とまのす

ちいさくゆっくり、民俗さんぽ

花園稲荷と「御穴様」

今回はなかなか重鎮感のあるお稲荷様を訪問!
ということで人間の肝は用意できないが、
色々悩んだ挙句に「肝」の字がつく砂肝を買った。
…よく考えたら肝とは言うが「砂嚢」というやつで、
全然心臓でも肝臓でもないんだよな。
色々考えたつもりだが、キツネ怒るかなぁ。

後で某漫画を読んだら、
肝は酸っぱい味がするということで
古来から柑橘類で代用してきたという情報が!
Σ(´Д` ||)
すまん。砂肝、全然酸っぱくないな!
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全然霊とかカミサマとか見えないし、
人の考えや風習を見たくて神社を回っているのだが。
気になるときは気になるのである。

普段全然神様を信じていない人が、
処理しがたい問題に当たった時だけ
「これは何の天罰か」
「何をしたらカミサマは助けてくれるんだ」
と考えてしまうのと似た感じかな。


威圧感の強い神社に行ってビビったときだけ、
ちゃんと二礼二拍手するとか。
そんな感じで今回も、
願掛けとかするつもりはないけど
御供物用意して行こう、と。

*花園稲荷*
さて、今回訪れた花園稲荷は、
みんな大好き(?)上野公園の敷地内。
管理人にしては珍しく観光地っぽいスポットだが…
しかし上野公園は広くて出入り口も多く
各々目指す美術館や博物館へ一直線に行ってしまうためか、
案外「花園稲荷」に参拝している日本人は少なかった。
ここは外国か、と思うほど参拝者は外国出身者ばかり。
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人面っぽい狛犬とか、パグ系とか獅子系とか
いろんな顔のがいるけどココのはなんてゆうか…
ワニとか龍に近いものを感じる
奥行きがなさすぎるのか?口が張り出しているからか?
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参道のあちこち
道の真ん中はもちろん鳥居の外(土の部分)にまで、
海の向こうからやってきた自撮り棒マスターたちが
様々な角度で立ちはだかっている!
誰も写っていない写真を撮るのに一苦労だった…
(;´Д`A
さて、この花園稲荷という神社。
ラグビー選手が参拝しに来そうな名前だが、
モトの名前は「忍岡稲荷」さん。


その昔、廃墟のようになっていた社を
天海のお弟子さんが再興させたらしいのだが…
ココは戊辰戦争でも激戦の舞台となったので、
おそらくまたボロボロになったものと思われる。

その後、かつてこの地にあった寛永寺
この稲荷社周辺を花畑として整備していたため
明治になって「花園稲荷」と改称されたそうだ。
(今は花は全くないのだが…)
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参道の真ん中をふさぐ人々を見て、
「まったくもう、真ん中は神様の通り道なのに!」
と思ってからふと疑問が…

神様って、そんな年中ウロウロしてるのか?
どこに出かけてるんだ?

いや、きっと何かの時に神様が通るから…
普段も通るなよってことかね。

イイ感じに苔が生えた手水鉢↓
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一瞬ただの石かと思ったが、
よく見ると4人のおっさん(?)が支えていた。
神社だが、護法善神なんだろうか。
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これ↑険しい顔と対照的に葉っぱが生えていて
トロールみたいな感じで可愛い。推しメンだな(笑)
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小さめだが奥行きがありそうな拝殿。
縁結びにかなりの御利益があると聞くが、
砂肝しか持っていないので挨拶だけして退散。
しかも
「旧跡(穴稲荷)のほうに砂肝供えますんで
 なんとゆうか気が向いたらお召し上がりください…」
と腰が引けた挨拶である。

五條天神社は後で勧請されたという話で、
昔はこの稲荷社だけで
現在の花園稲荷+五條天神の面積の
およそ2倍あったというから驚きである。

しかも周りは花畑…どんな風景だったのだろう。
昔の日本で花畑と言えば、
いったいどんな花を植えていたんだろうか。


*穴稲荷さん*
そしてついに本丸(?)お穴様へ。
花園稲荷から五條天満宮に行く途中の、
梅紋の入った倉庫(なのか?)の隙間に入り口がある。
小さいが気の強そうな狐が神域を守っている。
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なんと、扉が設置されている!
開けて入っていいよ、と書いていなければ、
入ろうと思えない感じである。

これだけ外国の人がいる場所で
日本語でしか案内を書いていないあたり
観光地じゃありませんよという意思を感じる…。
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撮影は禁止とのことなので、写真はナシ。
風景とか描くの下手くそなのでわかりづらいかもしれないが、
中はこんな感じになっていた↓
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入って正面の祠は、天海が寛永寺を建てる際に
忍ケ丘の狐が住処を失うのを憐れんで建てたそうだ。
つまり花園稲荷を展開の弟子が復興させたのと
同じくらいのタイミングで建てられたということだろうか。
そして右にある菱型で囲まれた丸い窓のようなものは…
暗くて、しかも私の身長では覗いて見ることもできないのだ。
(管理人=149cm)

ただ、入り口付近の穴稲荷の説明を読むと

・左の社は天海が新たに建てたもの
・穴稲荷は花園稲荷(忍岡稲荷)の旧跡

という書き方なので、
この暗い穴が穴稲荷様ということになるのだろう。

上の絵で、その穴の上には宝珠があって
注連縄が掛けてあるのだが…
そこに、戸袋のような細い窓があるのだ。

細い上に格子がついていてよく見えないのだが、
その向こうには社のようなものが見える。
土台の部分しか見えず、
窓の下半分は草や枯葉が見える。

あんなに高いところにある窓なのに、
ここの天井くらいの高さまでは地中ということだ。
そして、あそこに社の足元だけ見えるということは
この暗い穴は社の真下の地下空間ということになる。

なんだろう。
狐が住んでいたであろう岩穴に神域を作って
その岩の上に祠を建てていたのを、
時代が過ぎてから
この穴稲荷の壁と覗き窓(?)を作って
保護した結果こういう配置になったのか?

