜馬かな。
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そしてこちら↓が目的の羅漢堂。
ここの像たちは1731年に作られたものらしい。
と、羅漢さんたちの胎内にあった墨書きに書いてあるそうだ。
外からは格子越しであまりよく見えないが、
そんなに高くない拝観料で写真も好きに撮らせてもらえるので
是非ちゃんと入ってみていただきたい場所。f:id:ko9rino4ppo:20160614225242j:image
そしてこちら↓が堂内。
本尊の廬舎那仏様を中央に、周りには羅漢さんがズラリ。f:id:ko9rino4ppo:20160614225258j:image
f:id:ko9rino4ppo:20160614225353j:image居眠りしてるんじゃなくて、きっと何か考えているのかな。
片手を上げているものが多いけれど、これは?
インドのサドゥの人たちの中には、
「片手を挙げ続ける」という修行をする人がいる。
あとは、挙げている角度で言うと
蔵王権現さんとかもこんな角度だった気がする。
片手を挙げてるこのポーズも、
よく見る割に全然調べたことなかったなぁ。
どんな意味があるんだかはずっと気になっているところ。
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そしてこちら↑は両脇…のように見えるのだが、
パンフレットには前立ちと書いてある。
この向かって左の八歳竜女は、
文字通り「八歳の娘であり蛇の姿をした畜生である」。
とよく説明されるのだが娘という時点で人間なのではないのか。
体は蛇で頭は女児ということなのか、それとも八歳のメス蛇なのか。
モトの姿はイマイチ想像しがたい…。

ともかく彼女は仏教の革新の1つとでも言おうか。
というのも、それまで基本的に男性に向けられ
「女性はむしろ夜叉のようなもの!」
とかメタクソ言われていた仏教の中にあって、
彼女・八歳竜女は初めて成仏した「女性」なのである。
成仏した証として男の姿になった!
というのはなんだかちょっと女身成仏として納得いかないが、
まぁ法華経にそう書いてあるのだから仕方ないだろう。

一方こちら↓は双髻を結っている。
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ちょっと仏像に興味がある人なら、
この双髻と中腰感で何となく誰だかわかるだろうか。
安倍文殊院にあるのが有名かもしれないが、
文殊菩薩の勧めで多くの人々を訪ね修行をし、
普賢菩薩のもとで悟りを開いた「善財童子」である。

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ひょうきんなポーズのものから、
いまにも乱闘を始めそうなのまでいる。
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こちら、ファッションもさまざま。
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乗り出してこっち見てる人がいる!

…とこんな風にかなり楽しんできたわけだが、
ひとしきり見終わってから受付のおじいさんが
(服装をよく覚えていないがあれは住職さんだったのか?)
この羅漢堂について話をしてくれた。

*羅漢チャンネル*
そう。今回は別に
仏像や羅漢さんを紹介したかったわけじゃなく、
その話を少し書きたかったわけですよ。
ここまで長かったけど。

まずこの羅漢堂が何を表現しているかということ。
この羅漢堂の正面には毘盧遮那仏がいるわけだが、
まずそれはお釈迦様の顔をしてはいるけれど
お釈迦様の姿を写した像ではないんですよ。
というはなし。

「盧遮那仏だけではなく御前立の二体も
 釈尊十大弟子も五百羅漢さんも、
 そこに人が集っている様子であるように見えながら
 それは人や一人一人の仏・羅漢ではなく
 このお堂の中全体が一つの宇宙を表しているんです。」

別にこれは具体的に、
「この仏さまは〇〇星で…」
みたいな話ではない。

私だって、
修行をしているわけではないし
仏教だって別に詳しくない。
だからこそ「空(くう)」とかそうゆう解釈論的なとこより
動物と戯れたり空を飛んでみたりおなかから仏様が現れたり、
そうゆう目に見える神通力を行使する羅漢に惹かれるわけだが。

でもなんかこの説明の
「御堂全体が一つの宇宙」という言葉で
すごく御堂の包容力がupした感じがした。

そして、さらに気に入ったのは時代背景の話。
この羅漢像たちがどんな時代に作られたのか。
それは、大飢饉の時代。
「今年はちょっと不作だ」ってレベルじゃなく、
何十年も飢えが続くような大飢饉の中で。

お寺ってゆうのは普通、
一定の立場(出家したとかね)の人以外にとっては
死者を弔ってその成仏を願ったりする場所。
でも、
死んだ人は食べてしまえ。弔う余裕もない。
そんな時代に「死んだ人」でなく
「生きている人」の心の拠り所になるよう作られた。
それがこの羅漢堂なんですよという話。

だからこそいまも、
生きている私たちがふらっと立ち寄っただけで
このズギャァアアン!ってゆうパワーを感じられるわけ。
もともとこの五百羅漢のパワーチャンネルは、
生きてる人に合わせてあるからね。

なんかすごく腑に落ちた。

*おまけ・修行三昧と睨み龍*
ちなみに、管理人が神様や神社のことを調べると
全く抜けられなくなるのと同じように。
羅漢さんたちにとって修業は楽しいことのようだ。
受付のおじいちゃんはそう言っていた。

ただ、楽しいけどあくまでも修行ですよー。
ここは神聖な場で、邪気は入ってこられないし。
そんな意味もあって、
天井には八方睨み龍が描いてあるのだそうだ。

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ほんとうに、中にいるとそこは
羅漢たちが修行することに心を傾け
ひたすら自由に集中する「修行三昧」の宇宙。
盛岡にお越しの際は、是非!
羅漢堂で修行天国な宇宙遊泳をお楽しみあれー。

諏訪大社、宝殿遷座祭2016!

長野以外の世の中では
「今年の御柱祭りはもう終わった」
と思われているであろう6月15日。
上社本宮の宝殿遷座祭が行われた。

あの、巨大丸太を曳行するのが御柱祭り!
と思われがちなのだが
御柱祭りの正式名称は「式年造営御柱大祭」。
諏訪大社の式年造営のお祭りなのである。

であるから、柱を建て替えるだけでなく
神様のお引越しをしなければ終わらないのだ。

そして、ほかの神社にも式年遷宮とかあるけれど
諏訪大社のちょっと違うところは
「仮住まいに移ってもらって本殿を建て替える」
のではなく
「東と西に宝殿があって、新築したほうへ移ってもらう」
のである。

ほかの記事にも書いたかもしれないが、
一般的な神社には神様がいる「本殿」は1つ。
しかし、諏訪大社では各宮とも
神様の住める場所(宝殿)が2つ(東西)あるのだ。
※前宮を除く。前宮は現在、本殿1つを有する構造。
そして、御柱大祭の年(申年と寅年)に引っ越して
つぎの大祭までは6年間 その宝殿にお住まいである。

今回は、西宝殿から東宝殿への引っ越し。

観光じゃありませんよという意思の表れなのか、
曳行の時はタイムテーブル的なものが公開されていたのに
今回は全くホームページに情報がない。
諏訪の観光協会に訊いてみるも、分からないらしい。
茅野観光協会の電話番号を教えてくれたので、
そちらにかけてみるとやはりわからず。
大社さんの番号を教えてくれて、やっと訊けた。
今年の遷座祭は「11時半に始まる」とのこと。
「でもあんまり近くでは見られませんよ」とも教えてくれた。
いいんですいいんです。何をやってるか見えればそれで!

