とまのす

ちいさくゆっくり、民俗さんぽ

「Kawaii」と「信仰」を考える。

別に「kawaii」をローマ字にしたのは
あんまり深い意味ありません(*´ω`)
「魔除け」のポスターをサムネイルにしときながら、
後半にならないとその話題が出てきません
|д゚)スミマセン…

 

昨日は下北沢の書店 B&Bさんで行われた
畑中章宏×若林恵「21世紀の民俗学」というトークイベントへ。

「蚕 絹糸を吐く虫と日本人」の出版記念イベということで、
本に掲載された石仏や猫神様たちの土地(霊諍山)で撮った
かわいい神様やきもちわるい(?)神様の写真も
たくさん見ることができたわけだが。

あの場での話の詳細は参加した人の特権ということで
あんまり対談の内容とは関係ない記事書きますね
(´・ω・)

日本人って、外国人に聞かれると
「日本は”八百万”だからー」みたいな感じで
けっこう雑に済ませちゃってるけど
実はわかってないよね。

みたいな若林さんの話から始まり、

民俗学と「相対化する」ということ
・固定化されたイメージに穴を穿っていく
・神話で有名な「神」たちより
 よりアニミスティックな「カミ」というもの
・正史や記録というハッキリ文書化されたものじゃなく
 そこに記されなかった苦労や楽しみなど感情を知ること
柳田国男とは保守なのか革新なのか
原発と現代の養蚕

とかいろんな話が出たのだけど。
終盤の質問タイムで猫の話が出たわけ。

養蚕文化の中でも、ネズミ除けとして
蛇やら狼やら そうゆう昔ながらの
山岳信仰クラスタから来ますた」
みたいな凄みのあるカッコイイ神様がいる一方、
可愛らしくて素朴な猫絵馬があったり
キモかわいい(いや、キモイ?)猫神がいる。

たしかに、
いろんなものが「恐い」から「カッコイイ」
神様に対する感情も「畏れ」から「親しみ」
そんな風に変遷してきている気はする。

柳田国男により知名度を上げた座敷童も。

富の象徴であり存在が喜ばれる一方で
人を死に至らしめることもあり
その去る姿を見れば富を失う前兆でもあり
なんといっても間引きというものが背景にある神。

そう聞けば元来の不気味さというのも
なんとなくは伝わるだろうか。

しかし畑中先生の「災害と妖怪」によれば
海外との交易が盛んになり
西洋の「おとぎ話」というものが流入する港町では、
フェアリイという可愛らしく美しいものと
座敷童というものが幾分混ざり合って
いまのような不気味さのない姿が形成されたのでは?
という考察が展開されていた。

その場合も、
不気味なほうが良ければ不気味なほうが広まるわけだが
現代人のイメージはといえば
おおかた「富を呼ぶおかっぱ頭の可愛らしい幼女」
で固まっているのではないか。

結論:カワイイは正義

…というわけではないのだが、
恐ろしいと思う動物や自然の力を崇拝することで
「その力を分けてもらい、また守護してもらう」
という信仰の形
またはひどい目に遭わせた人に祟られないように
「祀るから祟らないで!神様にしたげるから守って!」
という御霊信仰など

恐ろしさというのは一種
信仰・ご利益の大きさと比例していたわけだったのに。

にっこり微笑む大黒天などはもはや
死体を捨てるための森(シャマシャナ)に住み
世界の終わりに際して黒く恐ろしい姿で現れるシヴァの化身
「大暗黒天(マハーカーラ)」であったなどと想像しがたいし、

ネズミを駆除するという理由で穀物神とされた
キツネとオオカミという2系統のカミを見ると、
自然崇拝・山岳信仰の中で力をつけていたオオカミは
一方で家畜を襲うという両刃の剣であることから
いつしか人間に害の少ないキツネに押し負けた。

なんとなくそこには
「御利益は賜りたいけど
 あんまり神様に気を遣いたくない(*´з`)」
みたいなエゴくさいものを感じたりする。

※往々にして力の強い神様や霊は
 祀り方を間違ったりちょっと不信心をすると
 強力な罰を当ててきたりするものであるから…
 (´・ω・`)