しかし、窓を作ってあるということは
覗いても無礼はないということなのだと思うが。
(覗くというか、見て参拝するというべきか)
もう少し身長があればなぁ…

雰囲気はあるというものの、
怖い圧力じゃないから居心地はよかったし
怖くて見る気が起きなかったってゆう雰囲気ではないんだが。

せめて地上の祠を見ようと思ったが、
おそらくここだろうという位置
(公園内の歩道から普通に見える位置)
にはトタンやらが張ってあって中が見えない。
隙間からは、かなり積もった落ち葉が見えるだけ。

うーん。
地下は窓があって見えるようになっているのに
地上の祠は見えちゃいけないってか。
なんでだ。不思議だな。
あの細い窓からも、祠は土台しか見えないし。

有名な縁結びのパワースポットだけに
名前を調べればヒット数は多いものの…
歴史とか、考察的なのは少ないし情報不足。

今回は砂肝を置いて、無難に帰ろう。
お口に合うかわかりませんがお納めください。
((((;゚Д゚)))))))
観光地として整備された地域の神社は
隠すべきトコはビッチリ隠されちゃって
隙がありませんなぁ。
でも隠しすぎず何かある感が出てるところが
穴稲荷様の人気の秘密かな。
全部覆うこともできたはずなのに、窓付けたり。

余談だが、
仏教系のダーキニーも女神様だが、
神道系でもウカノミタマ(おじいちゃん)でなく
トヨウケビメ(おねえさん)を祀っている神社がある。

そうしたこともあってか
また「良い願いでなくとも叶えてくれる」
という謳い文句からか、
お稲荷様は女性さらに言えば遊女の信仰を集めた。

特に「穴稲荷」は その名称からだとおもうのだが
遊郭などで働く女性は
性病除けのお稲荷様として信仰していたそうである。

さて、当日は暑い日だったけれど
このまま電車で数分の王子稲荷へ出発ですねー
(=゚ω゚)ノ

意外と気になる達屋酢蔵神社。

*達屋酢蔵神社に出会う*
下社御柱里曳を見に下諏訪に行った先月、
守矢資料館に行くため茅野にも降りた。
駅から資料館方面に歩き出して数分、神社を発見。f:id:ko9rino4ppo:20160618213737j:image
拝殿のほうへ行き、扁額を見てみると…
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「達屋酢蔵」で1つ、ではなく
「達屋」と「酢蔵」は並列の関係のようだ。

境内には、今までこの神社の御柱だったらしき丸太↓
やっぱりどの神社も建てるんだな。
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*酢蔵とオモイカネ*
境内にあったステンレスの説明版を読むと、
酢蔵神社は「酒蔵」の字を当てることもあるらしいが。
原義は「簀蔵」。簀の子(すのこ)の「簀」だ。
つまり食糧貯蔵用の校倉造りの倉庫のコト、だそうだ。
倉庫であるからして、たいていは寺社や館屋に付属する。
とも書かれていた。

こちらの祭神「八意思兼(ヤイオモイカネ)」は
知恵や知識・思考の神様といわれ受験生に人気の神様。
受験生の見方は天満宮だけではないのだ!

その明晰な頭脳で、天の岩戸御隠れ事件でも
「どうやってアマテラスを外に出すか」
の案を出し見事成功させた神様だったりする。
そんな彼はそのほかにもいろいろな仕事をしたわけだが、
結局信州に降り立って「信之阿智祝」の祖先となった。

信之阿智祝は、阿智村を治めた豪族らしい。
祝(ほうり)というからには諏訪大社の大祝などと同じく
宗教的権力と政治的権力の双方を掌握していたのだろう。
(昔は大体そうだった、といえばそうだが)

阿智といえば昼神温泉と阿智神社。
この阿智神社の祭神もオモイカネさん。
あとは、戸隠神社にもオモイカネさんがいらっしゃる。
(戸隠には天の岩戸事件の立役者たちが沢山いるが、
 当のアマテラスだけは見当たらないところが気になる)

 

*「達屋」と明治政府がつれてきた神様*
一方の達屋は「館屋」が原義で、客人をおく建物のコトらしい。
ほかにも立屋、建屋という字を当てたことから
「建築に関係ある神社だろう」という
明治政府の短絡的な考えのもとに
手置帆負(タオキホヒ)・彦狭知(ヒコサチ)が祭神となった。

この二神は、何をした神様かというと
アマテラスが岩戸の隠れてしまったときに
木を伐りミスノミアラカ(瑞殿)という御殿を作った。
後はご存知の通りアメノコヤネらが祈り
アメノウズメがセクシーな原初神楽で神々を笑わせ
無事に出てきたアマテラスはこの御殿に入ったのである。
だから、建築の神様。

さて、神社を見てみると
ほかの神社と同じく風通しがよさそうな
前面総格子の拝殿↓。
もっと蔵っぽかったりしないのが少し残念。
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さて、話を戻し…タオキホヒ&ヒコサチについて
「明治政府の短絡的な考えのもと」
とわざわざケンカ売ってる書き方をしたのは、
この説明板が明確に
「現在の祭神は明治以降のものである」
と書いてくれているからだ。
さらにありがたいことには、
それ以前の祭神についてもしっかり書いてくれている!
2つの神社の名前と新入り祭神さんについて話したので、
つぎはモトの神様について。

*天白神と五龍女神*
説明板を読むと、まず達屋神社の古参祭神さんは
「天白神(ミシャグジ)」と書かれている。
ミシャグジ様には天白さんとゆう名前もあったの?
さらに読んでみると
「諏訪二十八天白の総社・天白七五三(しめ)社の聖地」
と書かれている。
どうゆう流れでミシャグジ様は「天白」という名前に?
ということについては一切かかれていない。
自分で調べよということか…。

そして、次の行に「神長守矢書曰」として
「楯屋神社は天白楯・天白太刀を併せ祭っている由」
という内容が書かれている。
そして、御神体は霊石であり今もあるのだとも書いてある。
御神体は、ミシャグジ様だからやはり石なんだな。
ということはその太刀と楯は「神器」という扱いか?

そして、もうひとりの古参祭神は五龍女神。
説明板には「達屋二社 五龍三尊 二体あり」とかかれている。
(語呂がイイが別に俳句ではない)
この神様は奈良時代から陰陽寮(つまりは朝廷)に重用され、
江戸時代までその影響が残ったそうだ。
そのため神社としての勢力はなかなか強大で、
南北栗林郷の産土神として長く栄えたそうだ。

この栗林郷というのは、
ここら辺の古い地名なわけだが。
言い回しからすると
「力が強大だから招いて祀った」のではなく、
この土地にモトモトいた神様が朝廷にも重用されたので
長いこと地元でも勢力を持った神様になったということだろうか。

五龍という言葉は色々なところでよく出てくるので、
この五龍はどこからとった五龍なのかよくわからない。

長野で五龍といえば白馬五竜!
と、スキーが好きな人なら思うかもしれない。
しかし、この山に「五竜(御菱)」と名がついたのは
江戸時代か、早くとも武田信玄が現れてからである。

また、島根にも五龍山という山があり
五色の龍がいる「新宮神社」というのがある。
祭神はウケモチ・ウカノミタマ・オオヤマツミなので
あんまり龍神・姫神な雰囲気はないが…。

陰陽寮に重用されたということだから、
五行説が入ってきてからと考えれば単に五行の「五」か。
それともそれ以前から「五竜」という名前だったから
五行説に乗っかってもてはやされたのか謎。
それか、5つの川とかを神格化したかもしれないし。

まぁ、龍そして女(ひめ)という字がつくのだから
十中八九、水神系神様なのだろうとなんとなく思った。
なんといっても境内の水がキレイだったしなぁ。
鯉が、空中に浮いてるようだよ。
大袈裟にいうわけじゃなく、すごい透明度。
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ここの水はキラキラした気持ちいいパワーありそう。


*横内不動尊さんたち*
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そして、その神社に隣り合って建っているコチラ。
下がっているのは鰐口ではなく鈴だし、
またこの風通しのよさそうな覆殿に末社でも入ってるのかな?
と覗いてみると…

…((;゚Д゚)!?