当日、本宮に近づくにつれ
黒スーツのおじさんとの遭遇率がup。
「おはようございますー」
と挨拶してくれるので私も挨拶。
そんな感じで11時ちょっと前に本宮につくも、
寝不足がたたり睡魔の奇襲を食らう。
これはイカンとフラフラと法華寺に向かい、
休めるところを探すと…なんと!
「山門の上部にある仏像もどうぞご覧ください」
という看板が!これは上に登れるぞ!

ということで、
こんな立派な神様たち↓の前で恐縮だが
山門の2階部分の隅っこで丸くなってしばし就寝。
f:id:ko9rino4ppo:20160618214850j:imagef:id:ko9rino4ppo:20160618214905j:image
(観光客に見つからなくてよかった…と思う)
そして、神様たちにペコペコ頭を下げながら
いざ宝殿遷座祭!

境内につくと、
さっきの黒スーツおじさんたちと宮司さんは
社務所のほうで並んで既に何かをしていた。

そして池の前で祝詞を読み上げる。
(残念ながら何と言っているか聞き取れなかった)
f:id:ko9rino4ppo:20160618215000j:image
布橋に上がるためのお祓い的なものなんだろうか。
これをして、まずはスーツおじさんの一団が布橋へ。
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おじさんの家族らしき見物人さんが
「あーあ、あれじゃ靴わかんなくなるわねぇ」
と呟く。確かに、みんな黒い革靴を脱いで上がる。
そして、さらに神職さん同士でのお祓いみたいのがあって、f:id:ko9rino4ppo:20160618214940j:image
その人たちも布橋へ。
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f:id:ko9rino4ppo:20160618215244j:image
雅楽の生演奏の中、まずは神宝が移動。
鏡・弓・薙鎌・太刀・鉾。
f:id:ko9rino4ppo:20160628014716j:image(↑弓)f:id:ko9rino4ppo:20160625220142j:image(↑薙鎌)f:id:ko9rino4ppo:20160625220239j:image(↑よく見えない。太刀?鉾?)
そして、ついに神輿。
ここ↓に御霊代が乗っているんだろうか。

下社の宝殿遷座祭は「御霊代、遷座」と言われるが
今回は「御霊代」でなく「神輿」という言い回しだった。
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しかし、なんでこんなにモコモコ?
と思うかもしれないが
なんと遷座のたびに藩主さんが緞子を奉納し、
それを「新調する」のではなく「重ねていく」そうだ。
なんとゆうか、オシラサマ方式だな。
なんでタスキ掛けが右の人と左の人がいるの?
と思っていたが、写真をアップにしてみると
タスキに神輿の棒を入れて担いでいるのがわかる。
右を担ぐ人と左を担ぐ人だったのか…

…とか考えていたら
町内のスピーカーから「エーデルワイス」が流れ始め、
雅楽と変な感じにミックスされているではないか!
誰も声に出してツッコまないものの、見物人 苦笑いである。
なんだ?正午の時報なのか?
今日ぐらい、大社の近所くらい、放送切ればいいのに…。

下の写真は、
神輿が通る場所に敷いた布を片している現場である。
この布が、この廊下が「布橋」と呼ばれる由来だそうだ。
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そして、いろいろ読み上げたりした後に
今度は果物などの御供物が東宝殿へ供えられる。

分からないけれど、
植物も弱ってない時期を選んで植え替えて
植え替えしたらたっぷり水あげるよね。

もしかしたら、遷座もカミサマ疲れるのかもな。
だから、移動後の栄養補給的な?

もしくは「こっちの家もいい場所ですよ」って?

と、ぼんやり考えていたり。
今までの6年間の力が染みついたおうちを出て、
普段人が通ってる布橋を通って、
まだ御宮とゆうより木の感じが強い建物に移って。
疲れるよな、そりゃ。

ちなみに昔は、
新築したばかりの宝殿に引っ越すのでなく
神様が引っ越したら
今までいた方の宝殿を新築したらしい。
いつの間に、どうしてピカピカ新居方式に…?

さて。
こちらがさきほど
遷座開始前に祝詞を読み上げていた池。
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大社の神様は神居に居るのか宝殿に居るのかよくわからないが、
どちらにしろ、この清祓池のほうを向いて祝詞を読めば
神居・宝殿にはお尻を向けることになる。

しかし、今回のみならず御頭祭でも何でも
ことあるごとに この池のほうを向いてお祓いやらをして
そして神事(祭)が始まるのである。どういうわけなんだろうか。

大体、この池は大社にとってどういう場所なのか?
そこすらよく分かっていないのだが。
ただ 妄想として 昔はコレ
諏訪湖に向かってやっていたんじゃないか?
という気がしてならない管理人である。

まず、この本宮の住所「諏訪市中洲」。
中洲ということは、周りは川か湖だったわけだ。

そして(一部移築したとはいえ)
今となっては湖に面しているだけの高嶋城も
富嶽三十六景↓では まさに「浮島城」。
カンペキに湖上に建っているように見える。
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そしてさらに、諏訪の古地図を見てみると
いまより諏訪湖は広かったように思える。
今は湖からやや離れている地名も、湖畔にあったりする。
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↑こちらは元禄時代の地図。

大雑把なやり方ではあるが、
上の地図の地名を今の地図で探して
地名と諏訪湖の位置関係で見ると分かりやすい。

大体この水色で塗ったあたりは諏訪湖とその支流!
ということになる。
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「赤沼」や「福嶋」は位置や形からおそらく
画像上方から諏訪湖に流れ込む河川の力で
湖の入口に堆積した三角州である。

三角州ということは
堆積し始める前はここも湖の底だったということだ。
そうなれば、本宮の前はもう諏訪湖

さらにダメ押しで、
上社の御柱曳行では最後本宮についた柱を
船(の神輿?)が出迎えるのをご存じだろうか。
みんなが賽銭を投げ込んでいるアレだ。

「これは、長野の氏族がモトは九州の漁民で云々…」

という話もあるが、
そんな難しい歴史の話をしなくても
(※安曇氏が九州系漁民だというのは事実らしいが)
そもそも昔は大社さんの鳥居近くまで諏訪湖が広がり
本宮前に御柱が到着すると
実際に船で出迎えに行っていたのかもしれない。


方向的にも、それなら大体合うだろう。
妄想の域は出ないけれど、
全く根拠がないわけでもないのでご容赦願いたい。

諏訪湖どころか
上社と下社の関係すら謎のままだが、
摂社葛井神社達屋酢蔵神社を見ても
諏訪大社グループは結構「水」を重んじているようだし。

御柱曳行に比べると宝殿遷座は地味くさいな」
…と思ってしまう人も多いだろうけれど、
祝詞諏訪湖に向かってあげていた」
と思うと何ともスケールの大きい神事ではないか。

