最近海沿いが多かったけれど、
やっと山間部だよー。元気が出てきたよー。
とゆうことで10月1日、長野県南木曽町田立に行ってきた。
(すみません、半月くらいモタモタ記事書いてました)
花馬について
祭り好き&馬好きな管理人には堪らない、
おうまさんの祭りである!
しかも、今回は何気なく行ってみたら
偶然にも300年記念祭とゆうスーパーラッキー!
300年前って言ったらアレだ。
だいたい 吉宗が将軍に即位して、
大岡越前が江戸の御奉行様になった頃。
そう具体的に考えてみると なんだか圧巻ですな。
そんな花馬祭りだが、一体何のお祭りか。
簡単に言えば豊作や家内安全を願う祭りである。
そして、こちらが主役の「花馬」ちゃん。
この鞍に付いた無数の「花」は、
竹を割いたものに色とりどりの紙や札を付けて作られる。
公益財団法人 八十二文化財団さんHP(http://www.82bunka.or.jp/)
に「花は稲穂を表し365本」と書かれていた。
リンクを貼ったトップから「田立の花馬祭り」を検索しても
この祭礼の概要については情報が見られるのだが、
「信州の文化財」→「ふるさとの文化財を守り伝える心」のページに
「Vol.19 花馬の歴史とともに」という記事もある。
実際運営に携わる方の話す様子が書かれているので是非!
※リンク先として設定するURLはトップページのみ許可されているとのことで、
このような形で記載させていただきました。
記事にもあるように、花馬を担当するのは
木曽を中心に飼育された在来馬・木曽馬。
以前 木曽馬に乗りに行ったことがあるが、
ポニーより落ち着きがあり
サラブレッドより気候の変化に強いという。
小柄で愛らしい馬である(*´ω`*)
駅前での待機タイムに、
近所のデイサービスか老人ホームから
車いすに乗った御婦人方が来て花馬と記念写真撮影会。
花馬は匂いを嗅いだり 袖を口でモシャモシャしたり、
おばあちゃんたちに興味津々である。
おばあちゃんたちも「近くで座って見ると大きいわ!」
など ちょっと緊張しながら楽しんでいる様子だった。
ちなみに、日本全国には木曽馬のほか
南国の宮古馬・与那国馬、北国の道産子
元寇の際に活躍したと言われている対馬馬(対州馬)
在来馬の中でも小柄な野間馬、トカラ馬
いまもほぼ自然のままの姿を見ることができる御崎馬
など現在でも出会える在来馬が存在する。
モトは小柄で温厚で日本の風土に合った馬であり、
農耕のおともとして生きてきた馬も多かった。
しかし、戦争がはじまると日本は
洋種のような「大きな馬」を作ることに力を入れ
在来種たちを増やすことに制限がかけられた。
そして 日本が直接的に参加する戦争が終わった後も
農作業は機械化の一途をたどり農耕馬は姿を消したという。
いまや、こうした在来種は
「貴重であり残していきたい種」でありながら
彼ら自身に「お仕事」が少ないので
飼育費を賄っていくのはなかなか困難だという話も聞く。
※サラブレッドやアラブ馬などの洋種に関しても
「競馬のために量産されている」という現状があり、
勝てなければすぐに競馬界から放り出されてしまうらしい。
そんな中で乗馬馬の祭参加は多少なりクラブの収入源
さしてはお馬が生きていくための資金となるので
乗馬をやっていた者としては在来種オンリー推しではないのだが…。
まぁそれはさておき、花馬たちは 田立駅を出発したら
徒歩10分ほどの五宮神社までゆっくり練り歩く。
田立は中央本線の駅で神社までも近く、
祭自体も 昼の12時過ぎから14時半ごろまで。
県外の方にも優しい祭である。
行列が始まると、
五色の幟を先頭に 笛 太鼓 その後に花馬たちが続く。
鞍につけた土台に無数に刺さっているのが「花」。
1頭目の花の真ん中には 神籬(ひもろぎ=神様の依代)、
二頭目には太陽自体やその化身を表すという菊、
三頭目が南宮神社の紋である月の幟旗を付けているという。
日月紋と書いてある説明もあるが、
日月紋って満月と太陽(つまり両方欠けの無い円)が
だったような気がする…。
この幟旗を見る限り、新月紋に見えるけどなぁ…。
まぁこれはまたあとで考えよう。
普段はこの3頭での行列となるのだが、
今回は300年記念のためか1頭増量されていた!