予想外に大迫力の不動明王様が!
そして俱利伽羅龍と両脇侍の童子まで揃っている!
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説明板を読んでみると、
この土地(横内村)には古くから護摩講があり
信者たちは行屋にこもって修行を行ったそうだ。
そして高島城主・忠誠が病気になった際に
この土地の講を招いて護摩を焚いてもらったところ
たちまち平癒したのを喜び 太刀を二振与えたと書かれている。
これを神社の宝物として奉納したと書いてあるので、
さっきの太白太刀とはコレなのかもしれない。

参道には将軍地蔵尊↓が居たり
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魔王第六天↓が居たりと盛りだくさん…。
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将軍地蔵尊愛宕修験の神様・愛宕大権現の本地仏
つまり愛宕権現が「人を救うために現れた姿」で、
その本当のお姿は将軍地蔵尊ですよー。という本地垂迹説。

一方の魔王第六天は他化自在天さんの別名。
「他化」とは他人の得た教化を奪って自分のものにするコト。
たびたび修行を妨害する悪魔として登場する一方で、
仏法を守護する天部として修験道では大事にされている。

どちらも修験道カラーの強いカミサマ。

*おまけ*
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これが、達屋酢蔵神社の拝殿内。
かなりスッキリしていて、
「本来拝殿とはこうあるものかもしれない」
と思ったり。

ところであの奥の扉の透かし彫りは「梶」。
諏訪大社の神紋と同じではないか!
と調べてみると、ここはモトモト大社の摂社とのこと。
「達屋社」「酢蔵社」という2つの摂社が合体して
この土地に独立(?)したらしい。
ほかにも周辺にそういった神社がいくつかある。

ちなみになんと、
摂社の中でこの神社だけは
大社の御柱と同じ「八ヶ岳御小屋山」から
御柱御用材切り出すことを許されているそうだ!

そしてこちら。
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実は、1回目にここに来たときは
「何この島津藩マーク…」と思っただけで
写真も撮らずにスルーしてしまったのだが。

そのあと神長官守矢資料館に行って
祈祷殿(だったか?)の屋根に入っている
守矢家の家紋を見た時の衝撃たるや。
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コレじゃん!
なんでさっき写真撮らなかったの!
知らないって恐ろしい!
(「左十字」と守矢氏の雑考はこちら

そして上社宝殿遷座祭に行った先日。
無事、再訪して写真撮影しましたとさ。
赤い字はボンヤリしていてうまく読めないのだけれど、
「〇矢 年戌〇」(〇は読めなかった字)と書いてある。
サンズイは見えないけれど一文字目は
文字の下の線からして「守」じゃなく「洩」っぽい。

守矢氏の家紋は左十字、洩矢神社の神紋は柏…
とゆう謎の食い違いに「?」となっている管理人だが、
もしこの字が「洩」なら洩矢も左十字と関係あることになる。

でも中のものを覗くわけにもいかないし、
何の神様の祠かわからずじまいだった…。

かなり摂社の中でも特別な位置にありそうな…
気がする、達屋酢蔵神社でした。

葛井神社と清池。

茅野駅から上社への道で*
自動車超初心者の管理人、今回も諏訪大社へは徒歩で向かう。
もはや、グーグルマップに頼らなくても辿り着けるようになった。
今回はちょっと違う道を通ってみよう!と歩いていると、
小さな十字路の向こう、道の突き当りに鳥居が。f:id:ko9rino4ppo:20160618212937j:image
なんだなんだ?行ってみよう。
葛井神社、か。「葛井」ってなんだ?
いや、ほんとは九頭井だったりするんじゃないか?
八龍神社が八立神社って表記されるようにさ。
と、何の根拠もないのに表記に不信を抱きながら接近。
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このへんの注連縄は、鳥居の左右に縄を縛り付け
余った注連縄の端を垂らしてあるようなのが多い気がする。
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鳥居をくぐってすぐ右にあるのは、
「津島牛頭天王」の石碑。
津島の天王さんといえば愛知の津島神社
エレクトリカルパレードのような天王祭の巻藁船、
一度といわず実物を見てみたいんだよなぁ…
しかし、なんでこんなところに愛知県の天王さんが。

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コレ気に入った!かわいい。ツリーハウスか!
案内板を見てみると「葛井神社千本欅」。
神社の御神木であるとともに上原区の氏神様でもあるそうだ!
妖怪ポストか妖精の家かという可愛い状態になっているが、
昭和になって落雷や火災で傷んだ巨木を
元気なところまで切って屋根を付けて保護し、
それでも風雨で根元が腐食した!ということで
最近になって庇(ひさし)も作ったんだそうな。

庇の下には小さな神棚のようなパーツがあり、
おそらくは家の神棚に神様のお札を置くように
氏神様としてのお札が…
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…!?
昆布茶、だと!?何故ここに!
しかしきっとその奥の白い紙が氏神様のお札だろう。
ズームしてみてみたら、諏訪護国神社の昆布茶だった。
何か有り難い謂れがあるのだろう…としておこう。f:id:ko9rino4ppo:20160618213113j:image
そしてこちらが拝殿。
相変わらず諏訪の神社たちは風通しがよさそうだ。
(ガラス張りにはなってるけど)
拝殿の中の右のほうは物置状態になっているのが惜しいが
この開放感のある拝殿は嫌いじゃない。
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そしてこちらが拝殿内。わきは散らかっているが、
さすがにご神体周辺はスッキリきれいである。f:id:ko9rino4ppo:20160618213323j:image
向こう側の扉の透かし彫りを見てみると、
なんと御神紋は梶。根は四本に見えるので諏訪梶。
つまり上社と同じ紋である。
後で調べたら、諏訪大社摂社だということだった。
この後まわったいくつかの神社も、神紋が梶らしきところがあった。

*御神体である清池*f:id:ko9rino4ppo:20160618213502j:image
そしてこちらが葛井神社の御神体といわれる清池。
古風な鳥居らしきものがいい感じ。
ここ清池は「ここに住む魚はすべて片目である」
また「池に幣帛を投げ込むと遠州のサナギ池に浮かんでくる」
など、諏訪七不思議のうちいくつかの舞台でもある。

片目、と聞いて(読んで)「ん?」と思ったが。
片目の魚の伝承が残る土地は
眼病平癒に御利益があるか、産鉄文化圏であることが多い。
なぜなら、製鉄に使う炉の温度を炎の色で確かめていたため
産鉄民の人々は片目で高温・高照度の炎を見続けるため、
片方の目だけ失明することが多かったといわれている。

そう思った瞬間、神紋も
「どうして諏訪関係の親睦は欅が多いのに梶?」
とモヤモヤしていたのだが
「なんか、こじつけかもしれないけど梶=鍛冶!?」
と変な風に腑に落ちてしまったりしたのだった。
いつもどおり、何の裏付けもないんだけど。

あとは「遠州のサナギ池」ね。
しらべても具体的にどこなんだかわからなくて
ただ「サナギ」には「猿擲(猿投)」の字が当てられる。
ということはわかった。
あとは、サナギなんてどういうことなの。
サナギがいっぱいある池とかならちょっと気持ち悪いね。
…と思ったりしたけれど、
今は亡き、諏訪大社の「湛え神事」で
サナギとよばれる鉄鐸が使用されていたらしいと
どなたかのブログに書いてあった。
もしやそのサナギなのか?そしてまた鉄!