ということで、諏訪に関する妄想は全然終わらないが
今回の式年造営は、これにて終了~。
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近戸神社で(゚д゚)ハッ!(+α 阿夫利神社)

いまどきなかなかお目にかからない、
車掌さんが切符をカシャッとやってくれる上毛電鉄f:id:ko9rino4ppo:20160606210524j:image

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北原ゆうきちゃんに見送られて、
中央前橋駅から粕川駅まで出発~。
粕川駅で降りると、周りは一面の麦畑。
農家のおじいさんたちが軽トラに乗りながら、
こんな時間にこんなところを歩いている女子、
いったい何が目的だんべ?
とこちらを見ている。
 
阿夫利神社
歩いていると、畑や民家の隣に突然神社が。
目的の神社ではないのだが、
習性で鳥居や鎮守の森を見つけると吸い寄せられてしまう。
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拝殿らしい建物には「神明宮」と書いてあるが、
こんなところでいきなりアマテラス…?
と思っていると、神社のわきに新しそうな鳥居があり
そこには「阿夫利神社」と書いてある。f:id:ko9rino4ppo:20160606210713j:image
しかしその向こうには神社らしい神社はなく、末社のような小さな祠ばかり。
祠たちの扁額部分を見てみると、
養蚕の神様の聖地「蚕影山」。
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そしてこの写真の向って左、鳥居の主と思しき
「阿夫利大神宮」。
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阿夫利神社とは、いかにも当て字っぽい
なんだか気になる名前…。
と思って「あふり」で検索すると大量にラーメン屋がヒット!
なんでじゃ((((;゚Д゚)!
と動揺しつつ、ちゃんと漢字で検索すると…。
 
前回の記事で石尊大権現さんが少し出てきたが、
その神奈川県伊勢原の大山にあるのが
大山阿夫利神社」だったのである。
神仏習合時代の神様は石尊大権現と天狗たち。
「阿夫利」の名前は「雨降」と書かれた時代もあり、
雨乞いの対象でもあったそうだ。
 
気になることに、
最近まで大山阿夫利神社神社本庁に属さず
阿夫利神社本庁という形で単独で運営していたらしい。
(by Wikipedia
 
おそらくだが、なかなか力があったからこそ
それが可能だったのだろうと思われる。

今回の粕川のように、
前橋の中でもちょっと山寄りには
前回書いたように石尊大権現の祠や石塔が多い。
石尊大権現を祀る神社は神仏分離以降
ほぼ祭神を大山祇(オオヤマツミ)としてきたので
単に山岳信仰文化圏だから石尊様、と思っていたけれど。

石尊大権現さんがたくさん居るのは、
大山阿夫利神社の勢力圏だったからなのかもしれない。
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しかしこの神明宮の提灯がついた拝殿は
もとから神明宮だったのか?と見てみれば、奥の角っこに
大山阿夫利神社□□記念と書かれた白黒写真が!f:id:ko9rino4ppo:20160606211630j:image
□の部分は目が悪いのと、
写真をアップにしても見えなかったので確認はできないが…
この神社に神奈川から阿夫利神社の石尊さまをお招きした時の写真なんだろうか。
拝殿の瓦などは結構古そうなので、
もとは阿夫利神社として建てた建物を神明宮としたんだろうか。
(例えば神社本庁の傘下に入ったタイミングとか…)
 
*近戸神社*
そしてそこから徒歩でしばらく。
(と言っても30分はかからない)
群馬県前橋市粕川町月田。
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レトロなタバコ屋を通り過ぎ…
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近戸神社が現れる。今回のお目当て神社である。
今回は、
群馬最古の狛犬があるとゆう話で目的地を決めたわけで。
もったいぶっても仕方ないので、
サラッと出してしまうとコレがその狛犬
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なんともいえない、丸っこい体つきである。
平面的な尻尾もまた塔婆(?)のようで特徴的。
パグ系のブサカワ狛犬である。(いや、可愛いくないかな…)
ちなみにこちら、鳥居入って両脇とかでなく
境内奥の藪っぽいところに2匹並んで仲良く座っている。
一匹破損してしまったので代替わりしたらしい。

そしてさらに奥に進むと獅子舞の練習場があり、
そして細い道を挟んで向こう側には…!
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何とも言えない数の庚申塔が!
知らない人が見たらお墓かと思ってしまうような量!
しかもなんか真ん中に向かって、
ここに立っていると庚申塔に囲まれてる感がすごい!
そして一対の大きいサル!
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と、庚申塔エリアを堪能したところでまた境内に戻る。
拝殿は、真ん中に「近戸神社」の扁額。
そして向かって左に「蠶玉山大神」の扁額。f:id:ko9rino4ppo:20160608124254j:imagef:id:ko9rino4ppo:20160608124820j:image
なんかココまで、
狛犬のことしか考えてなかったんだけれど…
たぶん現物を見て少し落ち着いたんでしょうね。
いろんな回路がつながってきましたよ。
そして(゚д゚)ハッ!と。
近戸近戸って、土地かなんかの名前かと思ってましたけどねー。
こないだ会ったばっかりの神様がいるじゃん!ってね。

長野ですよ!
洩矢神の孫にして、
御頭祭に供える鹿を狩る役目を担っていたのではという!
チカトさまじゃないですか!?
そうでなければ、こんな片田舎で
赤城大神の御膝元で正一位なんて不自然じゃん!

と、一人でテンション上がったところで
またスズメバチに追いかけられて
コソコソ逃げ回る管理人(;´Д`A
どうやら狛犬の藪付近は巣があるらしい。
裏手を探索できず…。

しかたなく、表のほうで説明版を読んだりする。
ふと見ると携帯の電池は残り3パーセント。
仕方なく何かの資料になるかとこの辺を写真に撮ってみた。
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天井は、最近修復したのか保存がいいのか
以外にも鮮やかな格子天井。家紋?
そして壁には神馬の絵のほか、切り絵のような月田の獅子舞。
(画面のノイズは汚いガラス越しに撮った為のもの。オーブじゃないよ。)
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そして、もっと何かわかるのではと別の近戸神社へ。
まずは同じ月田にある近戸神社。粕川を挟んで対岸である。
(とはいっても、先の近戸神社はそんなに川から近くない)
微妙に公園を兼ねているためか舗装がされていたり、
吊り橋みたいな感じの橋があったりして
鳥居が古そうなのだがありがたみは薄め…
御旅所?の天井の竜も、
神獣というよりどことなく妖怪じみているような…
(※勝手な偏見です!)
ということで早々に後にしてしまった。

続いて前橋市笂井(うつほい)町にある近戸神社へ。
小学校のすぐ隣であるが、全く人はいない。
(まぁ、そりゃそうか。休日の夕暮れだし。)
入ってみると、そう大きくはなく、拝殿の屋根もトタン風。
もう暗くなり始めていて確認できなかったけれど、
こういうトタン風の板で萱葺を覆っている神社も結構ある。
葺き替える萱と人が足りないんだろうか。

