燃やして 願って、吉田の火祭り。
まだ全然、立石寺の全国シシ踊りフェスティバルとか
書く記事溜まっているわけだが…。
いろいろ忘れないうちに、吉田の火祭りのメモ。
というわけで、8/26に山梨県富士吉田市へ行ってきた!
(/・ω・)/ワーイ!
吉田の火祭りといえば「日本三大奇祭」。
管理人は「奇祭」というと勝手に
危険さや 想像を凌駕するビジュアルを想定してしまう。
例えば、奇祭の王座に(私の中で)君臨する御柱祭!
コレと比べると、吉田の火祭りは マイルドな印象がある。
日本にはもっと危険な祭りも
見た目がヤバい祭りもたくさんあるのだが、
なぜコレが「三大奇祭」なのか。そもそも奇祭って?
*行き当たりばったり火祭り*
色々と考えながら歩いていると、金鳥居に到着!
この辺りから松明や出店が増えて祭っぽくなってくる。
地元の人が組み上げた櫓状の松明と、
企業や団体から奉納された大松明がある。
高さは まちまち。組む人の力量に懸っているみたい。
中には成人男性の背丈ほど高いもの↓も。
実は寸前まで火祭りに行くかどうか決めておらず、
ほとんど下調べもしないまま来てしまった管理人。
そもそも吉田の火祭りって
たまにテレビで見るけど何の祭なの?と調べてみると
富士吉田市の浅間神社&諏訪神社の祭りだという。
今回偶然、長野から車に乗せてもらい吉田に来たので
「山梨にも、お諏訪さまが居るの!?」
と俄然テンションが上がる。
まぁ それは一旦置いといて、
浅間神社なので当然、富士山が関わっている祭である。
日程的には富士山の「お山じまい」の祭らしいが、
では町中に松明を灯し 何を願っているのか?
と考えていると、神社を出発した神輿が近づいてきた様子。
いやぁ、やっぱり富士山 キレイな形してますな!
(*'ω'*)
その富士山を背景に、真榊が進んでくる。
それに続いて来た賽銭籠を見ると…
「鎮火」という文字が見える。
しかし、こんな乾燥していない時期に鎮火祭?
と思っていると それに続く諏訪神社の神輿。
そして!それに続く赤富士!
え、これ神輿っていうのか?インパクトあるわー。
てゆうか何コレ。なぜ赤?やっぱり火?と思って調べてみる。
先程の御神輿らしい御神輿に乗っているのは
・お浅間さま3柱→コノハナサクヤ&ニニギ夫妻、オオヤマツミ
・諏訪神社の2柱→タケミナカタ&ヤサカトメ夫妻
対して、赤い富士山(御影、お山さん)には
浅間大神の「荒魂」が乗っているらしい。
富士山の神様の荒々しく恐ろしい一面といえば
勿論、噴火のコトだろう。
そうか。町の火災ではなく噴火への鎮火祭なのね。
浅間神社の主祭神・サクヤヒメさんも、
山の神・オオヤマツミを父に持ち
燃え盛る産屋の中で無事3柱の息子を出産した女神様。
お山の安全を願い、火を鎮めるにはうってつけの方だ。
*富士山と富士信仰*
何となく火祭りの輪郭がボンヤリ見えてきたところで、
この富士山と、それを信仰する人たちについて少し考える。
今でこそ誰でも(体力と備えがあれば)登れる山だが、
かつては人が踏み入ってはならない「禁足地」だった。
現代人はやれ霊山だパワースポットだとバシバシ登るが
昔の山というのは富士山に限らず「神の領域」であり、
信仰の場には巫女的な特定の人間しか入れなかったと思われる。
山によっては裾野の森を「入らずの森」と呼んだ地域もあるとか。
さらに、普段は林業や狩猟のため人が入る山すら
「師走と睦月の12日は山の神が木を数える」
などと言って何人たりとも入れない日があったという。
それが少しずつ変わったのは、仏教伝来後と言われている。
山に入るという修行の方法(荒行)があったためだろうか。
そして、室町時代ごろにはついに一般人の登山が解禁。
※おそらく行楽目的ではない
しかし、解禁されたとて 地元から富士山へ→登り→帰る
という 人の脚で1週間以上かかるであろう行程には
体力のみならず経済的な問題も付いて回った。
しかも、かかる銭コは移動中の食費だけではない!