ついでにいうと、
諏訪湖御神渡りを見物に来た僧が
「手長」につまみ出されて遠州のサナギ池にワープさせられ
諏訪に戻ってくるのに七日かかったという話が。
手長は、恐ろしく手の長い人(神?)で
足長とともに語られることが多い。
そのうち書くけど、
この上諏訪に手長神社・足長神社がある。

諏訪に行くたびに、
いままで「?」だったことが少しづつつながりはするのだが。
まだまだ全部うまくつながるほど理解できていないみたい。
むしろ全部理解なんてできないのだろうけど、
だからこそ考えるのをやめられない諏訪ですな。

ちなみに、江戸のころまでは
葛井神社には本殿はなかったらしいので。
諏訪大社(前宮以外)とおなじく拝殿のみがあって
池が御神体となっていたんだろうなー。と考えられる。

*おまけ*
大社さんに負けないほど立派な御柱f:id:ko9rino4ppo:20160618213544j:imagef:id:ko9rino4ppo:20160618213351j:image

鬼鎮神社の律儀な鬼。

埼玉県嵐山町にある鬼鎮(キヂン)神社。
西のほうの人にはよく「埼玉にも嵐山があるのか」といわれるが、
嵐山の読みは「あらしやま」でなく「らんざん」である!

武蔵嵐山駅から15分くらいで難なく到着。
ただ、あいにく夕方の散歩タイムらしく
おばちゃんと犬があちこちから歩いてきてはこちらを見る
気にしないぞ。視線攻撃なんて…(゚д゚lll)

f:id:ko9rino4ppo:20160618211643j:imagef:id:ko9rino4ppo:20160618211704j:image
石の鳥居に木の扁額という組み合わせ↑。
中心部は何かで焼けたのか汚れなのか黒くて読みづらい。

拝殿で気になったのは、
鈴も鰐口もない(=鳴らすものが何もない)こと。
単に修理中とかいうことがあるだろうか…?f:id:ko9rino4ppo:20160618211741j:image

名前に鬼がつくために
「鬼を祀っている」と言われるようになった神社ならば
全国にいくつもあるわけだが。
実際に鬼を祀る神社は全国で4つだけとも言われている。
それが、この埼玉・鬼鎮神社。あとは青森・福岡・大分。
(福岡のは白山神社境内社だから数えないのか?)
観光サイトなどをあたってみると
畠山重忠が館を築いた際、鬼門を守るために建てた」
と書かれていることが多いようなのだが。
私は民話として語られる鬼と刀鍛冶の話が好きなので
そちらを紹介したい。
 
昔、刀鍛冶に弟子入りした一人の若者がいた。
彼がある日、刀鍛冶の娘さんを嫁に欲しいと言ったときに
師匠は 「一晩で刀を100本作れたら良いぞ」という条件を出した。
冗談だったかもしれないし、
絶対やらん!という無理難題だったかもしれないけれど。
そこから若者はすごい勢いで刀を打ち始めたワケ。
夜中になってもやめない若者を師匠が覗きに行くと
その姿は角が生え、肌は赤い鬼だったのだ。

人間離れした、本当に100本作れそうな勢いだった。
しかし、最後の一本を作り終える前に夜は明けて
力を使い果たした鬼は死んでしまう。

人間ではなく鬼の力を解放したにしろ、
一瞬で100本作みたいなチートな神通力を使うでもなく
体力の果てるギリギリまで律義に刀を打ち、
ましてや力にモノを言わせて娘をさらったりもしなかった鬼。

そんな彼をかわいそうに思い、
刀鍛冶と娘や村の者たちがここに
祠をつくって鬼を弔ったのがこの神社の始まり。
と、いわれている。

拝殿の中をのぞいてみると、
御覧のようにきれいに整っている。
そして、小さくてよく見えないのだが
大幣や太鼓のある当たりの左右に鬼の像がある。
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瓦にも「鬼」の文字。ちゃんと鬼瓦もあった。
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さらに、鬼の一家の絵のようだが…
なんと、赤鬼の夫婦から青鬼が生まれることがあるようだ。
そしてなんと鬼の乳児はピンク色…だと…?
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まぁ、変なところでツッコむのはやめるとして。
この話のなかで
鬼と分かった時点で問いただしたり殺したりせず
鬼のほうも条件をクリアできないから強引にということもない。

この雰囲気からは、
「村人と鬼の間にあまり大きな隔たりがない」
ように感じる。

鬼伝説の鬼の見方、
何の隠喩であるかという考え方には数種類あるが。
ここで関係ありそうなのは大和朝廷の地方平定というよりは
やっぱり製鉄だろうか。刀鍛冶も出てくるし。

製鉄に関しては、
「桃太郎の鬼退治」のモデルとなった
吉備(岡山県)の温羅(うら)が有名。
彼は朝鮮半島から九州or出雲に渡来したとの説があり
今も残る岡山県総社市奥坂の「鬼ノ城」を本拠地として、
その製鉄の技術をもって地域を支配したと言われている。

彼が製鉄民であったことは、
その技術をもって支配したという記述のほか
彼の妻が阿宗神社の祝(神官)の娘であること、
その阿宗神社の「鳴釜神事」の使う釜は
地元鋳物師の作ったものと決まっていること、
妻の関係地・阿曽郷では製鉄遺跡が多く残されていること
などにより裏付けられる。

つまり民話の中の鬼は製鉄民のことである場合がある。
ということだが…
この鬼鎮神社の伝承を見てみると、
すでに製鉄技術を持っているはずの製鉄民が
刀鍛冶に弟子入りするというのは少し不思議な感じ。
製鉄集団と鍛冶師の位置関係というか
分業の具合が全然わかっていないせいか(´Д` )?
ともかく、刀鍛冶であれば製鉄民に偏見を持ったり
文化が大きく違うということもなかったのかもしれない。
(我ながら浅い結論ではあるが)

お隣、長野では
(といってもカミサマ文化圏は結構違っているのだが)
侵入(?)して八面大王を征伐した坂上田村麻呂
(安曇族のことか?)のほうが製鉄技術をもっているし。
こないだ話した洩矢神
製鉄技術でタケミナカタに負けて座を譲ったとされる。
(負けたということは、技術自体は持っていたということか)