こないだ子供向けの本の
「神社とお寺の違い」みたいなページを読んだら、
お寺は瓦葺き、神社は萱葺と書かれていた。
見てる中には結構瓦葺の神社もあるけど、
あれはもともと権現様とか(そうゆう神仏グレーゾーンの)
がいるお寺を神社にしたんだろうか。

そうかんがえると、
見た目はしょぼいけど萱葺を存続できなくなって
トタン屋根にしている神社のほうが…
実はホンモノだったりするんだろうか。

さておき、ここの説明を読むと
祭神は
オオナムチ、大日孁(オオヒルメ、アマテラスの別名)
オオヤマツミ菅原道真公。

末社の扁額部分を見ると、
この辺でおなじみの絹笠神社、阿夫利神社のほか
全国チェーン琴平神社秋葉神社愛宕神社…etc。

さて、ここから。
「笂井とゆう地名を付けたのは南朝の藤原さんという役人。
奈良にいた時の氏神様をここにお招きして、
その春日の末社として祠を立てて「千鹿頭明神」と称した」

ほらやっぱりチカトウ様じゃないか!
ふんふん、それで(=゚ω゚)?

「大胡城主の牧野さんが御神徳に着目して、
 城内に社殿を作り近郷の総鎮守となった」と。

殿様に気に入られると強いよね。
しかし元は春日の末社だったって?
じゃあなぜ今、末社だった千鹿頭(近戸)が社名に?

鹿?まさか鹿つながり?
南朝の藤原さんってことは、
藤原氏だから氏神春日大社を勧請したわけでしょ。
で、春日の神使いは鹿。
でもその名残だっていうなら何故祭神は
タケミカヅチでもフツヌシでもないのかは疑問…。

説明板には
北条氏の兵乱で社殿や記録を焼失」
とあったので、
春日様だったことはいったんリセットされちゃって
名前だけが残って「近戸さま」だった時代が長くて、
その後神仏分離かなんかで
「ちゃんと神道の神様祀りなさいよ?」って言われて、
じゃぁ、月田の近戸神社もオオナムチだし そうしようか?
みたいになったんだろうか。

月田の近戸神社に倣ったなら
豊城入彦もいていいはずなのだが…
その辺も気になる。

あと、別に長野から招いたとかは全然書いてない。
でも諏訪大社も春日の神様・タケミカヅチが乗っ取ったし
(人聞きが悪いかな…)
その時から東方に流れた藤原氏
鹿を神使とする春日様と一緒に
同じく鹿である千鹿頭さまも祀るようになったとか
同一視して大事にしていたとかあるのかな…?

だとすれば、
長野土着の神様が霊験によって近隣の県に広まった
と考えるよりも信仰が広範囲に広がっていることは納得できる。

蛇足だけれど、
アマテラスという天津神でなく
オオヒルメという名前には
天皇さんとか関係なく単に太陽神(自然神)として祀ってる
みたいなニュアンスを感じて個人的には好き。

電池切れで
最後は写真がまったくなくなってしまったけれど、
地元で千鹿頭様に再会できた楽しい散歩だった
♪( ´▽`)

三夜沢&二宮赤城神社

二宮赤城神社
いままで当然、赤城山山頂にある赤城神社
「大洞赤城神社」が赤城神社総社だ!
と思っていたのだが…
今回行った2つの赤城神社も交えて
どれが大元かはいまだに定まっていないらしい。

まずは二宮赤城神社
我が家から国道50号沿いに9km、自転車をこぐ。
平地なので楽なものではあるが、
到着し近づいてみると鎮守の森に烏が巣食い、
町のカラスのような朗らかな声でなく
ギャッ!ギャッ!と
悪魔のような声で鳴いているではないか!f:id:ko9rino4ppo:20160531013624j:image
決して山奥ではないのだが、
鎮守の森の中は結構暗い。
しかも参道には、カラスたちが食べて
木の上から殻を捨てたのか大量の卵の殻が。
鶏のものよりは少し小ぶりだが、真っ白。
f:id:ko9rino4ppo:20160531013557j:image
小心者なので恐れおののきながら
参道を抜けると随神門が。
中には右大臣・左大臣のようなもの。
手前には神様の名前が刻んである五角の石。f:id:ko9rino4ppo:20160531013734j:image
オオナムチ、スクナヒコナ
ハニヤスヒメ、ウカノミタマ、アマテラス。
f:id:ko9rino4ppo:20160531013823j:image
仏像の足元で踏みつぶされている邪鬼のような
かわいらしいおじさん(?)たちが灯篭を支えている。
f:id:ko9rino4ppo:20160531013849j:image
中に入ってみると、
案外広く平らにひらけている。
f:id:ko9rino4ppo:20160531013946j:image
案内板はところどころ消えてしまって、
大事なところが読めなかったりする。
f:id:ko9rino4ppo:20160531014033j:image
拝殿は、階段に柵がしてあって覗けなかった…

末社たちを見てみると、
こちらの奥まったところにいるのは秋葉大明神。f:id:ko9rino4ppo:20160531014131j:image
天満宮庚申塔道祖神など大手全国チェーンの他…f:id:ko9rino4ppo:20160531014206j:image
f:id:ko9rino4ppo:20160531014227j:image

「石尊宮」つまり石尊大権現さん↓
f:id:ko9rino4ppo:20160531014433j:image

こちらは養蚕と関連深い神様たち、
「蝅影大神」さん↓
f:id:ko9rino4ppo:20160531014449j:image
「絹笠天神(大明神)」さん↓かな。

f:id:ko9rino4ppo:20160531014508j:image
などが居た。

石尊大権現は、
神奈川県伊勢原の大山信仰が出所と言われている。
ちなみにこの大山の頂上には霊石が祀られていた、
と言われているので名前の通り石信仰なのだろう。

蚕影大神に関しては、
茨城県つくば市の蚕影神社が総社らしい。
群馬も「富岡製糸場」があるように
養蚕が非常に盛んな地域だったことから、
(拝殿を持つような蚕影神社は多くはないが)
このような末社としては結構あちこちで見かける。

絹笠天神は、
咲先神社の記事で話したかもしれないが
弁天様のように唐人風の服でよく描かれる女神様。
繭の育成や養蚕に従事する女性を見守るほか、
蛇信仰と習合し蚕を狙うネズミを除けてくれると言われたそうだ。

二宮赤城神社」は奥宮か里宮かと言ったら、
大洞や三夜沢と比べて明らかに里宮なわけだが。
※位置関係↓
f:id:ko9rino4ppo:20160608201918j:image
しかし、
権力者の墓である古墳が周辺に多いことや
3つの赤城神社で唯一「二宮」と名乗っている
(=上野国二宮であると明言している)
ことから赤城神社の大元ではないかと推されているのである。
さて、どちらがモトかは分からないものの、
この二宮赤城神社と里宮-奥宮関係にあるのでは?
と言われている三夜沢赤城神社に向かう。

