とまのす

ちいさくゆっくり、民俗さんぽ

盆に、もう一度 産まれる。(石巻市街 編)

盆も、もう過ぎちゃいましたねー。
しばらく記事を書くのをサボっていたが、
神社へはちゃんと行ってたよ(=゚ω゚)ノ!
しかし、今回は神社少なめ記事。

今年の盆は石巻へ行っていたので
「何の祭に行ったの?」
と友人たちに訊かれた。

ご期待に沿えなくて申し訳ないが、
今回の目的は日本的な祭でなく芸術祭だったのだ。

「Reborn-Art Festival 2017」。

3.11の被災地でもある石巻市街と牡鹿半島
アート作品や音楽・料理などの展示・提供が行われている。
地域と運営者や作者、そして訪れた人たちで
地域が前に進む力を「生み出す」とともに、
Art(語源は「生きる術」という意味のArs)を「再生」するイベント。
(あくまでこれは管理人の理解で、正しい原文はイベントHPを読んでいただきたい)

単に芸術作品で人集めをして被災地を元気に!
というだけでなく、
生きる術という意味でのアートを再興する。
というのは なるほどフムフムと納得。

とはいえ折角石巻まで来たので
地元の神社にもいくつか行ったわけで…
なんか石巻にはこういう↓体型(?)の狛犬が多い。
犬やライオンのようにどっかり座る!というよりは、
猫のように狭い範囲にシュッと座っているような。
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そして、かたやシュッとしていない狐。
これは別に石巻全域の狐がこうというわけではなく、
市街にある「鹿島御子神社」の境内に居た狐だ。
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何みたいとも言い難いが、初めて見る雰囲気の狐である。
ポケモンのスリーパー系(?)
なんでこんなにホリが深い しかめっ面なんだ…。

さておき、この鹿島御子神社にいるカミサマについてだが、
「鹿島」といえば鹿島神宮などに祀られるタケミカヅチ
地震除けの神としても名高いが、もとは武神である。
管理人が大好きな諏訪大社におわすタケミナカタは、
このタケミカヅチとの力比べに負けたため諏訪に逃げ込んだという。

鹿島御子、ということは そのタケミカヅチのお子さん!
という意味であるが、残念ながら 父ほどのエピソードが残っていない。
天足別(アマノタリワケ)という名前だとは伝わっていて、
父のタケミカヅチやフツヌシ親子とともに東北平定を行ったという。

東北へ遠征してきた彼らの船は 現在の石巻周辺に停泊。
一説には、その碇(いかり)が海底の石を巻き上げたので
その土地に「石巻」という名が付いたとも言われている。

そのためか宮城には アマノタリワケの名を頂く神社が多く
鹿島天足別神社・鹿島天足和氣神社などがある。
(いずれも、読みは「かしま-あまたらしわけ」・祭神はタケミカヅチ
また、福島・南相馬市にも 同名の「鹿島御子神社」がある。

東北を平定した後、タケミカヅチたちは地元に帰ったが
アマノタリワケはこの地にとどまり治安を守ったともいう。

その位置や伝承の内容から、これらの神社群は
大和民族の東北平定・開拓の拠点となった場所か?
と考えることもできなくはない。
現に、石巻から電車で数十分で「多賀城駅」だが、
歴史の授業で出てきた通り多賀柵は「対蝦夷」の軍事拠点。
その近くの塩竃神社周辺は「塩竃丘陵」と呼ばれる地形であり、
かつては勢力の境界だったと伝わっている。

宮城県伊達政宗推しのため 多賀柵は観光資源としてイマイチだが…
今やアラサーとなった管理人もかつては
胆沢城と多賀城の位置がどうしても覚えらえない中学生であった。
ので、厄介なコイツ(多賀城)のことはよく覚えている。

まぁ話がズレた上にいつも通り神社の話ばかりしているが、
宮城がかつてそうした土地であったということを踏まえると
神社におわす神様がどのような立場で鎮座しているのか分かりやすい。

ちなみに、鹿島御子神社拝殿のすぐ隣には道真公が祭られていて
その社は「日和山天満宮」という。
銚子の長九郎稲荷の記事にも「日和山」という地名が登場したが、
沿岸の港町にはよく同じ名前の山がある。
漁師さんたちが天候を予測するため海や空の様子を見た場所だろう。
この神社があるのも日和山という山であり、
このように↓河口や海の様子がよく見える。
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ちなみに御覧のとおり日和は最悪である。
すいませんねぇ皆さん、連休なのに 雨女が来たせいでねぇ…。

しかし、そんな雨のなか参道にはヒマワリが咲いている。
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管理人は、花のつぼみ
とくに、柔らかく優しげなのではなく
こうやって中身を守ろうとするアーマーのようなのが好きだ。
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実は、このヒマワリを植える活動を引っ張っているのは
フラワーアクティビスト・志穂美悦子さん。
若い人は知らないかもしれないがアクション女優であり
あの長渕剛の妻でもある!