花馬ちゃん×4頭での行列でラブリー増し増し!
(*'ω'*)タマラン~♪
駅から行列が出発すると神社でも準備が始まる。
五宮神社は拝殿自体が装飾や彩色の少ない木造だが、
そこに赤みを帯びた瓦が葺いてある。
背広を着た男性たちが拝殿に所狭しと座り、
神職さんが巫女装束を着た子たちを伴って神事を開始。
行列が境内に到着すると、
神職さん&小さな巫女さんたちも社殿から降りて合流。
その後ろに行列が付き従うようにして 境内を3周する。
ちなみに、管理人はあまり見たことが無かったが
ココの太鼓は自分で前に付けて叩く「三匹獅子」方式でなく
なんと「前の子の背中につけたの↓を後ろの上級生が叩く」方式!
そのあとにワサワサと花馬たち。
境内に所狭しと並び五色の幟がたなびく様子や
行列の合間合間から
馬の背で揺れる花が見え隠れする様子は美しい。
何よりこの祭で「祭らしい」と思ったのは、
この境内に地区住民が集まることで
色々な「見えない紐」的なものが見えるような気がすることだった。
介護が必要になって
自力では外に出歩けなくなったおじいちゃんが、
車いすに乗ってヘルパーさんと神社に来た。
昔の仲間と思しき 他のおじいちゃんたちと話し、
孫が行列する姿を見に来たおばあちゃんたちに囲まれ、
「なんだよもう、めっきり見なくなって。久しぶりだね」
「昔っからすぐ〇〇さんの周りには綺麗どころが集まるな!」
と話しかけられて みるみる笑顔が元気そうになっていく。
介護の仕事をしていた管理人としては嬉しい瞬間である。
お母さんともだちか、互いに母になった同級生か
「□□さんちは?何人衣装着た?」
「うちはもう全員よ。上も下も」
「じゃあその年は子供が少なかったのかなー。うちは1人」
「それがもう全員仕事して家出たんだもんねー」
娘さんは今どこで 働く女性になっているんだろうか。
花馬は、時間の紐も人の紐も結んでいく。
境内で様々な会話を耳にして、そんな風に感じた。
祭というやつは 神輿・山車とかでなく
神事やモノ、コトを見に集まっている地元の人自体が
祭の真価かな…と感じる時がある。
時間も短く規模は小さいかもしれない花馬祭りだが、
そういう意味では良い祭だなぁと1人でウルウルしていた。
管理人ももうアラサーなので涙腺がユルいわ。
(´・ω・`)
さて、ここまでは のどかでまったりとした祭なわけだが…
行列が境内を3周すると ついに「花取り」が始まる!
境内いたるところにある この張り紙。
フライングゲット禁止令。
…これ「待て」って命令形で書いて
あとで「っ」足してないか?(笑)
命令したくなるほど激しい取り合いなのか?
と思って成り行きを見守っていると…
花馬たちが境内中央に整列すると、
合図の太鼓が鳴るが早いか
人々が猛然と馬に付いた花をむしり取る!
まさにむしり取るという表現が相応しい気がする!