あれ まさか
高嶺の花の美女よりもカワイイ女の子、
歌姫よりA〇B48!
みたいな男子にも同様のエゴが!?
いいもの手に入れたいし見てたいけど
釣り合うように自分が努力するの面倒だし
支配下におけそうもない強力な女性は
たとえ美しくてもトライすらしない、みたいな!?
(歌姫はファン辞めたからって祟ったりしませんが)

…脱線しましたかね。
でも男子だけと言わず
あながち間違ってもいないと思いますが。

経済学で言えばフリーライダーってやつですか。
対価を支払わずに便益を享受するってやつ。

別に私だって無条件に、かわいいものは好きです。
猫ももちろん(*´ω`)

ただ、カワイイという言葉自体に
おそらく「管理下における可能性が高い」
という心理があるような気がしないではない。

畏れを背景に力を持っていた神様を
キケンのない扱いやすいものにする
つまり小さくしちゃうことで、
安全に御利益を得ようとゆうのは
まぁ
ただのカワイイ好きというより
楽なほうに流れちゃう人間のサガか。
いかんな。

と思ったりはしたわけです。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~

ちょっと批判的になってしまったけれど、
ふつうに、かわいいから・流行ってるから
みたいな理由でもてはやされることもあるわけですよね。

トークイベントの前に新宿で

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これ、行ってきたのですが。
乙嫁語り」ファンの私は二階の展示に大興奮でした。
アミルさんだ!ライラとレイリだ!+(・ω・ノ)ノ!
そして、文化圏によって全く違う模様のモチーフ。

間近で見れるアイヌのアットゥシも
その縫い目の1つ1つが緻密で魅力的。
(一部は交易に出回ったりしたものの)
産業ではない針仕事、伴侶や子供を守るための作業。

絢爛な刺繍や装身具が「身に着ける財産」であり
その技術自体が嫁入り先で喜ばれたり、
馬や羊や牛が「生きた財産」であった時代から
価値の構造が変わってしまったから
そこまで手がかけられなくなってしまったのか。

それとも、もはや人が危険を感じづらくなったから
それらは絶滅種的なものになってしまったのかな。

祈りの手仕事という文化は
なんというか人がある程度自分たちを
理論的に守れるようになれば
消えてしまうんだろうか。

なんとなく現代日本のそれは、
部活動でマネージャーが部員一人一人に作ってくれる
手縫いのお守りとか
そういうところにだけ残っている気もした。

祈ることの力がどれほどかわからない
でもあとできるのは祈ることだけ
というある意味では弱々しく
でも確実に細く長く続いていく強さのある
誰かのための 賃金のない手仕事という点で。


さて、カワイイの話に戻ってみると。
この展示でいちばん「かわいい…!」と思ったのは
中国の五毒を刺繍した上着と虎帽子(*'▽')

五月の端午の節句のころは
毒を持つ百足やサソリ、蛇など
特に小児にとっては命取りになる虫が
盛んに動き出す時期(毒月)ともされた。

そこでその害を退けるために
乳幼児にその五毒の刺繍を施した服や
力の象徴である虎の帽子・靴を履かせたり
ヨモギの香袋を首に下げたりするわけだが。

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通販サイトの広告画像ですが…
どうですか。可愛いですよね!
可愛くないとは言わせません!
これを愛しい我が子が着るのだから
両親が大興奮すること請け合い( *´艸`)

力の象徴と言っておきながらだが、
ブリキの金魚みたいな可愛さ!
五毒も禍々しさはなくコミカル。

これが昔からこういうデザインだとしたら、
これが毒虫なんて滅多に家に来なくなった現代に
この風習がちゃんと残っているのは
純粋に「カワイイの力」と言っていい気がする。

もうちょっと「可愛いものを探す」
という視点でも神様や装飾をみてみようかな。
と思った日でした
(*´ω`)