もちろん、彼女だけが中心となって植えたのではなく、
地元の方や 被災した鹿島御子神社の再建を望む方など
いろんな人の協力の賜物だ。

今回の芸術祭とは直接関係はないようだが、
ヒマワリで被災地を元気づけようとゆう考えのもと
海が見える参道の石段に1000粒の種が蒔かれたそうだ。

なんとなくだが「海が見える参道」と考えたときに、
私たち「コチラ側」から海がみえて その場所にヒマワリ。
というだけでなく海の彼方に行ってしまった人たちの
「アチラ側」からも ちゃんと見える場所かもしれないと感じた。
もちろん、体が海の奥へ行ってしまった人たちも
もう気持ちは家族の近くに戻っている!と考える人も多いと思う。
だから、これは管理人がふと「海からでも見えるね」と思った。
というだけの話だ。

市街地側から神社までは店があり住宅があり
そこには「暮らし」を感じるのだけれど。
その石段を下りて鬱蒼とした樹の中を抜けていくと、
その先は本当に何とも言えなかった。
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春に行った福島では神社参道に
津波到達地点」という石碑が多かったように思うが、
こう「襲来の地」と書かれると痛みが増す感じがする。

そして 芸術祭に行ったにもかかわらず、
ここに作品があるとは全然知らなかったのだが…
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増田セバスチャンさんのNew Generation Plant #2。
透明なキノコのような植物の中身は
この人の作品らしい極彩色だ。

もっといい表現があるのかもしれないが、
管理人の目にはいささかビビッドすぎる。
初めて他の作品を東京で見たとき
きゃりーぱみゅぱみゅかよ!圧が強いよ!」
と思ったら、きゃりーの美術演出自体 この人だったという…。

しかし、重要なのはその色使いだけではなかった。
というのを知ったのはCINRA.NETに掲載されたインタビュー記事。

https://www.cinra.net/interview/201704-masudasebastian

このキノコの中身は彼と共同で制作した美大生たちが集めたものであり、
この集めるということによって
美術畑にいた美大生たちは社会の中のアートの位置を知り
作品には若者のエネルギーが詰まっていったという。
是非興味がある方は読んでみてほしい。

このキノコ的なもののすぐそばには
震災後に作られた可愛らしいお地蔵さまがあるが、
周りは建物がほぼ無い。更地にただただ草が生えている。

信号機は一方が赤、もう一方が黄色の点滅。
車両はトラックがほとんどだった気がする。
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ただただ、日本製紙石巻工場へ続いていくまっすぐな砂利道。
こんな店も無い道を身長150cmの管理人が歩いていると
車両の誘導をしている警備員さん的な人が 
「子供が迷ったか?なんだろう?」
というような顔で見ていた(ような気がする)。

ここを少し進んで海側へ曲がると間もなく
草だらけになった土地に小さな稲荷神社がある。
「善海田(ぜんかいだ)稲荷」という少し変わった名前だ。
実は震災後、ココのご神体は 先ほどの鹿島御子神社に移された。
津波で 社殿が基礎部分のみを残して押し流されたからだ。

製紙工場を背景に、
ティム・バートンの絵本のような独特な木が印象的だ。

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一度は土台だけになり、周りは瓦礫だらけだったそうだが
小さな石の祠にはキレイに御札が納められ 狐の姿も見える。
大事にしてもらっているようだ。
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神社としては1000年以上の歴史があったらしく、
古くは「川口與志宇美明神」と呼ばれていたそうだ。
なので元は「ゼンカイ」でなく「よしうみ」だったことがわかる。
また、川口というのは(まぁ地名かもしれないが)
近海でなく河口での漁を見守っていた明神様ということかもしれない。