 

*三夜沢赤城神社
なんと、15kmの上り坂である。
手元の気温計は37℃を超えている。心して掛かるべし
( ̄Д ̄)ノ!
なんだか途中には
「ここ、畦道じゃん。ちゃんと公道に出るんだろうね」
「え?森の中に入っていっちゃうよ」
とゆう道もあり、さらに季節柄ハチが!
スズメバチが!
((((;゚Д゚)))))))
※管理人は一度スズメバチにやられているので、
 次はヤバイと思っている。
 アナフィラキシーで人気のない山林で死にたくない。

暑い中、長袖を引っ張り手の甲まで隠して
フードをかぶった上 タオルを鼻から下に巻いている。
コイツは怪しい。即通報だ。しかも熱がこもる。
汗をかいたそばから蒸発して、
触ってわかるほど顔は塩ふいている!f:id:ko9rino4ppo:20160601014549j:image…とゆう状態でやっと到着。
二宮赤城神社と比べると、シブくて大きな鳥居である。
私のちっぽけな折りたたみ自転車も写っているが、
小さすぎて見えないレベル(笑)
鳥居をくぐると、そこにはなんとも豊かな
鯉の池に囲まれた手水鉢が…!f:id:ko9rino4ppo:20160601013730j:image
無礼かもしれないが、洗顔するべし!
首にも水をかける!手の先と言わず、腕全体を清めるべし!

…かくして、
シャワーを浴びたのかコイツは とゆう瑞々しい(?)状態になり、
サッパリしたところで赤城大神 訪問!f:id:ko9rino4ppo:20160601014721j:image石灯籠には 赤 城 の文字!f:id:ko9rino4ppo:20160601003446j:image
これより奥は完全に山とゆう感じなので
鎮守の森もなかなかの面積なのだが、
木の間から光がキレイに入ってきて重たい暗さを感じない境内。f:id:ko9rino4ppo:20160601003524j:image他にも何組か参拝者が居た。
当然の如く、みんな車のようで涼しい顔をしている(´Д` )
拝殿はうまく覗けなかったが、
むしろ周囲が上り坂なので本殿周辺がよく見えた。
きれいに光が差している。
f:id:ko9rino4ppo:20160608202028j:image
本殿はあまりジロジロ見てはいけないのかもしれないが、
「天然記念物 赤城神社たわら杉」という立て札もあるし
覗かれることを前提にしているのだろう。
という言い訳のもと覗くと、なにやらロケットのようなものが。
f:id:ko9rino4ppo:20160608202053j:image
仏塔か?宝塔か?
確かにこの辺りは宝塔の多い地域ではあるが、
なんだかちょっと違いそうだ…。
後で数枚撮った写真を拡大してみると、
土台?部分に
「戦利兵器奉納ノ記」とある。

「明治三十七八年役戦利品の一にして
 我が勇武なる軍人の熱血ヲ濺キ
 大捷ヲ得タル記念物ナリ茲ニ謹テ之ヲ献…」

…までしか読めない!
形からして納められている戦利兵器は砲弾かな。
拝殿(いや、神楽殿だったかな)の横の扁額も、
宮城村出身の陸海軍・青年会から奉納されたものだった。
f:id:ko9rino4ppo:20160608202118j:image
昔、グンマーを統治した上野毛氏が創祀して以来、
統治者や武将の信仰も篤かったそうだし。
赤城神話で助太刀をした俵藤太も弓の名手だったし。
戦勝・武運にはゆかりのある神社なのかもしれない…。

ちなみにこちらは、
赤城山山頂にある大洞赤城神社が「総社」を名乗った際に
「我が社こそ総社である」と訴えを起こしているわけだが。

総社がどちらであるかはまた別としても、
年に2度(4月と12月の初辰の日)
先ほどの二宮赤城神社から御神体が日帰り遷幸する「御神幸」が行われる。

日帰り遷幸の意味はもっと調べないとまだ謎だけれど、
この2つの宮が特別な関係なんだろうなぁというのは何となく伝わる。
これは今後も要追跡調査(=゚ω゚)ノ!

*赤城神話*
どんな山にも神話はあるものだけれど、
その山のある地域の人以外は大抵知らない。

なので、ついでに赤城神話について紹介。

大まかな話の流れとしては、
群馬は赤城山の神・大ムカデと
栃木は男体山の神・大蛇が戦うわけであるが。

どうやら赤城山には水が乏しかったので、
栃木・中禅寺湖の水を奪おうとした赤城の神が発端らしい。
日本昔話を見てみると、
赤城の神様が傍に仕える仁王に「盗んでこい」と言っている。

略奪!侵略戦争!((;゚Д゚)))
どうやら赤城の神が全面的に悪役らしい。

とりあえずココからは
全国展開(?)されているほうのストーリーを紹介するが、

男体山の大蛇は押され気味である。
そこで、弓の名手に助太刀を頼むことにする。
そして見事に人間は大ムカデの目を射り形勢逆転。
侵略者の大ムカデはあえなく撤退してめでたしめでたし。

的なあらすじである。
助太刀にはいくつかのバリエーションがあり、

①先ほど紹介した俵藤太

本名は藤原秀郷。一番有名な功績は平将門を討ったこと。
下野国あたりが彼に与えられていたので
栃木というのはあながち間違ってはいないのかもしれないが…
ただし、彼のムカデ退治伝説はもともと
「琵琶湖の竜神の娘に助けを求められ、
 竜神の地を荒らす滋賀県三上山のムカデを討った」
というお話らしい。

遠い土地の話では流行らないからと
こっちで語られるときに関東バージョンができたんだろうか…

②小野猿
人物の詳細は不明だが、三十六歌仙の一人ともいわれる。
「奥山に もみじ踏みわけ鳴く鹿の―」の猿丸太夫サンである。
話によって「猟師」or「狩猟の名手」とかかれる場合あり。
その情報では正直、身分も職業もよくわからない。
二荒山の神職が小野氏という家系であることと関係があるのかも。
しかし、二荒山の神が直接彼に頼んだのではなく
白い鹿の姿をした神が彼を山まで引き寄せたとされる場合もある。
この白い鹿は「二荒山の神」と名乗ることもあれば
鹿島神宮の神」と名乗っていることもあるらしい。

鹿島神宮は茨城だから近所といえば近所だが…
男体山にいるのは神道で言えば
オオナムチ・タゴリヒメ・アヂスキタカヒコネ
香取神宮タケミカヅチとは大して親密とも思えない。

だとすれば、
天津神タケミカヅチがこの地に勢力を伸ばす以前
つまり大和政権による地方平定が進む以前に鹿島を収めた
「香島の天の大神」が、二荒山大神に助け舟を出した。
という風にも考えられるだろうか?