おそらく、両方とも史実に基づいているとすれば
時代は長野の神話・田村麻呂東征のほうが古そうなので
その辺をきっかけに武蔵の国あたりまで製鉄が盛んになったか。

ん、何の話をしているかだんだんわからなくなってきた。
本題は長野じゃなくて埼玉ね。
八面大王やら洩矢神じゃなく、鬼鎮神社ね。

3日前に長野から帰ったばかりなので、
まだ頭が長野なんだな
どうしても思考が長野方面に吸い寄せられてしまう…
f:id:ko9rino4ppo:20160619084520j:image
鬼鎮神社の絵馬はこんな感じで、
バッグから下げておきたいかわいさ。
情報によると、このデザインの御守りもあるらしいのだが…
境内には人がいない。
例祭とか節分の日しか買えないのかもしれない。
ちなみに、鬼も赤鬼と青鬼だけではないと思うのだが
だいたいこの2人(?)が対で登場するのは理由がある。
青い鬼は静鬼、赤い鬼は励鬼とも呼ばれ
魄の静と動を表している。
 
人間にとって恐れの対象は、
おもに激しく祟り災いを起こす励鬼である。
というわけで、追儺・節分の行事には度々こどもたちが登場する。
赤鬼と同じ「動」の性質を持つ者こそが、
赤鬼を祓う力を持つとゆう考え方らしい。
 
まぁそんなわけで、
全然まとまっていないけれど
鬼鎮神社&キュンと来る伝承の紹介と
ちょっと製鉄-鬼の関係の話でした。
まとめが雑ですいませんね、毎度毎度。
(;´Д`A

報恩寺の五百羅漢さんたち。

*報恩寺羅漢堂*
岩手に「チャグチャグ馬コ」を見に行ってきた。
その記事はまた改めて書くと思うけれど、
馬ッコたちと滝沢村→盛岡駅周辺まで歩いたついでに
五百羅漢さんがあるという斑鳩峰山・報恩禅寺さんに行ってきた。
立派な門である!f:id:ko9rino4ppo:20160614225140j:image
門扉にはこれまた立派な彫刻が。
麒麟かな。竜馬かな。
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そしてこちら↓が目的の羅漢堂。
ここの像たちは1731年に作られたものらしい。
と、羅漢さんたちの胎内にあった墨書きに書いてあるそうだ。
外からは格子越しであまりよく見えないが、
そんなに高くない拝観料で写真も好きに撮らせてもらえるので
是非ちゃんと入ってみていただきたい場所。f:id:ko9rino4ppo:20160614225242j:image
そしてこちら↓が堂内。
本尊の廬舎那仏様を中央に、周りには羅漢さんがズラリ。f:id:ko9rino4ppo:20160614225258j:image
f:id:ko9rino4ppo:20160614225353j:image居眠りしてるんじゃなくて、きっと何か考えているのかな。
片手を上げているものが多いけれど、これは?
インドのサドゥの人たちの中には、
「片手を挙げ続ける」という修行をする人がいる。
あとは、挙げている角度で言うと
蔵王権現さんとかもこんな角度だった気がする。
片手を挙げてるこのポーズも、
よく見る割に全然調べたことなかったなぁ。
どんな意味があるんだかはずっと気になっているところ。
f:id:ko9rino4ppo:20160614225414j:image
そしてこちら↑は両脇…のように見えるのだが、
パンフレットには前立ちと書いてある。
この向かって左の八歳竜女は、
文字通り「八歳の娘であり蛇の姿をした畜生である」。
とよく説明されるのだが娘という時点で人間なのではないのか。
体は蛇で頭は女児ということなのか、それとも八歳のメス蛇なのか。
モトの姿はイマイチ想像しがたい…。

ともかく彼女は仏教の革新の1つとでも言おうか。
というのも、それまで基本的に男性に向けられ
「女性はむしろ夜叉のようなもの!」
とかメタクソ言われていた仏教の中にあって、
彼女・八歳竜女は初めて成仏した「女性」なのである。
成仏した証として男の姿になった!
というのはなんだかちょっと女身成仏として納得いかないが、
まぁ法華経にそう書いてあるのだから仕方ないだろう。

一方こちら↓は双髻を結っている。
f:id:ko9rino4ppo:20160614225431j:image
ちょっと仏像に興味がある人なら、
この双髻と中腰感で何となく誰だかわかるだろうか。
安倍文殊院にあるのが有名かもしれないが、
文殊菩薩の勧めで多くの人々を訪ね修行をし、
普賢菩薩のもとで悟りを開いた「善財童子」である。

f:id:ko9rino4ppo:20160614225454j:image
ひょうきんなポーズのものから、
いまにも乱闘を始めそうなのまでいる。
f:id:ko9rino4ppo:20160614225512j:image
こちら、ファッションもさまざま。
f:id:ko9rino4ppo:20160614225526j:image
乗り出してこっち見てる人がいる!

…とこんな風にかなり楽しんできたわけだが、
ひとしきり見終わってから受付のおじいさんが
(服装をよく覚えていないがあれは住職さんだったのか?)
この羅漢堂について話をしてくれた。

*羅漢チャンネル*
そう。今回は別に
仏像や羅漢さんを紹介したかったわけじゃなく、
その話を少し書きたかったわけですよ。
ここまで長かったけど。

まずこの羅漢堂が何を表現しているかということ。
この羅漢堂の正面には毘盧遮那仏がいるわけだが、
まずそれはお釈迦様の顔をしてはいるけれど
お釈迦様の姿を写した像ではないんですよ。
というはなし。

「盧遮那仏だけではなく御前立の二体も
 釈尊十大弟子も五百羅漢さんも、
 そこに人が集っている様子であるように見えながら
 それは人や一人一人の仏・羅漢ではなく
 このお堂の中全体が一つの宇宙を表しているんです。」

別にこれは具体的に、
「この仏さまは〇〇星で…」
みたいな話ではない。

私だって、
修行をしているわけではないし
仏教だって別に詳しくない。
だからこそ「空(くう)」とかそうゆう解釈論的なとこより
動物と戯れたり空を飛んでみたりおなかから仏様が現れたり、
そうゆう目に見える神通力を行使する羅漢に惹かれるわけだが。

でもなんかこの説明の
「御堂全体が一つの宇宙」という言葉で
すごく御堂の包容力がupした感じがした。

そして、さらに気に入ったのは時代背景の話。
この羅漢像たちがどんな時代に作られたのか。
それは、大飢饉の時代。
「今年はちょっと不作だ」ってレベルじゃなく、
何十年も飢えが続くような大飢饉の中で。

お寺ってゆうのは普通、
一定の立場(出家したとかね)の人以外にとっては
死者を弔ってその成仏を願ったりする場所。
でも、
死んだ人は食べてしまえ。弔う余裕もない。
そんな時代に「死んだ人」でなく
「生きている人」の心の拠り所になるよう作られた。
それがこの羅漢堂なんですよという話。