以前の例祭の様子などを写真で見ると
ずいぶんにぎやかな様子だったのが窺える。
こうやって伝統は少しずつ形を変えていくんだろうか。
形は変わってもいいから10年、20年経ったときに
「平成の震災以前は例祭が賑やかに行われていた」
という文字だけの姿になってしまわないよう
鹿島御子神社の祭としてでも何とか続いてくれたらと思う。

そして、コチラの善海田稲荷の本拠地(祠)も
善海明神の歴史と震災の碑として、
(社殿がこの場所に再び建つことは無くとも)
ずっと地域の人に大事にして行ってもらえたらいいな。
しかし 今は「ココに住んでいて被災した人たち」に守られているが、
月日が経って「ココで育った人」が居なくなったら?
それとも、その頃にはまたここにも人が住むだろうか?

そういえばメディアや書籍で、
「震災後に幽霊の目撃談が多数報告されている」
という内容をよく見かけるが
この地区は津波の被害が大きく度々その記事の舞台となる。

色々な本や記事を読んでみるが、
その体験談の1つ1つが「恐がらせようとしている」のでなく
見えないのに確かに「かつて そばに居た人を感じる」話だからこそ、
それはただの怪談でなく 人と人の物語になり
災害や死というモノの受け止めかたの形を教えてくれる。

今まで読んだ中で一番印象的だったのは
「死者が生きている者をケアする」という一文。

災害に遭ったり身近な人を亡くした人が
どのように考え、苦しんだり乗り越えていくかというのは
どちらかと言うと民俗学より心理学の範疇かもしれない。
が、この話が個人の体験から語りになり集まることで
この類の話は今後 民俗みを帯びていくような気がする。

あまり専門書寄りにならず、
町の書店さんでも置いてありそうなのはこのへんか。

呼び覚まされる 霊性の震災学

呼び覚まされる 霊性の震災学

 
魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

 

「霊性の震災学」は、「学」と付いているだけあって
客観的・分析的な空気を少し感じる。
「魂でもいいから、そばにいて」は
電車で読むと多分泣くので一人で部屋で読もう。
(´・ω・`)←電車で読んで鼻垂らしてた張本人 


畑中先生が「蚕」の出版記念イベントで言った
「タクシーに幽霊じゃなく河童が乗ったら精神的復興のしるし」
というような言葉をふと思い出した。

大切な人を失った人たちが その見えない姿を語り、
その語りが降り積もって いつかその集合体が
ある人と その大切な人の話から 災害と 人と 奪われた人と
というボンヤリした輪郭で描かれるようになったとき。
それが、幽霊が妖怪に姿を変える時なのかもしれない。

そんなことを考えながら、また人里に戻ってきた。
先程の善海田稲荷さんが守っていたであろう「川口」。
旧北上川の河口である。
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河口の中州に作られた「中瀬公園」。
宇宙船のような独特な形の建物は石ノ森萬画館
何をかくそう宮城は、漫画家・石ノ森章太郎の故郷である。
彼の出身は登米市石森町であるが石巻は第二の故郷とも言われ、
石巻駅や市街のいたるところに
サイボーグ009仮面ライダーの像や装飾がある。

ここも震災、というか津波でだいぶ被害を受けたが
震災の翌年末には営業を再開したと聞いている。
残念ながら、管理人は石ノ森章太郎の漫画を読んだことが無い。
ので、あまりグッと来なかったわけだが
道行くオジサンたちが少年のように写真を撮りまくるのを見て
ああ、さすが巨匠なのだなぁと勝手にしみじみしていた。

さて、この中瀬には作品を見に来たわけだが
レーザーによる作品なので暗くなってからでないと見られない。
なので、先に腹ごしらえとする。
朝から何も食べておらず管理人の血糖値はもはや低血糖寸前である。
毎度被災地周辺に来たら
なるべく全国チェーンでなく地元のモノを買おうと思っている。
でももうフラフラなのであまり歩きたくない。
ので、すぐそこにある「いしのまき元気いちば」へ。

2階には何やら温かい食べ物もあるようだが、
疲れているのでそんなに食べられる気がしない。
というわけで、1階の販売コーナーでかりんとうとブッセを購入。
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普段あまり好んで洋菓子は食べないが、
ずんだなら食べてみてもいいかもしれない…。
ということで、店の外にあるベンチで大きなリュックを下ろし
ずんだブッセを食べましたとさ。やわらかい味で うまし。
空腹で大してパッケージを見ずに買ってしまったが、
かりんとう酒粕味だった。これも優しい味。
酒粕味ってあんま粕漬けとかのイメージしかないけど、
甘酒的な感じで甘いお菓子にも合うのね。