③磐次磐三郎

こちらは、あまり日光・赤城の神話の流れでは語られない。
東北や、関東北部の民話が主な活躍の場。
彼は狩猟民の祖で、弓の腕で日光の神を助けたことにより
狩猟を行う権利を神から得たのだという話らしい。
(管理人も今回調べていてはじめてであった人物だった)…


とゆう3バージョンがあるらしい。
ちなみにバリエーションとゆうのは憚られるが、
群馬県民である管理人は
「目を射られた大ムカデは温泉で傷を癒やして勝利した」
と聞いて育った。
(実在する「老神温泉」がその現場であるらしい)

ちなみに、
赤城山には大沼と小沼があり それぞれに神様がいる。
本地仏は千手観音さん(大沼)と虚空蔵菩薩(小沼)とされた。
覚満淵の地蔵菩薩とあわせて、赤城三所明神と呼ばれている。
実際の神様は赤城大神とか大沼明神と呼ばれたりするのだが、
本地垂迹説により神様の真の姿は仏様だとされた名残である。
赤城山麓の寺院でも
神仏習合時代は赤城山の神様を祀っていましたよ」
とゆうことでご本尊が虚空蔵菩薩、とゆう場合も多い。

この大沼&小沼だが、
伝説上は先述の赤城の仁王さんが
中禅寺湖の水を盗んでこい」と言われて
最初に右手ですくって投げた水が大沼。
次に、
奪われまいと迎え撃った二荒山の仁王様を振りほどき
左手でかろうじて救って投げたのが小沼。
と言われている。

と、いうことは…だ。
いまは各沼や淵に神様があてがわれているが、
本当は大沼と小沼ができる前から
赤城山自体の神様が居たことになるわけだな。
きっとそれが赤城大神という神様なんだろう。

好戦的な性格や今までの話からは
猛々しい男神なのかという気もするけれど。

もう一度三夜沢赤城神社の本殿を見ていただくと、
千木(屋根の両先端部分にあるV字状のパーツ)が
内殺ぎ(うちそぎ)となっているのが確認できる。
つまり先端の切り口が地面と平行になっているということだ。

例外はあるものの、
基本的にはいらっしゃる神様が女性の場合内殺ぎ
男性ならば外殺ぎ(切り口は縦=地面に垂直)とされている。
そう考えると、ここにいるのは山の女神さまなのかもしれない。

しかし、二宮赤城神社
現在の名目上の神様はこの三夜沢と同じはずだが、
本殿の千木は外殺ぎだったような気がするなぁ。
(ハチにおびえてゆっくり撮影できず記憶だけが頼り)

しかし、男神と女神だとすれば
年に2度の日帰り逢瀬もなんとなく納得できる。

…まぁ、千木には結構例外もあるので
殺ぎの向きだけであれやこれや言うのも早計なんですけどね。

ちなみに山頂にある大洞赤城神社
小学校のオリエンテーリングで登ったことあるけど
めっちゃハデハデの朱色で
個人的にはあんまり好みじゃない。

赤城山麓で育った赤城っ子だから、
赤城山は好きだけどね!
夏の夕立でドッカンドッカン落雷する姿なんて最高!

でも神社的好みで言えば完全に榛名神社が好きだよ!
あのほとんど木地の色が出てるゴテゴテ彫刻の…

管理人の本名も、榛名山に由来する名前だしね!

…最後の最後で何が言いたいかよくわからなくなったけれど、
こんなに山体信仰の色濃い地域に生まれて
なんだか恵まれてるなぁ。と思う今日この頃です。
(全然まとまってない)

左十字紋と守矢家

神長官守矢資料館に行き、
そこの屋根にある家紋を見たら、
f:id:ko9rino4ppo:20160625211259j:image
こんなだったわけですよ。
ん?島津藩
ってなりますよね。なったんですよ。
で、どっからきた!?ってなったわけで。

当初の予想としては柏紋だと思ってたわけですよ。
だって、物部守屋神社も洩矢神社も柏だもの。
表記も祭神も違うモリヤ神社が同系統の家紋なら、
当然このモリヤも!って思ったんですけどねー。
完全にハズレました。

じゃあこれ何なのかな、
と思って調べたことまとめ。

*島津家は信州にもいた*
そもそも、島津=薩摩!!というイメージがあるが
調べてみたら島津氏の祖は別に薩摩の人ではなかった。
モトの名前は惟宗忠久。(島津さんですらなかった!)
彼は鎌倉の御家人で、平家追討の褒美として
伊勢国波出御厨・須可荘地頭・島津荘下司に任命された。
さらに同じ年に信濃国塩田荘地頭にも任命されているのだが、
こんなに離れた土地の役職について大丈夫なんだろうか。

ともかくそんなわけでいろいろな土地を任された忠久さん。
一番広い土地を本拠地(?)にしようということで、
苗字を島津に代えたそうな。

そんなわけで、島津家はもともと
信州に関係のある氏族だったというわけだ。

さらに、そこから数十年経っても
島津家と信州の縁は切れなかったらしい。
信州の御家人たちは持ち回りで
諏訪の五月会・御射山の祭祀役員を務めたらしいが、
そこにも忠久や、その子孫たちの名前がたびたび出てくる。

御射山神事では相撲や鹿狩りなどが行われ、
昔は上社・下社ともに行っていたもの。
当然そこには神長官だった守矢氏も携わっていただろう。
どういう関わりがあったかはわからないが、
家紋を賜るということもなくはないだろうと考えられる。

…御射山祭りのホームページを見ていたら
「下社の御射山祭りは、下社大祝・金刺氏が
 上社に滅ぼされてからというもの衰退してしまった」
というようなことが書いてあった。
え、なにそれ。その話気になるんですけど。
神官〇〇氏に、とかじゃなくて上社に滅ぼされたの?

*矢の神と十字*
ま、とりあえずなんかその陰謀っぽい話は置いといて
今回調べるまで知らなかった「矢口餅」というものがある。
「矢口祝い」「矢開き」と呼ばれる風習に用いられるもので、
猟を行ったもの(特に年少者や初めて獲物を獲った者)が
餅に十字を切って本人や村に重役が食べるのだそうだ。
猟の成功を祝い、また感謝するために行うと考えられるが
主役が「年少者や初めて獲物を獲った者」というところで
通過儀礼的側面も指摘されている。

もちろんこれにもさまざまなバリエーションがあると思うが、
鎌倉幕府の記録に残っているものでは
三食(赤・黒・白)の平たい餅を重ねて、戦勝祈願として
弓の達者なものが3人選ばれこの餅を食べるという儀式らしい。
あくまでも、戦いとか、武器なら何でもとかでなく
「弓」と「矢」なのである。
さらに言えば、この儀式は獲物を与えてくれる山の神と
そして「矢口神」と呼ばれる神に向けたものらしい。

洩矢・守矢も「矢」だしな…
これは気になる話だ。

と、とりあえずメモなのでこれくらいにしておこう。
調べれば調べるほど、知らないことがいっぱいだなー。

(;´Д`A

守屋山アイヌ語説&木遣ヲナリ神説※妄想です!