富士山を登るにあたり、寝具等々全て自分で持って行くことはできない。
そこで、荷物を持ってくれる人を雇う必要があった。
もともと家来や使用人がいる身分ある人なら良いが
時代が下り庶民が登るようになると
強力(ごうりき)という職の人に荷物の一部を持ってもらい登ったのだ。
実物を見たことはないが、きっと
山小屋に物資を運ぶ歩荷(ぼっか)さん的な感じだろう。
話が逸れたが…とにかくお金がかかるのである。
そこで、江戸の人たちは「富士講」という仕組みを確立。
地域や有志で団体を作り全員でお金を出し合って
代表者を富士山へ送り出すというシステムだ。
そうして一定期間に一度 この「富士詣」をする他、
普段は塚や祭壇をもうけ、それを信仰の拠り所とした。
一時は江戸幕府が禁制を敷くほど富士信仰が盛り上がり、
富士詣に来た一般人の世話をする「御師(おし)」が増加!
宿の提供のほか、様々な手続き、取り次ぎ、指導を行った。
ところが、明治時代になり国家神道的な圧力がかかったり
さらに 女人禁制の解禁、登山のレジャー化などが重なる。
そうして神秘性が薄れたという背景もあり富士信仰は衰退。
最盛期には86軒あった御師さんも現在は40軒となり、
実際に御師として活動している家は2軒しかないらしい。
(浅間神社HPより)
しかし、今回の祭りでも 祭の法被を着た人とは別に
行衣に身を包んだお年寄りたちを見ることができた。
行を積む方たちが行衣に御朱印を集めるのは
なにも富士講に限ったことではないが、
場所とタイミングからして富士講員さんなのだろう。
たくさんの朱印が付いた行衣、ステキだなぁ…
と その姿を見送り神社に向かって歩く管理人でしたとさ。
*5柱の渡御*
さて、富士信仰から祭の話に戻るが
さきほどの神輿と御影は どんな動きをするのかというと。
まず浅間神社から諏訪神社へ浅間さまが遷される。
多くの神社の遷座祭のように絹垣に遮られての移動は、
威勢のいい神輿渡御と対照的に神事然としている。
その後、神社から神輿に相乗りになったカミサマたちが出発。
そして神社から富士山駅方面へ参道を下り
鳥居と神社の中ほどにある「御旅所」へ向かう。
(先程の神輿・御影の写真はこの時に撮ったモノ)
この間、御影は決して神輿を追い越すことは無いらしい。
噴火という自然の猛威を神の「荒魂」と崇めつつも、
それが人を守る神々の「和魂」を超えることは無い!
という噴火抑止への願いが垣間見える。
ちなみに、小さな祭に行くことが多いせいか
御旅所というと「石の台と屋根だけ」的な
神事の間に神輿を置いておく小屋…
というようなイメージがあったのだが、
予想に反して この豪華さである↓
神紋は、コノハナサクヤヒメらしい桜。
神輿が2台並んで入るとあって豪華な御旅所である。
写真を撮った時は神輿到着前だったが、
既に待ち構える人で御旅所はごった返していた。
そして、こちらに神輿が到着すると
間も無く「迎え神楽」として富士太々神楽が舞われる。
いつもならいつまでしつこく見ているが、
同伴者が居たので、今回神楽はちょっとだけ。
見られたのは「綿津見の舞」。
神輿への参拝の列に並んでいると、
ちょうど奥の扉から舞手の人が出てきた。
参拝客に交じって、神輿に一礼。御影に一礼。
舞の奉納自体は、御旅所横の舞台で行われる。
御神輿の真ん前でやる、とかじゃないのがチョット意外。
こうして歓迎されながら、カミサマたちはこちらで一泊。
そして、神輿が通り過ぎた街中では
ものすごい勢いで大松明を燃やす準備が始まる。
道の端に準備してあった土を
スコップやネコ車を手に どんどん道路中央の枠の中へ!
この上に大松明を置き、
金鳥居から浅間神社に向かって順次火をつけていく。
このメインの通りはもちろんのこと、
ここから外れた細い路地でも
各家の前に組まれた松明に火を灯す。
そして、実は街中が明るすぎて見えづらいのだが
富士山にある多くの山小屋でも同様に松明を燃やす。
祭の最中に富士山がよく見える暗めの場所へ行くと、
その山頂へ細々と続く光の道を見ることができると思う。
(山開きの日などにも光の道が見えるが、
これは御来光を拝もうとする登山者のヘッドライトの列)
今回は1日目しか見られなかったのだけれど、
御旅所に一泊した神輿は2日目に氏子地域を練り歩き、
夜に神社境内へと戻っていく。
境内へ戻った神輿は高天原とよばれる広場
(浅間神社拝殿前の神楽殿と 諏訪神社の間あたり)
を奇数回グルグルと練り歩き、
それに氏子や参拝者が続く様子は圧巻だという。
この時に参拝者が無病息災や安産を願って
すすきで作った玉串を持つことから
特に2日目を「すすき祭り」と呼ぶのだとか。
*北口本宮富士浅間神社*
さて、祭の流れを把握したところで
神社から下ってきた神輿と それを追う人の群れに逆流。
松明に火が灯るまでの間で神社に向かうとする。
進んでいくと、急に町がプツッと終わり
道のむこうに急に鎮守の森が広がるような印象。
鳥居をくぐると木々に遮られて急に暗くなり、
今時珍しくロウソクが灯された燈籠が並んでいる。
暗い参道に 火が灯って神社へと続いていく様は幻想的だった。
町はまだ明るいが、鬱蒼とした鎮守の森に囲まれ
境内は日の入り後のように暗かった。
ので、ここからは夜撮カメラアプリでの写真となります!