別に毛とかをむしられるわけではないが、
屈強なニンゲンたちが猛然と走り寄り
何がなんだかわからぬうちに取り囲まれて
鞍についている何かをバリバリもぎ取られる…。
馬にしてみれば恐怖でしかない。
嵐が去った後の馬はと言えば、
当然ビビりまくりで跳ね回っている↑
よしよし。かわいそうに。
ちなみに、今回4頭目も花を付けているが
花取りには参加せず後ほど地域の方に配るのだとか。
*五宮神社について*
さて、その舞台となる五宮神社だが
境内の説明板によると名前の通り
下記の5つの神社が合祀されてできた神社であるという。
南宮社・八幡社・太平社・熊野白山神社・神明社
このうち、神明社以外の4社では
合祀前から花馬祭りが行われていたという話だ。
なかでも1762年には大旱魃が起き、
雨乞いのためになんと12頭の花馬が行列した記録があるとか。
(毎年3頭と決まったのは合祀された1908年かららしい)
現在 神社があるは、
合祀前の5社のうち「南宮社」があった場所である。
「南宮」という名前から想像するに
岐阜県不破にある南宮大社からの勧請だろうか。
その場合、祭神は製鉄の神・金山彦の可能性が高い。
鉄は その普及まで力を振るっていた青銅器より強く、
鉄器を早期に導入した軍は向かうところ敵なしだったともいう。
(不破という地名も「戦に破れ不(ず)」から来ていると言われたりする)
鉄が普及した後も製鉄に携わる職人のみならず武将の信仰も厚く
かの有名な木曽義仲も戦勝祈願や城付近の産土神として
南宮神社を勧請したと伝わっている。
地理的にも、同様の戦勝祈願で建てられた神社だろうか?
祭神が金山彦だとすれば神紋は「巴」のハズ…
だが、幟に描かれた神紋は「月」である。
(説明には「日月(じつげつ)紋」とある)
どういうこと?日月紋は天皇家しか使えないのでは?
…と調べてみると、
「かつて後醍醐天皇の息子が足利尊氏との戦において
南宮神社に戦勝祈願をし その折に家紋を賜った」のだという。
彼の名前は宗良親王といって 和歌の世界で有名な人物。
なので管理人は柔和という勝手なイメージを持っていたが…。
「信濃の宮」とも呼ばれ一時は長野を拠点に戦をしていたそうだ。
ともあれ 親王の家紋であれば日月紋というのも納得。
ちなみに、彼の墓は長野県大鹿村のモノが有名かと思うが
実はこの田立からほど近く旧・恵那郡高山にもお墓があるそうだ。
蛇足だが、
この恵那郡の「エナ」とは胎盤の古い呼び方。
このエナというのは昔は結構重視されていて、
古代日本のみならず 東南アジアなどでも
人ならざる姿ではあるが新生児の守護を担う兄弟とも
新生児の分身のようなモノとも言われ
場所や埋め方などにもかなり気を使ったという。
「胞衣壷(エナツボ)」と言って、
胎盤を入れて埋めるための壷などが作られた時期もあった。
そしてなんと…この恵那郡にある恵那山に埋まっているのは、
かの天照大神の胞衣だというのだ。
…あれ?イザナギの目から生まれたんじゃなかったっけ。
…胎盤ないよな…?まぁいいか。
*東禅寺さんの蚕霊様*
今回はいつにも増して脱線が酷かったが、
駅と神社の間にある東禅寺さんについて書いて終わりたい。
神社ばかりで寺院に来る機会は意外と少ないのだが
(違いが分からない人には神社仏閣好きなんだねと言われる)
今回は花馬ちゃんが超ゆっくり歩くので途中でコチラに寄った。
すると…観音堂の奥に神社系のものがあるではないか!
おりんと線香があるところは、さすが寺院。
装飾を見ると、稲荷社のようである。
…Σ(;゚Д゚)ハッ
今回、一軒もお稲荷さんに挨拶しとらんやんけ!