そんなこんなで、
出入り口すぐのベンチで遠慮なくモグモグし
あまつさえ居眠りなどしていたら暗くなってきた。
ので、もう一度 中津へ。
中津の先の方に展示があるため、
海が苦手な管理人にとっては結構な恐怖である。
小さな中津は先に行くほど両わきから水の音がする。
川なのに、もう すぐそこが海のせいで
流れるのでなく打ち寄せる音がする。

もともと自由の女神があった所より さらに先。
(…と言っても地元の人しか分からないか)
近づくとだんだん見えてくる光。
カールステン・ニコライ「石巻のためのstring(糸)」。
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ただまっすぐ上へ伸びる光線。
私は、震災で親しい人をだれも亡くさなかった。
だから、そういう人たちがこれを見てどう感じるか分からない。
ただ、いくら心の中で「空の上に居る」と考えても
届かない誰かの存在を描き切れないこともあると思う。

そんな時、雲のむこうと 自分の建つ地面が
一本の糸で繋がっているのが本当に見えたら。
思い描くのと何か違う 確かなつながりを感じるかもしれない。

震災と津波で、本当にたくさんの
モノや人が目の前から消えてしまった。
そのあとで、見えないものの存在や力を感じる一方
見えるもの 触れられるもののチカラってすごかったと思う。
…そんなことを少し考えた。

もう1つ印象的だったのが雨。
管理人は雨女なので、もちろん着いた時から降り続いていた。
昼間は何とも思わなかったが、
この光の糸が地上から雲の上に向いているのを見て
ああ、それとは反対に、空から地面に雨が降っている。と思った。

この糸が 地面に残った人たちが空へ向ける気持ちなら、
この雨は 遠くへ行った人たちが地上へ向ける気持ちだろう。
いや、むしろ 盆だから
想いとか気持ちとかじゃなくて 本人たち”そのもの”かもしれない。
そんな気持ちになった。
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私も神式葬儀経験者ではないので正確な所までは分からないが、
神道の弔い」というのは仏教とずいぶん違う。
日本の仏教では、
死後・葬式後も亡くなった方は「個人」として三途の川を渡り
裁判(?)や刑を受けたり、阿弥陀様のもとで説法を聞いたりする。
そして葬儀や法事というのは、
地獄での刑が軽くなり早く浄土に行けるようエールを送ること。
(というイメージを勝手に持っている。)
エールと言うと語弊かもしれないが、
①いいところに行くには 故人の生前の善行が足りない
②お経をあげたりして徳や行を補充してあげる
③合格ラインまで押し上げてあげよう!というイメージか。

一方、神道の葬儀はというと
それは、故人が「人」だったころにくっついた汚れを落とす
いわば「ピーリング作業」ではないか?と管理人は認識している。
そしてツルツルの綺麗な状態になったら、
すでに他界したご先祖様のカタマリみたいなものの一部になる。
そのカタマリが、カミサマ的に この世の生活をサポートしている…
というようなイメージを持っている。
「ご先祖様のカタマリってなんやねん!」
と言いたい方もいそうなので その場合は、
カミサマの国に行くのに相応しくなるよう
けがれを落とす「お風呂」が葬儀であるとでも言おうか。

ここでいう神様というのはあくまでも
仰々しく国家や勢力を感じる(アマテラス的な)神様でなく、
ご先祖様たちが みんなでその家系の末裔を見守るというような
素朴な 国家レベルでの記録には残らないくらいのカミサマである。

何が言いたかったか分からなくなってきたが、
盆というモノを仏式に考えれば
「家の門で迎え火を焚いて先祖をお迎え」
というよくある盆の風景になる。
でも(盆自体仏教行事だが)神式に考えたら、
「ご先祖様のカタマリが 地域に帰ってくる」
という状態になるんだろうか。
この雨みたいに、どんどん空から降ってきて
田んぼや 建物や 人に沁みこんでいくんだろうか。

そんな風に考えれば、
盆に1日中 雨に降られるのも悪くないと思った。
次回は、やはり雨の中 牡鹿半島に行ってきた記録の予定です。
(=゚ω゚)ノ!