さて、先日の記事では
とりあえずこれは事実だろうというところを書いた。
今日はほぼ完全に妄想の世界なので、
諏訪大社やモリヤ神社に関して正確に知りたい方は
他ブログ様のほうがオススメである。
(自分で書いておいてなんだが)

アイヌ風な気配*
まず、守屋山と生贄やらの関係を
ネットで探索しようとすると必ず出てくるのが
「守屋山はユダヤ教の聖地 説」。

旧約聖書でイサクという男が
父・アブラハムによってモリヤ山に連れて行かれる。
神がアブラハムにそう命じたのだ。
アブラハムは息子を神への供物にしようと、
息子を縛りつけて刃物を振り上げる。
しかし、するといつの間にか木陰に羊が現れ、
アブラハムは息子を屠るのをやめ羊を供物とするという話だ。

その山と守屋山の名前が同じことや、
生贄にしようとした後でやめるという
諏訪大社の「御頭祭」と同じ筋書き、
そして動物を供物とすることetc…
数々の類似点によりこの説が裏づけられる!
という説明なわけで、
実際ユダヤ教の方が礼拝に訪れた映像なども
ネット上にはあるわけだが。

それはそれとして、
管理人はチカト、モリヤといった名前を聞いたとき
真っ先にアイヌ語っぽいなーという印象があった。
実際のところどうなのかはわからないが、
無理にアイヌ語として解釈すると

モレラ・・・ゆっくりと吹く風
モリヤ・・・毛皮を剥ぐ小さな岸
チカトー・・・私たちの上にある沼

…まぁ、無理やりやろうと思えば
どんな風にでも解釈できちゃうのだが。

守矢資料館敷地内にある神社?にもミシャクジ様がいるし、
諏訪大社でも古い資料や案内板を見れば
ミシャクジさまは蛇神と同一視された大事な神様だ。

そのミシャクジさまは石に対する信仰で、
石信仰は日本先住民族の信仰の一つであり、
アイヌ先住民族のひとつである。

アイヌ文化圏の人々が当時はまだ長野あたりまで居て、
石神を信仰し、
海に比べれば小さな、諏訪湖畔の岸で獲物の皮を剥ぎ
神に猟の成功を祈り感謝したかもしれないし。
その皮を剥ぐ小さな岸(モリヤ)から見上げる山を
モリヤ山と呼んだかもしれない。

または、
タケミナカタも「元寇の際に神風を吹かせた神」とされるが
そうした能力はモレヤ(ゆっくりとした風)が吹き渡る山の
モレヤ神と習合した為かもしれない。
※突風と雷の国・グンマーの民である管理人には
 長野の風→緩やかとゆう印象があるのであった。

長野の黒部ダムの「クロベ」は
アイヌ語で「魔の川」と言う意味だ、という説もあるしね。
長野ばかりか東北〜関東にかけて
アイヌ語が語源と思しき地名もあるのだから。
ありえない話でもあるまい。

 

*ヤサカトメを娶って土地の神に*

さて、かなり出まかせ感のある妄想に走ってしまったので、
少しは根拠のありそうな妄想も。
まずヤサカトメの名前である。
なぜヤサカ「ヒメ」ノミコトではなく、
ヤサカ「トメ」なのか。

アマテラスが天岩戸に隠れた際に、
八咫鏡を鋳造したとされる神様もまた
イシコリ「ドメ」と言う名前を持っている。
彼女を調べてみると、
トメというのは女性首長に用いられた称号らしい。

ということは、
ヤサカトメもまた女性首長だったのかもしれない。

その彼女を妻として娶ることで
ヨソモノであるタケミナカタは諏訪の一員となり
信濃の神の地位を手に入れることが出来たのでは?

日本神話などでも、
神が出向いた先でその土地の蛇神などを殺し
救った土地神の娘などと婚姻を結ぶことは
珍しい話でもない。

データ的には上社・下社ともに
タケミナカタ・ヤサカトメ両神を祀っている!
とされているが、
なんだか見ていると下社にヤサカトメがいて
前宮も本宮の摂社あつかいながらヤサカトメがいる…

…むしろタケミナカタさん、本宮にしか居ないじゃん!
しかも「前宮はもともと本宮の摂社」とか言いつつも、
「元宮が諏訪大社の始まり」みたいなこと聞いたんですけど。

通い婚どころか、まさかの婿入り形式か?
なのに家柄を利用して「俺の神社だぜ」って顔してないか?
このへんは今後の要追求事項ですな。

*木遣り歌と女性*

前回、
女性は御柱には乗れないが
木遣り衆としての参加は昭和に解禁になった!
とゆう話をしたかと思うのだが。
後で新聞読んで知ったので追記しておくと、
今年初めて上社御柱のメドデコてっぺんに女性が乗ったそうだ!

しかし元から女性は、この神事から阻害されていたんだろうか。
曳行の道のりの途中、
道の脇に続く斜面には度々 不動明王などの石仏が現れる。
山岳密教的な文化もある程度ある地域みたいだ。

その仏教文化が流入した影響で
山の祭りから女性が排除された可能性は無いだろうか。
山々の木にも阻まれず空を突き上げるようなあの歌が
たくさんの女性によって歌われる空気感。
個人的には聴いていてすごくシックリきた。

山間の集落や猟師さんの間では、
山の神は不美人な女性なので女性に嫉妬する!
と言われるそうだが、
それはおそらくコノハナサクヤの姉・イワナガの話。

今回のヤサカトメさんの名前からは、
人里から離れた山神とゆうより
人里から見える部分、人の通る山道を治める女性首長
…とゆうニュアンスを感じる。
既婚者だし。嫉妬もしないはず!

なので、
女神様自体が女性を拒否しているワケではない…!

と 雰囲気で決め付けて(オイ)
御柱祭りを見ながら勝手に妄想に走っていた。


①昔の集落では女性が神託で共同体をまとめ
 男性は補佐役として為政者となることがあった
 (卑弥呼など)

②かつて権力の強弱こそあれ女性はみんな巫女であり、
 兄弟を守る力があるともされた。
 (ヲナリ神信仰など)

そのあたりから、
まずヤサカトメは山間部を取りまとめるリーダー的女性で
彼女のもとで行う目に見える儀礼は男性が、
危険な儀礼のなか唄で神の力を呼び男性を守るのが
男性たちの姉妹であり共同体の巫女の役割だったのでは。

御柱は、そう!男性の技量と度胸を見せ付けるとともに
女性の巫女としての力量が試される祭典だったのだ!
…とゆう適当すぎる妄想が止まらない(=゚ω゚)!