右の狐「おいおい、全国の神社で一番多いお稲荷様だぜ?」
左の狐「むしろ、偶然出会わなくてもソッチから出向けよなー」
そんな風に言われている気分である。
屋根は、瓦でなく杮(こけら)葺き。
「カキはこけらとも読むのかー。自慢してやろう」
と思った方はストップである。杮(こけら)と柿(かき)は
なんと違う漢字なのである。
「…何回見返しても同じなんですけど?(´・ω・`)」
というのも御尤もで、明朝体やゴシック体ではもはや違わない。
ただ、元来「こけら」は
「木へん+なべぶた+巾」の3パーツから成る漢字であり
「木へん+市」から成るカキとは異なる字なのである。
自慢したい人は「実は違う字なんだぜ」と言いましょう!
(友人と杮について話す機会がいかほどあるかは疑問だが)
そして、この稲荷社らしき社の周りには
馬の絵が描かれた四角い紙が何枚も紐で付けられている。
ちなみにこの紙は、
五宮神社の境内社にも付いていて「丙申 初午」
と書かれているモノもあった。
丙申ということは去年(2016年)のもの。
去年のものをつけることになっているのか、
去年のが付きっぱなしなだけなのだろうか。
しかし、稲荷・馬と来たら何となく蚕を連想しますね…
と思っていると、稲荷社らしきものの横に木の札が。
なんと田立の養蚕家連が「蚕霊様本尊」を寄進したという。
稲荷社ではなく養蚕の神様・蚕霊(こだま)神社ということか?
しかし蚕霊様の本尊がなぜ毘沙門天なんだろうか…
毘沙門天ってネズミ連れてたよね?どっちかって蚕の敵っぽいけど…
一応「毘沙門天 養蚕」で検索検索ぅ(=゚ω゚)ノ
すると、なんと大量に引っかかったのが「宮城県」。
角田市・福應寺周辺の地域ではムカデが毘沙門天の使いとされ、
ネズミはムカデを嫌うため養蚕の守り神とされているそうだ。
その毘沙門堂には養蚕農家から奉納されたムカデ絵馬があるという。
…まぁしかし、
宮城から木曽まで文化が伝播することは不可能ではないが、
途中の地域に似た風習があるわけでもなさそうだ。
そうすれば、関連が深いとは言えない。これは宿題ですなー。
なんとなく、
このペラペラの四角いものに馬が描いてある感じ
ルンタに似てるなーと思うのは管理人だけだろうか。
チベットやネパールで見られる祈祷旗(タルチョー)のなかでも
特に馬(風の馬)が描かれたものを「ルンタ」と呼ぶ。
まぁまさか関連があるとも思えないが
花馬の幟が五色であり
青(緑)・黄・赤・白・黒(藍)の5色が
それぞれ空・穀・太陽・水・土を表しているという話で。
タルチョーは青・白・赤・緑・黄と決まっていて
それぞれ天・風・火・水・地を表すというのと重なって見えた
タルチョーは、はためくたびに経文を唱えたことになり
旗に描かれた風の馬には「願いが早く届く」や「教えが万里へ広がる」
といった意味が込められているらしい。
チベットを扱う映像作品には
ルンタ(風馬旗)という題が付くことも多く
チベットの精神性を語る上でも現在を論じるうえでも
何か大切な象徴的なイメージなのかなと思ったりする。
急に思い出したので唐突に宣伝するが(なんでやねん)
チベット仏教や馬が好きな方には是非見ていただきたい、
バルタバス率いる「ジンガロ」の公演「Lonta」。
仮面舞踏(チャム)なども見られたりする。
管理人がリンクを張った時点では
「購入:2人」になっているが、このうち一人は管理人である。
ということは、あと一人しかAmazonで買った人がいないのか…。
われながらニッチ過ぎる。
最後の最後まで脱線したが、木曽の花馬祭りでしたとさ。
うかうかしているとすぐ冬になってしまいますね(*´з`)
まだ夏に行った神社や祭りでまとめ切れていない記事が…。
更新が超牛歩ですが、またお付き合いください。