遊郭しのぶ 吉原神社。

*吉原神社*

今週来てみたのは、東京都台東区の千束にある「吉原神社」。
小さいながらも、御朱印をもらう人などで賑わっている。
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狛犬↓は、どことなくエキゾチック(?)な面立ち。
ペルシア系というか、なんというかね。
※個人の感想です
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さて 吉原といえば遊郭だが、
ここ千束は特に「新吉原」と呼ばれた場所。
最初の吉原(元吉原)は人形町のあたりだったが、
後ほどこちらに移転したのだそうだ。

この吉原神社にはどんな神様がお住まいかというと、
おなじみ ウカノミタマノカミである。

吉原の出入口というのは非常に限られていたわけだが、
その出入口・大門付近に玄徳(よしとく)稲荷。
そして、敷地の四隅を囲むように
榎本・九郎助・明石・開運という4つの稲荷社があった。

そのためだろうか。
新年を迎える江戸の町では「獅子舞」が演じられたが
年末の吉原では獅子でなく 「狐舞」が行われたという。
御幣と鈴を持ち 狐の面をかぶって踊る姿は、
吉原の年の瀬の風物詩としていくつかの錦絵に残っている。

そういえば
女衒に買われた少女が勝気で美しい花魁になる姿を描く
「さくらん」安野モヨコ・作)でも、
年末の大掃除をする場面で狐舞が描かれていた。

必需品を堅実に売る商売ではないからこその
客足の流れの速さ 流行れば湯水のように湧く銭。
まさに御客様あっての「水」商売である。
お稲荷様は出世・繁盛が得意分野であるから
朝な夕なに手を合わせざるを得なかったことだろう。

そしてさらに、
妖狐・妲己の如く美貌で城も国も傾けるが傾城。
※傾城(ケイセイ)は遊女の異名
女郎は色恋を演じて狐の如く客を化かす。
狐と遊女にはそんなイメージのつながりも
もしかしたらあったのかもしれない。

そんなわけで花街をぐるりと囲んだ5つの稲荷社が、
明治に入って1つに集められ大門付近に合祀された。
そして吉原に隣接していた弁財天も同居することになり、
これが現在の吉原神社のモトとなったのである。
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↑拝殿の提灯には、ちゃんとすべての稲荷社・辨天様の名前が。

*お穴様*

さて、その拝殿の向かって右に
末社のような小さな社がある。
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説明書きを見ると「お穴様」と書かれていて、
なんでもカミサマは社の中ではなく
なんと地中にいらっしゃるのだとか。
祭神が何かなどは詳しく書かれていなかったのだが、
なんだか気になる神様である。

ちなみに 上野・穴稲荷も別名:お穴様と呼ばれているが
この吉原神社のお穴様との関連はハッキリしない。
ただ、その「御穴」という名称から穴稲荷は
性病予防の神として非常に信仰されていた!
と聞いたことがある。
だとすれば、こちら千束のお穴様も名称からして
同様の御利益が期待されたと考えても良いのだろうか?
(もしくは、上野から吉原へ御招きしたとか…)

御穴様のそばには天燈鬼・龍燈鬼↓。
この2人のファンとしては、
木造の精巧な像とはまた違う様子も可愛らしい。
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*弁天堂本宮*
さて、吉原神社から歩いて数分の場所に
現在吉原神社に分祀された弁天様の本宮がある。
管理人は個人的にはコチラの方が好き。

まず、ココが昔どういう場所だったかと言うと
吉原に接する「花園池」という池であったそうだ。
そして、その池に浮かぶ島に弁天堂があったという。

花園池の弁天堂なんて、花街らしいなぁ
と思うが、花街が花園なのは「男性にとって」である。

飢饉の絶えない雪深い田舎から買われてきたら
毎日綺麗な服を着て満足な食事なんて夢のようだろうが、
一方で年季が明けるまでは 辛くとも病になろうとも
身分のある人に見初められ請け出される他は、
死ななければ大門から出ることはできなかった。
そして、年季を待たずして亡くなれば無縁仏として
死体遺棄の如く寺に放り込まれたと言われている。