だからこそいまも、
生きている私たちがふらっと立ち寄っただけで
このズギャァアアン!ってゆうパワーを感じられるわけ。
もともとこの五百羅漢のパワーチャンネルは、
生きてる人に合わせてあるからね。

なんかすごく腑に落ちた。

*おまけ・修行三昧と睨み龍*
ちなみに、管理人が神様や神社のことを調べると
全く抜けられなくなるのと同じように。
羅漢さんたちにとって修業は楽しいことのようだ。
受付のおじいちゃんはそう言っていた。

ただ、楽しいけどあくまでも修行ですよー。
ここは神聖な場で、邪気は入ってこられないし。
そんな意味もあって、
天井には八方睨み龍が描いてあるのだそうだ。

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ほんとうに、中にいるとそこは
羅漢たちが修行することに心を傾け
ひたすら自由に集中する「修行三昧」の宇宙。
盛岡にお越しの際は、是非!
羅漢堂で修行天国な宇宙遊泳をお楽しみあれー。

諏訪大社、宝殿遷座祭2016!

長野以外の世の中では
「今年の御柱祭りはもう終わった」
と思われているであろう6月15日。
上社本宮の宝殿遷座祭が行われた。

あの、巨大丸太を曳行するのが御柱祭り!
と思われがちなのだが
御柱祭りの正式名称は「式年造営御柱大祭」。
諏訪大社の式年造営のお祭りなのである。

であるから、柱を建て替えるだけでなく
神様のお引越しをしなければ終わらないのだ。

そして、ほかの神社にも式年遷宮とかあるけれど
諏訪大社のちょっと違うところは
「仮住まいに移ってもらって本殿を建て替える」
のではなく
「東と西に宝殿があって、新築したほうへ移ってもらう」
のである。

ほかの記事にも書いたかもしれないが、
一般的な神社には神様がいる「本殿」は1つ。
しかし、諏訪大社では各宮とも
神様の住める場所(宝殿)が2つ(東西)あるのだ。
※前宮を除く。前宮は現在、本殿1つを有する構造。
そして、御柱大祭の年(申年と寅年)に引っ越して
つぎの大祭までは6年間 その宝殿にお住まいである。

今回は、西宝殿から東宝殿への引っ越し。

観光じゃありませんよという意思の表れなのか、
曳行の時はタイムテーブル的なものが公開されていたのに
今回は全くホームページに情報がない。
諏訪の観光協会に訊いてみるも、分からないらしい。
茅野観光協会の電話番号を教えてくれたので、
そちらにかけてみるとやはりわからず。
大社さんの番号を教えてくれて、やっと訊けた。
今年の遷座祭は「11時半に始まる」とのこと。
「でもあんまり近くでは見られませんよ」とも教えてくれた。
いいんですいいんです。何をやってるか見えればそれで!

当日、本宮に近づくにつれ
黒スーツのおじさんとの遭遇率がup。
「おはようございますー」
と挨拶してくれるので私も挨拶。
そんな感じで11時ちょっと前に本宮につくも、
寝不足がたたり睡魔の奇襲を食らう。
これはイカンとフラフラと法華寺に向かい、
休めるところを探すと…なんと!
「山門の上部にある仏像もどうぞご覧ください」
という看板が!これは上に登れるぞ!

ということで、
こんな立派な神様たち↓の前で恐縮だが
山門の2階部分の隅っこで丸くなってしばし就寝。
f:id:ko9rino4ppo:20160618214850j:imagef:id:ko9rino4ppo:20160618214905j:image
(観光客に見つからなくてよかった…と思う)
そして、神様たちにペコペコ頭を下げながら
いざ宝殿遷座祭!

境内につくと、
さっきの黒スーツおじさんたちと宮司さんは
社務所のほうで並んで既に何かをしていた。

そして池の前で祝詞を読み上げる。
(残念ながら何と言っているか聞き取れなかった)
f:id:ko9rino4ppo:20160618215000j:image
布橋に上がるためのお祓い的なものなんだろうか。
これをして、まずはスーツおじさんの一団が布橋へ。
f:id:ko9rino4ppo:20160618215033j:image
おじさんの家族らしき見物人さんが
「あーあ、あれじゃ靴わかんなくなるわねぇ」
と呟く。確かに、みんな黒い革靴を脱いで上がる。
そして、さらに神職さん同士でのお祓いみたいのがあって、f:id:ko9rino4ppo:20160618214940j:image
その人たちも布橋へ。
f:id:ko9rino4ppo:20160618215153j:image
f:id:ko9rino4ppo:20160618215244j:image
雅楽の生演奏の中、まずは神宝が移動。
鏡・弓・薙鎌・太刀・鉾。
f:id:ko9rino4ppo:20160628014716j:image(↑弓)f:id:ko9rino4ppo:20160625220142j:image(↑薙鎌)f:id:ko9rino4ppo:20160625220239j:image(↑よく見えない。太刀?鉾?)
そして、ついに神輿。
ここ↓に御霊代が乗っているんだろうか。

下社の宝殿遷座祭は「御霊代、遷座」と言われるが
今回は「御霊代」でなく「神輿」という言い回しだった。
f:id:ko9rino4ppo:20160625220336j:image
しかし、なんでこんなにモコモコ?
と思うかもしれないが
なんと遷座のたびに藩主さんが緞子を奉納し、
それを「新調する」のではなく「重ねていく」そうだ。
なんとゆうか、オシラサマ方式だな。
なんでタスキ掛けが右の人と左の人がいるの?
と思っていたが、写真をアップにしてみると
タスキに神輿の棒を入れて担いでいるのがわかる。
右を担ぐ人と左を担ぐ人だったのか…

…とか考えていたら
町内のスピーカーから「エーデルワイス」が流れ始め、
雅楽と変な感じにミックスされているではないか!
誰も声に出してツッコまないものの、見物人 苦笑いである。
なんだ?正午の時報なのか?
今日ぐらい、大社の近所くらい、放送切ればいいのに…。

下の写真は、
神輿が通る場所に敷いた布を片している現場である。
この布が、この廊下が「布橋」と呼ばれる由来だそうだ。
f:id:ko9rino4ppo:20160625220359j:image
そして、いろいろ読み上げたりした後に
今度は果物などの御供物が東宝殿へ供えられる。

分からないけれど、
植物も弱ってない時期を選んで植え替えて
植え替えしたらたっぷり水あげるよね。

もしかしたら、遷座もカミサマ疲れるのかもな。
だから、移動後の栄養補給的な?

もしくは「こっちの家もいい場所ですよ」って?

と、ぼんやり考えていたり。
今までの6年間の力が染みついたおうちを出て、
普段人が通ってる布橋を通って、
まだ御宮とゆうより木の感じが強い建物に移って。
疲れるよな、そりゃ。

ちなみに昔は、
新築したばかりの宝殿に引っ越すのでなく
神様が引っ越したら
今までいた方の宝殿を新築したらしい。
いつの間に、どうしてピカピカ新居方式に…?