画像の粗さや手振れは どうか御見逃しくだせぇ
(;´・ω・)
まず、こちらが浅間神社。参拝者で賑わっている。
こちらから見て、拝殿のむこうに富士山がある。
拝殿に上がってみると、奥にはピッカピカの本殿が!
今日は長野のほうから来ました、と挨拶。
そして上を見上げると、大きな天狗面が2つ飾ってあった。
烏天狗と大天狗なのだろう。
「大天狗のほうが格上」「迦楼羅天のような顔」
というイメージの烏天狗だけれど、
なんかここのは烏天狗も鼻が長くて鷲鼻に近いくちばし。
烏天狗のほうが貫禄あるような…。
そして、大天狗といえば
口を真一文字に結んでいる絵が多いが
ココのは口が開いている!
烏天狗と大天狗で阿吽になっているようだ、
さて、富士講の発展に寄与した御師は
山岳で修行を行う行者さんたち。
なので富士山で天狗と言われても不自然ではない。
しかし、ためしに「浅間神社 天狗」で検索検索ぅ!
(*゚▽゚)ノ
すると、意外にもヒットせず。
出てくるのは今回の北口本宮か小御嶽神社ばかり。
ちなみに急に出てきた「小御嶽」とは、富士山の前身。
この小御嶽を土台に噴火と堆積を繰り返し
小御嶽を覆うように山は高くなって現在の標高になったらしい。
そして、いまは山梨側の富士山5合目に
小御嶽の頂上部分が少しだけ出ている状態だそうだ。
その付近は「天狗の庭」と呼ばれ、
そこにある小御嶽神社にも天狗面が飾られているという。
祭神はコノハナサクヤヒメの姉・イワナガヒメ。
富士山土産で天狗とかあまり無いので、
富士山全体としては天狗推しではないようだが…
御師町として栄えた富士吉田では
小御嶽の天狗信仰も富士山と併せて大切にされていたようだ。
ちなみに、拝殿の横をぐるっと回って
ずらっと並んだ境内社たちを通り越すと西宮が現れる。
西宮は重要文化財にも指定されていて、
アマテラスさんやトヨウケさん、金毘羅さんが居る御宮。
その横にさらに通路は続いていく。
その通路と西宮の間に 小ぢんまりと建っているのが
「小御嶽遥拝所」である。
あまり目立たない場所ではあるが
小御嶽が重要な場として扱われたことがコトが分かる。
さらにその通路の奥へと鎮守の森の中を進んでいくと
小高い丘に鳥居と小さな祠がある「大塚丘」に着く。
ここは北口本宮浅間神社の「モト」ともいえる場所。
なんでも、ヤマトタケルが 当地を訪れた際に
富士山に向かって祈願した場所だという。
さっきから喋ってばかりで写真がないぞ!
位置関係とか様子が分かりづらいぞ!
と言われそうだが、
もはや暗すぎて写真撮れませんでしたm(_ _)m
ちなみに、この大塚丘からはさらに奥へと道が続き
そのまま富士山の登山口となっている。
さて、まっくらけで怖いので 早く戻ろ(´・ω・)
先程の小御嶽遥拝所や西宮まで戻ると、
通路があって浅間神社の裏が通れるようになっている。
神社の構造によっては裏から本殿が全部見えたりするが
ココは厳重に壁がありそうはいかないようだ。
なーんだ。と思っていると…
ま、まさかの、本殿裏の壁に恵比須&大黒コンビが祀られている!
なんじゃこれは。コノハナサクヤヒメとどんな関係が!?
大黒様はオオクニヌシ、恵比寿様はコトシロヌシと同一視される。
と考えてみるのはどうだろう。
アマテラスが地上も天津神によって統治しようとした時
地上を統治していたのがオオクニヌシだ。
アマテラスが派遣したタケミカヅチたちは地上に降臨し
オオクニヌシを訪ねて国譲りの交渉をする。
すると大国主は「俺の息子のコトシロが答えるよ」と。
なので釣りをしているコトシロヌシに訊いてみると
「承知した」と答えて舟を柴垣に変えて隠れてしまった。
(なんでやねん)
これで穏便に国譲りか、という時に異議を唱えたのが
もう一人の息子 諏訪神社主祭神・タケミナカタだった。
結局は武力で対抗しようとしたタケミナカタは
彼より強いタケミカヅチに追われ諏訪に逃げ込むに至る。
そうして天津神に譲られた地上を治めたのが
コノハナサクヤヒメの夫・ニニギである。
こうしてみると全く無関係という訳でもないのか?
