とまのす

ちいさくゆっくり、民俗さんぽ

諏訪大社、宝殿遷座祭2016!

長野以外の世の中では
「今年の御柱祭りはもう終わった」
と思われているであろう6月15日。
上社本宮の宝殿遷座祭が行われた。

あの、巨大丸太を曳行するのが御柱祭り!
と思われがちなのだが
御柱祭りの正式名称は「式年造営御柱大祭」。
諏訪大社の式年造営のお祭りなのである。

であるから、柱を建て替えるだけでなく
神様のお引越しをしなければ終わらないのだ。

そして、ほかの神社にも式年遷宮とかあるけれど
諏訪大社のちょっと違うところは
「仮住まいに移ってもらって本殿を建て替える」
のではなく
「東と西に宝殿があって、新築したほうへ移ってもらう」
のである。

ほかの記事にも書いたかもしれないが、
一般的な神社には神様がいる「本殿」は1つ。
しかし、諏訪大社では各宮とも
神様の住める場所(宝殿)が2つ(東西)あるのだ。
※前宮を除く。前宮は現在、本殿1つを有する構造。
そして、御柱大祭の年(申年と寅年)に引っ越して
つぎの大祭までは6年間 その宝殿にお住まいである。

今回は、西宝殿から東宝殿への引っ越し。

観光じゃありませんよという意思の表れなのか、
曳行の時はタイムテーブル的なものが公開されていたのに
今回は全くホームページに情報がない。
諏訪の観光協会に訊いてみるも、分からないらしい。
茅野観光協会の電話番号を教えてくれたので、
そちらにかけてみるとやはりわからず。
大社さんの番号を教えてくれて、やっと訊けた。
今年の遷座祭は「11時半に始まる」とのこと。
「でもあんまり近くでは見られませんよ」とも教えてくれた。
いいんですいいんです。何をやってるか見えればそれで!

当日、本宮に近づくにつれ
黒スーツのおじさんとの遭遇率がup。
「おはようございますー」
と挨拶してくれるので私も挨拶。
そんな感じで11時ちょっと前に本宮につくも、
寝不足がたたり睡魔の奇襲を食らう。
これはイカンとフラフラと法華寺に向かい、
休めるところを探すと…なんと!
「山門の上部にある仏像もどうぞご覧ください」
という看板が!これは上に登れるぞ!

ということで、
こんな立派な神様たち↓の前で恐縮だが
山門の2階部分の隅っこで丸くなってしばし就寝。
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(観光客に見つからなくてよかった…と思う)
そして、神様たちにペコペコ頭を下げながら
いざ宝殿遷座祭!

境内につくと、
さっきの黒スーツおじさんたちと宮司さんは
社務所のほうで並んで既に何かをしていた。

そして池の前で祝詞を読み上げる。
(残念ながら何と言っているか聞き取れなかった)
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布橋に上がるためのお祓い的なものなんだろうか。
これをして、まずはスーツおじさんの一団が布橋へ。
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おじさんの家族らしき見物人さんが
「あーあ、あれじゃ靴わかんなくなるわねぇ」
と呟く。確かに、みんな黒い革靴を脱いで上がる。
そして、さらに神職さん同士でのお祓いみたいのがあって、f:id:ko9rino4ppo:20160618214940j:image
その人たちも布橋へ。
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雅楽の生演奏の中、まずは神宝が移動。
鏡・弓・薙鎌・太刀・鉾。
f:id:ko9rino4ppo:20160628014716j:image(↑弓)f:id:ko9rino4ppo:20160625220142j:image(↑薙鎌)f:id:ko9rino4ppo:20160625220239j:image(↑よく見えない。太刀?鉾?)
そして、ついに神輿。
ここ↓に御霊代が乗っているんだろうか。

下社の宝殿遷座祭は「御霊代、遷座」と言われるが
今回は「御霊代」でなく「神輿」という言い回しだった。
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しかし、なんでこんなにモコモコ?
と思うかもしれないが
なんと遷座のたびに藩主さんが緞子を奉納し、
それを「新調する」のではなく「重ねていく」そうだ。
なんとゆうか、オシラサマ方式だな。
なんでタスキ掛けが右の人と左の人がいるの?
と思っていたが、写真をアップにしてみると
タスキに神輿の棒を入れて担いでいるのがわかる。
右を担ぐ人と左を担ぐ人だったのか…