さて。
こちらがさきほど
遷座開始前に祝詞を読み上げていた池。
f:id:ko9rino4ppo:20160713000252j:image
大社の神様は神居に居るのか宝殿に居るのかよくわからないが、
どちらにしろ、この清祓池のほうを向いて祝詞を読めば
神居・宝殿にはお尻を向けることになる。

しかし、今回のみならず御頭祭でも何でも
ことあるごとに この池のほうを向いてお祓いやらをして
そして神事(祭)が始まるのである。どういうわけなんだろうか。

大体、この池は大社にとってどういう場所なのか?
そこすらよく分かっていないのだが。
ただ 妄想として 昔はコレ
諏訪湖に向かってやっていたんじゃないか?
という気がしてならない管理人である。

まず、この本宮の住所「諏訪市中洲」。
中洲ということは、周りは川か湖だったわけだ。

そして(一部移築したとはいえ)
今となっては湖に面しているだけの高嶋城も
富嶽三十六景↓では まさに「浮島城」。
カンペキに湖上に建っているように見える。
f:id:ko9rino4ppo:20160713000443j:image

そしてさらに、諏訪の古地図を見てみると
いまより諏訪湖は広かったように思える。
今は湖からやや離れている地名も、湖畔にあったりする。
f:id:ko9rino4ppo:20160713000407j:image
↑こちらは元禄時代の地図。

大雑把なやり方ではあるが、
上の地図の地名を今の地図で探して
地名と諏訪湖の位置関係で見ると分かりやすい。

大体この水色で塗ったあたりは諏訪湖とその支流!
ということになる。
f:id:ko9rino4ppo:20160713000424p:image
「赤沼」や「福嶋」は位置や形からおそらく
画像上方から諏訪湖に流れ込む河川の力で
湖の入口に堆積した三角州である。

三角州ということは
堆積し始める前はここも湖の底だったということだ。
そうなれば、本宮の前はもう諏訪湖

さらにダメ押しで、
上社の御柱曳行では最後本宮についた柱を
船(の神輿?)が出迎えるのをご存じだろうか。
みんなが賽銭を投げ込んでいるアレだ。

「これは、長野の氏族がモトは九州の漁民で云々…」

という話もあるが、
そんな難しい歴史の話をしなくても
(※安曇氏が九州系漁民だというのは事実らしいが)
そもそも昔は大社さんの鳥居近くまで諏訪湖が広がり
本宮前に御柱が到着すると
実際に船で出迎えに行っていたのかもしれない。


方向的にも、それなら大体合うだろう。
妄想の域は出ないけれど、
全く根拠がないわけでもないのでご容赦願いたい。

諏訪湖どころか
上社と下社の関係すら謎のままだが、
摂社葛井神社達屋酢蔵神社を見ても
諏訪大社グループは結構「水」を重んじているようだし。

御柱曳行に比べると宝殿遷座は地味くさいな」
…と思ってしまう人も多いだろうけれど、
祝詞諏訪湖に向かってあげていた」
と思うと何ともスケールの大きい神事ではないか。

ということで、諏訪に関する妄想は全然終わらないが
今回の式年造営は、これにて終了~。
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近戸神社で(゚д゚)ハッ!(+α 阿夫利神社)

いまどきなかなかお目にかからない、
車掌さんが切符をカシャッとやってくれる上毛電鉄f:id:ko9rino4ppo:20160606210524j:image

f:id:ko9rino4ppo:20160606210555j:image

北原ゆうきちゃんに見送られて、
中央前橋駅から粕川駅まで出発~。
粕川駅で降りると、周りは一面の麦畑。
農家のおじいさんたちが軽トラに乗りながら、
こんな時間にこんなところを歩いている女子、
いったい何が目的だんべ?
とこちらを見ている。
 
阿夫利神社
歩いていると、畑や民家の隣に突然神社が。
目的の神社ではないのだが、
習性で鳥居や鎮守の森を見つけると吸い寄せられてしまう。
f:id:ko9rino4ppo:20160606210636j:image
拝殿らしい建物には「神明宮」と書いてあるが、
こんなところでいきなりアマテラス…?
と思っていると、神社のわきに新しそうな鳥居があり
そこには「阿夫利神社」と書いてある。f:id:ko9rino4ppo:20160606210713j:image
しかしその向こうには神社らしい神社はなく、末社のような小さな祠ばかり。
祠たちの扁額部分を見てみると、
養蚕の神様の聖地「蚕影山」。
f:id:ko9rino4ppo:20160606210743j:image
そしてこの写真の向って左、鳥居の主と思しき
「阿夫利大神宮」。
f:id:ko9rino4ppo:20160606210805j:image
阿夫利神社とは、いかにも当て字っぽい
なんだか気になる名前…。
と思って「あふり」で検索すると大量にラーメン屋がヒット!
なんでじゃ((((;゚Д゚)!
と動揺しつつ、ちゃんと漢字で検索すると…。
 
前回の記事で石尊大権現さんが少し出てきたが、
その神奈川県伊勢原の大山にあるのが
大山阿夫利神社」だったのである。
神仏習合時代の神様は石尊大権現と天狗たち。
「阿夫利」の名前は「雨降」と書かれた時代もあり、
雨乞いの対象でもあったそうだ。
 
気になることに、
最近まで大山阿夫利神社神社本庁に属さず
阿夫利神社本庁という形で単独で運営していたらしい。
(by Wikipedia
 
おそらくだが、なかなか力があったからこそ
それが可能だったのだろうと思われる。

今回の粕川のように、
前橋の中でもちょっと山寄りには
前回書いたように石尊大権現の祠や石塔が多い。
石尊大権現を祀る神社は神仏分離以降
ほぼ祭神を大山祇(オオヤマツミ)としてきたので
単に山岳信仰文化圏だから石尊様、と思っていたけれど。

石尊大権現さんがたくさん居るのは、
大山阿夫利神社の勢力圏だったからなのかもしれない。
f:id:ko9rino4ppo:20160606211710j:image
しかしこの神明宮の提灯がついた拝殿は
もとから神明宮だったのか?と見てみれば、奥の角っこに
大山阿夫利神社□□記念と書かれた白黒写真が!f:id:ko9rino4ppo:20160606211630j:image
□の部分は目が悪いのと、
写真をアップにしても見えなかったので確認はできないが…
この神社に神奈川から阿夫利神社の石尊さまをお招きした時の写真なんだろうか。
拝殿の瓦などは結構古そうなので、
もとは阿夫利神社として建てた建物を神明宮としたんだろうか。
(例えば神社本庁の傘下に入ったタイミングとか…)
 