いや、でも実は単純に 富士講とか流行ったので
江戸の人に人気の大黒&恵比須【祀ってみた】的な?
ちなみに、この恵比須様たち
彩色が鮮やかで「新しいのかな」と思いきや
東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎の作品らしい。
見落としがちな場所にある恵比須社だが、
「投げた小銭が穴に入ると願いが叶う」
というアトラクション要素もあるので是非御参拝を。
さて、チラッとタケミナカタの話が出たが
この吉田の火祭りは浅間神社と諏訪神社の祭り。
しかも、調べてみればココは モトは諏訪神社だという。
現在でこそ浅間神社の境内社となっているが、
実は諏訪神社のほうが先にあり その境内に浅間大神を勧請。
富士信仰の興隆とともに勢力を増した浅間大社が
もともとあった諏訪神社を飲み込むような形で発展したらしい。
現在、諏訪神社は浅間神社の向かって右にあり
完全に浅間神社メインのような様相を呈している。
楼門のような拝殿に提灯が灯っている。
本殿は暗くて見えづらい。
神紋は、長野で見慣れた諏訪梶や明神梶でなく
一枚の「梶の葉」となっている。
冒頭で「なぜ松明を燃やすのか」と言ったが、
実はこれに関しては未だによく分かっていないらしい。
サクヤさんが燃え盛る産屋で無事出産したことに因む、
という説もあるが、管理人は もうひとつの説が好きだ。
それは、タケミナカタが諏訪へと敗走する途中のハナシ。
どうやらミナカタさんは諏訪へたどり着く前に
このあたりでミカヅチさんに追いつかれそうになったとか。
そのとき、吉田の住民たちが松明を持って
「神さん!たいへん逃げて、えれぇずら。ここで休んでけし!」
と(言ったかどうかわからないが)村人総出で出迎えたのである。
それを見た追手・タケミカヅチたちは援軍と勘違い。
「これはしばらく様子を見た方が…」と追跡の手を緩めた。
おかげで、吉田で数日の暇を得たタケミナカタは
無事諏訪まで逃げ伸びることができたというのである。
なんか、人と神様のフラットな関係というか
こういう逸話は好きだなぁ。
ちなみにタケミナカタさんは蛇神とされることも多いが、
神社→御旅所へと神輿が参道を下ると同時に
その参道と並行して流れる2本の川を蛇たちが下るので
渡御の前には川を清浄にしておかなければならない。
という言い伝えがあるのだとか。
今回はこのあたりまでしか調べられなかったけれど、
この話で行くとタケミナカタさんは
諏訪市よりもさきに富士吉田市を通ったわけで。
「諏訪大社からの勧請かな?でも周りにはないけど何故?」
と思っていたが実は富士吉田のほうが先なのかも?
どうやら諏訪と富士吉田は方言や風習に類似点があったり
諏訪大社系の神事に似た名称を持つ祭事もある…
なんてハナシも聞いたので
だんだんと そのへんも掘り下げていきたいなぁ。
と思ったのでした。
そうこうしていると、
いつの間にか点火が進んでいたようで。
楼門手前の 最も本殿に近い松明に最後の点火!
最近管理人の形態のケータイはポンコツで、
ビデオに音が入らなかったりするので正確には文字に起こせないが
「ちゃんと火が付いたら拍手をお願いします」
みたいなことをもっと厳かな言葉づかいで言っていた。と、思う。
暗くて提灯しか見えないが、
この火を付けているのは「世話人」さんという方たち。
火をつけるのが最も目立つ仕事かもしれないが、
実際は春先から松明の奉納者集めに奔走したり
祭の前などはお仕事も休んで世話人に徹するとか。
お諏訪さまの御膝元・諏訪の御柱祭りもそうだし
きっと日本中の祭りがそうだけれど
見る人にとってはたった数日の非日常でも
春咲く花が 冬より前から咲くための力を蓄えるように
地元の人は 観光客が知らないようなたくさんの準備を
かなりの時間をかけてやっているワケですな。
そうゆう地面の中で伸びる根のような努力あってこその
誰もが振り向くような大樹の祭。
でも、こんなに有名なのに
本当の由来や 元々の姿は謎も多い。
単に「やってることが変わってる」だけじゃなく
すぐには理解しきれない 踏み込んだら出られない
そんな沼のような所があってこその「奇祭」かな。
と思った旅でしたー。
*おまけ*
御師さんのうちか分からないけれど、
家の横にたくさんの神棚がくっついてるみたいな
ちょっと変わった家を発見。こんなの初めて見た!