まったく次から次へと出任せばっかり書きよって
専門的見地から見たらまったく的を得とらんわ!
と怒りながら読んでる玄人さんとか居たらすいませんね。

まぁそれほど、
四方八方から女性の木遣り唄が聞こえるのは
シックリきたわけですよ。ゆるして(*´・x・`)

疑問なことや繋がりそうなことは尽きないけれど、
ハマると諏訪大社から抜け出せなくなりそうなんで
これくらいでやめときます。
また何かわかったら追記でもしよう。



神長官守矢資料館で聴き込み。

前回は諏訪大社について
「なんとなく分かった気になる」記事を書いたが、
今回は「段々わからなくなる」感じになりそう
(´Д` )

まさにアレだ。
時を重ねるごとに1つずつ貴方を知っていって、
さらに時を重ねて1つずつ分からなくなって
(byポ◯ノグラフィティ)
ってヤツだよ。まったく。
(´Д` )
とりあえずこの記事では
実際に見たり聞いたりしたことだけ書いて
妄想は次回まわそうと思う。

まずとにかく、
事実から書くと守矢氏とゆう家系が
諏訪大社の神長官を世襲してきたわけだ。
この神長官とゆうのは、
前回「現人神だ」と書いた最高神官の下にいる。
No.2だ。
(ちなみに神長官は下社には無い役職)

しかしながら彼らは、
元からタケミナカタの神官だったワケではない。
彼らが祀っていたのは、
モレヤ神とゆう土着の神だったらしい。
漢字で書く場合「洩矢」と表記される。

と、ここまでは確からしい。
では、なぜ現在はタケミナカタが鎮座しているか?

タケミナカタは国譲りに応じなかったため、
天ツ神であるタケミカヅチにメタメタにされた。
命からがら逃げたタケミナカタは諏訪に着き
土着のモレヤ神を追い出し住み着いた!

とゆうのが通説。これに関しては、

タケミナカタ
 ↓
大和政権により土地を追われた
九州の稲作or漁業民族

とゆう解釈が為されている。
つまり内陸である諏訪へ逃亡してきた民族が、
諏訪湖周辺の土地を奪ったわけである。

「中央集権に伴う民族抗争の隠喩」説。
その辺までは、まぁ分かる。
ただ、この辺から
いくら情報が増えても上手く組み合わさらない!
みたいな感じになってくる。

とにかく、何か分かるかもしれないと
今回 上社より先にまず
知る人ぞ知る「神長官守矢史料館」に向かった。
諏訪大社でなく、神長官守矢氏に関する資料館である。

そこで見たり聞いたりした結果、
いくつか情報を入手。

まず祭神などに関して
諏訪大社は御存知の通りタケミナカタ
上社の大祝は諏訪氏・神長官は「守矢」氏。
ちなみにNo.3禰宜太夫は「守屋」氏だという。
下社の大祝は金刺氏。(これも九州から来た一族だ。)
神紋は梶(諏訪梶・明神梶)である。

一方の洩矢神社は 「洩矢」神を祭神としている。
それをもともと祀っていたのは守矢氏で、
洩矢神社の神紋は「丸に一つ柏」。
f:id:ko9rino4ppo:20160521214736g:image
そして、諏訪大社洩矢神社ともに
拝殿後方の山は守屋山である。
(同じ山の違う方角の麓にあるわけだ)
※ただし、洩矢神社には一般的な「本殿」がある。
この時点でもはや、モリヤには3通りの表記がある。

さらに守屋山中の国道125号沿いには
「守屋神社」とゆう神社があるのだが。
鳥居の扁額には「物部守屋神社」と書かれているのだ。
あの崇仏派・蘇我入鹿たちと対立した
廃仏派の物部さんが祭神とされているとか。
神紋は守屋神社が「丸に三ツ柏」。
f:id:ko9rino4ppo:20160521214754g:image
洩矢神が諏訪土着の神と聞くと、
同表記の洩矢神社が最も古く信仰の根幹?
というのが自然な流れだが、

実は!この(物部)守屋神社は「里宮」であり
守屋山頂上には「守屋神社 奥宮」があるのであった!
※今回はココまでは行けていない。

頂上におわすのが守屋神社
しかも山の名前も「守屋」山というのだから
まさか守屋神社が信仰のメイン?
ということになるではないか。

しかし、そこで守矢資料館の人に聞いてみると
物部守屋神社は諏訪信仰と関係ない」とのこと。
関係ない!?そんなにハッキリと?
しかも神紋も洩矢神社と同系統なのに?
山頂にもあるのに!?

疑問は残るが、
物部守屋神社の話はこれ以上聞けなそうである。
このあたりの地域では諏訪大社のみならず
かなり小さい社さえ御柱を立てるのだが、
この守屋神社だけは立てないというし。
拝殿の後ろに本殿はないものの、
少し坂を上がったところに本殿らしきもの
そしてそのさらに上に野ざらしの祠
という特殊な構造も気になっていたのに…

仕方なく各神様について訊きはじめる。
洩矢神は土着の草木や石といった自然物の神様、
タケミナカタは九州から来た
稲作or漁民(水辺)の神様という話だった。
※狩猟の神・風の神とされることもある。

ちなみに洩矢神への信仰は単一神に対する信仰でなく
蛇神ソソウや、それと習合されたミシャグヂ神、
そして猟神チカトなど諸々に対する信仰の集合体らしい。

諏訪大社からは近くもないが、
諏訪にはいくつかの「千鹿頭神社」が存在する。
読みは「ちかとう」だということを考えると
猟神チカトの神社だったんだろうか。

守矢資料館の方によると、
諏訪大社の「御頭祭」に使う鹿は
かつて千鹿頭神社の神職が納めていたのでは…
という話があるとゆうことだった。

すっかり「御頭祭」について書き忘れていたが、
守矢資料館に入るとすぐに
ウサギの串刺しやら鹿の首やらがあって、
これが御頭祭の再現なのだそうだ。
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狩猟の成功や五穀豊穣などを願う神事で
多くの獣の肉や頭が供えられたと記録されている。
なお今は剥製の鹿を使用して行われるそうなので、
動物愛護団体からの抗議の的は専ら
正月に行われる「蛙狩り神事」に集中している。
(冬眠中の蛙を串刺しにして供える神事である!)
資料館の人は「御贄柱(おんね)」に関して、
「子供を生贄にしていた時代もあったらしい」
と話してくれたが、時代が下って
「殺しかけるところで止める」形になった、
さらには柱のみで代用するようになったetc
いろんな説や段階があるようなので
詳細は書かないでおこうと思う。

そして最後にヤサカトメに関しては
社殿や地域史によって系譜にもズレがあり、
ヤサカヒコの娘orワダツミの娘などまちまちで
名前からして八坂(多くの坂)を統べる女神では?
というくらいしか推測できないらしい。
ちなみにこのヤサカトメは
日本神話には登場しないので信濃独自の神様。
と考えるのがよさそうだ。

蛇足だが、この夫婦に関して
諏訪湖の御神渡で氷のヒビが入ることを
「竜が走る」と言ったりするらしい。


と、とりあえずわかったことに関してはこれくらい。
詳細に関しては謎が多い、とゆうのが多い。
次回はこのパーツを使って妄想ばかりする予定。
(=゚ω゚)ノ