…とか考えていたら
町内のスピーカーから「エーデルワイス」が流れ始め、
雅楽と変な感じにミックスされているではないか!
誰も声に出してツッコまないものの、見物人 苦笑いである。
なんだ?正午の時報なのか?
今日ぐらい、大社の近所くらい、放送切ればいいのに…。

下の写真は、
神輿が通る場所に敷いた布を片している現場である。
この布が、この廊下が「布橋」と呼ばれる由来だそうだ。
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そして、いろいろ読み上げたりした後に
今度は果物などの御供物が東宝殿へ供えられる。

分からないけれど、
植物も弱ってない時期を選んで植え替えて
植え替えしたらたっぷり水あげるよね。

もしかしたら、遷座もカミサマ疲れるのかもな。
だから、移動後の栄養補給的な?

もしくは「こっちの家もいい場所ですよ」って?

と、ぼんやり考えていたり。
今までの6年間の力が染みついたおうちを出て、
普段人が通ってる布橋を通って、
まだ御宮とゆうより木の感じが強い建物に移って。
疲れるよな、そりゃ。

ちなみに昔は、
新築したばかりの宝殿に引っ越すのでなく
神様が引っ越したら
今までいた方の宝殿を新築したらしい。
いつの間に、どうしてピカピカ新居方式に…?

さて。
こちらがさきほど
遷座開始前に祝詞を読み上げていた池。
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大社の神様は神居に居るのか宝殿に居るのかよくわからないが、
どちらにしろ、この清祓池のほうを向いて祝詞を読めば
神居・宝殿にはお尻を向けることになる。

しかし、今回のみならず御頭祭でも何でも
ことあるごとに この池のほうを向いてお祓いやらをして
そして神事(祭)が始まるのである。どういうわけなんだろうか。

大体、この池は大社にとってどういう場所なのか?
そこすらよく分かっていないのだが。
ただ 妄想として 昔はコレ
諏訪湖に向かってやっていたんじゃないか?
という気がしてならない管理人である。

まず、この本宮の住所「諏訪市中洲」。
中洲ということは、周りは川か湖だったわけだ。

そして(一部移築したとはいえ)
今となっては湖に面しているだけの高嶋城も
富嶽三十六景↓では まさに「浮島城」。
カンペキに湖上に建っているように見える。
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そしてさらに、諏訪の古地図を見てみると
いまより諏訪湖は広かったように思える。
今は湖からやや離れている地名も、湖畔にあったりする。
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↑こちらは元禄時代の地図。

大雑把なやり方ではあるが、
上の地図の地名を今の地図で探して
地名と諏訪湖の位置関係で見ると分かりやすい。

大体この水色で塗ったあたりは諏訪湖とその支流!
ということになる。
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「赤沼」や「福嶋」は位置や形からおそらく
画像上方から諏訪湖に流れ込む河川の力で
湖の入口に堆積した三角州である。

三角州ということは
堆積し始める前はここも湖の底だったということだ。
そうなれば、本宮の前はもう諏訪湖

さらにダメ押しで、
上社の御柱曳行では最後本宮についた柱を
船(の神輿?)が出迎えるのをご存じだろうか。
みんなが賽銭を投げ込んでいるアレだ。

「これは、長野の氏族がモトは九州の漁民で云々…」

という話もあるが、
そんな難しい歴史の話をしなくても
(※安曇氏が九州系漁民だというのは事実らしいが)
そもそも昔は大社さんの鳥居近くまで諏訪湖が広がり
本宮前に御柱が到着すると
実際に船で出迎えに行っていたのかもしれない。


方向的にも、それなら大体合うだろう。
妄想の域は出ないけれど、
全く根拠がないわけでもないのでご容赦願いたい。

諏訪湖どころか
上社と下社の関係すら謎のままだが、
摂社葛井神社達屋酢蔵神社を見ても
諏訪大社グループは結構「水」を重んじているようだし。

御柱曳行に比べると宝殿遷座は地味くさいな」
…と思ってしまう人も多いだろうけれど、
祝詞諏訪湖に向かってあげていた」
と思うと何ともスケールの大きい神事ではないか。

ということで、諏訪に関する妄想は全然終わらないが
今回の式年造営は、これにて終了~。
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