神長官守矢資料館に行き、
そこの屋根にある家紋を見たら、
こんなだったわけですよ。
ん?島津藩?
ってなりますよね。なったんですよ。
で、どっからきた!?ってなったわけで。
当初の予想としては柏紋だと思ってたわけですよ。
だって、物部守屋神社も洩矢神社も柏だもの。
表記も祭神も違うモリヤ神社が同系統の家紋なら、
当然このモリヤも!って思ったんですけどねー。
完全にハズレました。
じゃあこれ何なのかな、
と思って調べたことまとめ。
*島津家は信州にもいた*
そもそも、島津=薩摩!!というイメージがあるが
調べてみたら島津氏の祖は別に薩摩の人ではなかった。
モトの名前は惟宗忠久。(島津さんですらなかった!)
彼は鎌倉の御家人で、平家追討の褒美として
伊勢国波出御厨・須可荘地頭・島津荘下司に任命された。
さらに同じ年に信濃国塩田荘地頭にも任命されているのだが、
こんなに離れた土地の役職について大丈夫なんだろうか。
ともかくそんなわけでいろいろな土地を任された忠久さん。
一番広い土地を本拠地(?)にしようということで、
苗字を島津に代えたそうな。
そんなわけで、島津家はもともと
信州に関係のある氏族だったというわけだ。
さらに、そこから数十年経っても
島津家と信州の縁は切れなかったらしい。
信州の御家人たちは持ち回りで
諏訪の五月会・御射山の祭祀役員を務めたらしいが、
そこにも忠久や、その子孫たちの名前がたびたび出てくる。
御射山神事では相撲や鹿狩りなどが行われ、
昔は上社・下社ともに行っていたもの。
当然そこには神長官だった守矢氏も携わっていただろう。
どういう関わりがあったかはわからないが、
家紋を賜るということもなくはないだろうと考えられる。
…御射山祭りのホームページを見ていたら
「下社の御射山祭りは、下社大祝・金刺氏が
上社に滅ぼされてからというもの衰退してしまった」
というようなことが書いてあった。
え、なにそれ。その話気になるんですけど。
神官〇〇氏に、とかじゃなくて上社に滅ぼされたの?
*矢の神と十字*
ま、とりあえずなんかその陰謀っぽい話は置いといて
今回調べるまで知らなかった「矢口餅」というものがある。
「矢口祝い」「矢開き」と呼ばれる風習に用いられるもので、
猟を行ったもの(特に年少者や初めて獲物を獲った者)が
餅に十字を切って本人や村に重役が食べるのだそうだ。
猟の成功を祝い、また感謝するために行うと考えられるが
主役が「年少者や初めて獲物を獲った者」というところで
通過儀礼的側面も指摘されている。
もちろんこれにもさまざまなバリエーションがあると思うが、
鎌倉幕府の記録に残っているものでは
三食(赤・黒・白)の平たい餅を重ねて、戦勝祈願として
弓の達者なものが3人選ばれこの餅を食べるという儀式らしい。
あくまでも、戦いとか、武器なら何でもとかでなく
「弓」と「矢」なのである。
さらに言えば、この儀式は獲物を与えてくれる山の神と
そして「矢口神」と呼ばれる神に向けたものらしい。
洩矢・守矢も「矢」だしな…
これは気になる話だ。
と、とりあえずメモなのでこれくらいにしておこう。
調べれば調べるほど、知らないことがいっぱいだなー。
(;´Д`A