*近戸神社*
そしてそこから徒歩でしばらく。
(と言っても30分はかからない)
群馬県前橋市粕川町月田。
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レトロなタバコ屋を通り過ぎ…
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近戸神社が現れる。今回のお目当て神社である。
今回は、
群馬最古の狛犬があるとゆう話で目的地を決めたわけで。
もったいぶっても仕方ないので、
サラッと出してしまうとコレがその狛犬
f:id:ko9rino4ppo:20160610074914j:image
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なんともいえない、丸っこい体つきである。
平面的な尻尾もまた塔婆(?)のようで特徴的。
パグ系のブサカワ狛犬である。(いや、可愛いくないかな…)
ちなみにこちら、鳥居入って両脇とかでなく
境内奥の藪っぽいところに2匹並んで仲良く座っている。
一匹破損してしまったので代替わりしたらしい。

そしてさらに奥に進むと獅子舞の練習場があり、
そして細い道を挟んで向こう側には…!
f:id:ko9rino4ppo:20160610075006j:image
f:id:ko9rino4ppo:20160610075038j:image
何とも言えない数の庚申塔が!
知らない人が見たらお墓かと思ってしまうような量!
しかもなんか真ん中に向かって、
ここに立っていると庚申塔に囲まれてる感がすごい!
そして一対の大きいサル!
f:id:ko9rino4ppo:20160610075056j:image
と、庚申塔エリアを堪能したところでまた境内に戻る。
拝殿は、真ん中に「近戸神社」の扁額。
そして向かって左に「蠶玉山大神」の扁額。f:id:ko9rino4ppo:20160608124254j:imagef:id:ko9rino4ppo:20160608124820j:image
なんかココまで、
狛犬のことしか考えてなかったんだけれど…
たぶん現物を見て少し落ち着いたんでしょうね。
いろんな回路がつながってきましたよ。
そして(゚д゚)ハッ!と。
近戸近戸って、土地かなんかの名前かと思ってましたけどねー。
こないだ会ったばっかりの神様がいるじゃん!ってね。

長野ですよ!
洩矢神の孫にして、
御頭祭に供える鹿を狩る役目を担っていたのではという!
チカトさまじゃないですか!?
そうでなければ、こんな片田舎で
赤城大神の御膝元で正一位なんて不自然じゃん!

と、一人でテンション上がったところで
またスズメバチに追いかけられて
コソコソ逃げ回る管理人(;´Д`A
どうやら狛犬の藪付近は巣があるらしい。
裏手を探索できず…。

しかたなく、表のほうで説明版を読んだりする。
ふと見ると携帯の電池は残り3パーセント。
仕方なく何かの資料になるかとこの辺を写真に撮ってみた。
f:id:ko9rino4ppo:20160610075233j:image
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天井は、最近修復したのか保存がいいのか
以外にも鮮やかな格子天井。家紋?
そして壁には神馬の絵のほか、切り絵のような月田の獅子舞。
(画面のノイズは汚いガラス越しに撮った為のもの。オーブじゃないよ。)
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そして、もっと何かわかるのではと別の近戸神社へ。
まずは同じ月田にある近戸神社。粕川を挟んで対岸である。
(とはいっても、先の近戸神社はそんなに川から近くない)
微妙に公園を兼ねているためか舗装がされていたり、
吊り橋みたいな感じの橋があったりして
鳥居が古そうなのだがありがたみは薄め…
御旅所?の天井の竜も、
神獣というよりどことなく妖怪じみているような…
(※勝手な偏見です!)
ということで早々に後にしてしまった。

続いて前橋市笂井(うつほい)町にある近戸神社へ。
小学校のすぐ隣であるが、全く人はいない。
(まぁ、そりゃそうか。休日の夕暮れだし。)
入ってみると、そう大きくはなく、拝殿の屋根もトタン風。
もう暗くなり始めていて確認できなかったけれど、
こういうトタン風の板で萱葺を覆っている神社も結構ある。
葺き替える萱と人が足りないんだろうか。

こないだ子供向けの本の
「神社とお寺の違い」みたいなページを読んだら、
お寺は瓦葺き、神社は萱葺と書かれていた。
見てる中には結構瓦葺の神社もあるけど、
あれはもともと権現様とか(そうゆう神仏グレーゾーンの)
がいるお寺を神社にしたんだろうか。

そうかんがえると、
見た目はしょぼいけど萱葺を存続できなくなって
トタン屋根にしている神社のほうが…
実はホンモノだったりするんだろうか。

さておき、ここの説明を読むと
祭神は
オオナムチ、大日孁(オオヒルメ、アマテラスの別名)
オオヤマツミ菅原道真公。

末社の扁額部分を見ると、
この辺でおなじみの絹笠神社、阿夫利神社のほか
全国チェーン琴平神社秋葉神社愛宕神社…etc。

さて、ここから。
「笂井とゆう地名を付けたのは南朝の藤原さんという役人。
奈良にいた時の氏神様をここにお招きして、
その春日の末社として祠を立てて「千鹿頭明神」と称した」

ほらやっぱりチカトウ様じゃないか!
ふんふん、それで(=゚ω゚)?

「大胡城主の牧野さんが御神徳に着目して、
 城内に社殿を作り近郷の総鎮守となった」と。

殿様に気に入られると強いよね。
しかし元は春日の末社だったって?
じゃあなぜ今、末社だった千鹿頭(近戸)が社名に?

鹿?まさか鹿つながり?
南朝の藤原さんってことは、
藤原氏だから氏神春日大社を勧請したわけでしょ。
で、春日の神使いは鹿。
でもその名残だっていうなら何故祭神は
タケミカヅチでもフツヌシでもないのかは疑問…。

説明板には
北条氏の兵乱で社殿や記録を焼失」
とあったので、
春日様だったことはいったんリセットされちゃって
名前だけが残って「近戸さま」だった時代が長くて、
その後神仏分離かなんかで
「ちゃんと神道の神様祀りなさいよ?」って言われて、
じゃぁ、月田の近戸神社もオオナムチだし そうしようか?
みたいになったんだろうか。

月田の近戸神社に倣ったなら
豊城入彦もいていいはずなのだが…
その辺も気になる。

あと、別に長野から招いたとかは全然書いてない。
でも諏訪大社も春日の神様・タケミカヅチが乗っ取ったし
(人聞きが悪いかな…)
その時から東方に流れた藤原氏
鹿を神使とする春日様と一緒に
同じく鹿である千鹿頭さまも祀るようになったとか
同一視して大事にしていたとかあるのかな…?

だとすれば、
長野土着の神様が霊験によって近隣の県に広まった
と考えるよりも信仰が広範囲に広がっていることは納得できる。

蛇足だけれど、
アマテラスという天津神でなく
オオヒルメという名前には
天皇さんとか関係なく単に太陽神(自然神)として祀ってる
みたいなニュアンスを感じて個人的には好き。

電池切れで
最後は写真がまったくなくなってしまったけれど、
地元で千鹿頭様に再会できた楽しい散歩だった
♪( ´▽`)