病気をもらいませんように。
客が付いてくれますように。
今日のお座敷も無事過ごせますように。

先に紹介した五稲荷をはじめ弁天様・お穴様にも
吉原の女性たちはどれほど願ったことだろうか。

そんな身の上を苦にした遊女たちの放火も度々あり、
また敷地内での火事が延焼することもあり、
この吉原では おおよそ20年に一度ほどの頻度で
「大火」と言うにふさわしい大火事が起きた。

その中でも最も大きな被害をもたらしたのは
関東大震災による火災ではないかと言われ、
本宮の境内中央には遊女の慰霊のため観音像↓が作られた。
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境内に入ってすぐ、敷地の真ん中に高い岩があり
周りは花や石仏で囲まれている。
そしてその岩の上に観音像が衣を靡かせ立っている。
写真を撮るとちょうど木々の間から光が差して
まるで観音様から後光が差しているようである!

境内にはいくつかの新聞記事や写真が張ってあるので
是非訪れた際には見て読んでいただきたいのだが、
コチラ↓が関東大震災による火災の様子である。
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黒煙と炎の中で 逃げ惑う女性たちが描かれている。
この時、ここまでの大きな火災にもかかわらず
吉原では商品である遊女たちが逃げ出さないようにと
大門を閉めて閉じ込めたとも言われている。

そして、逃げ場を失いながらもどうにか助かろうと
池に飛び込んだ遊女たちは折り重なり
溺死した者もいれば圧死した者もいたのだそうだ。

当時どれくらいの規模の池で
吉原にはどれほどの女性がいたか分からないが
境内の写真を見る限りでは最早
池に水など溜まる余地もないほど人が折り重なっている。

逃げ場を失ったのは門が閉まったせいであり
つまりそれは火災ではなく人災ではないか…というところだが
こんな吉原未曽有の大災害であってもその死者の数は、
年季を待たずに亡くなり寺に投げ込まれた遊女の数には
遠く及ばないというのだから悲しい話だ。

現在は弁天堂を囲むほどの池は無く、
小さな池で所狭しと鯉が泳いでいる。
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新しくなった弁天堂に鮮やかな壁画を描いたのは
美大の学生さんやOBさんだという話だ。
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中を覗くと、中央には見慣れた姿の小さな弁天様。
江ノ島に祀られている「妙音弁財天」と同様、
一切の衣をお召しになっていないようだ。
そして、奥にどっしりと構えるのは八臂弁財天だろうか。
手の本数はよく見えないが、六臂は珍しいので八臂か…?
頭の上には宇賀神(ウガジン)も居るようだ。
じいさん顔の蛇で、微妙に気持ち悪いカミサマだったりする。
(ココのは髪を二つに結っているので女性かもしれない)
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吉原神社の方は「神社」なので合祀された弁天様も
「祭神:イチキシマヒメ」とされてしまっているが。
コチラの本宮では「宮」とはいうモノの
本来の仏教的なお姿を見ることができる。

水商売というのも、
昔よりは自由な働き方ができるようになっただろうが
昔と最も変わらない仕事かもしれないとよく思う。
知人がそういう世界で生きているので、
なんとなく管理人としては 
他人事とは思えないと言ったらおかしいが。
そんな感覚がある。

まぁ浅草という土地柄、
歌舞伎町のように夜のおねぇさんは多くないが
無念の遊女を弔うにとどまらず
現代のおねぇさんたちもお守りください。
と手を合わせる管理人だったとさ。

ちなみに、
この吉原神社の近所に浄閑寺という寺院がある。
近所と言っても少し歩くが、
そこが吉原の「投げ込み寺」であり今も慰霊塔がある。
時間と興味がある方は、
是非そちらにも寄ってみていただきたい。

神倉神社のゴトビキ岩。

*神倉神社と石たち*
前の記事に書いたが、クジラの町・太地には
あまり安く泊まれる普通のビジネスホテルがない。
なので、数駅離れた新宮で宿泊したわけだ。

最初は太地だけが目的地だったので
今回は熊野系には手を出すまいと思っていた。
(ゆっくり見るにはGWでは足りない気がした)

しかし、いつもはネットカフェに泊まっている管理人。
ビジネスホテルとはいえちゃんとしたベッドに寝たら
リラックスし過ぎて寝過ごしたわけですよ(笑)
大した寝坊ではないけれど、5時に起きるつもりが6時。

乗ろうと思った電車には間に合わず、
紀伊本線は本数が少ないので結構時間ができた。
そこで、出来心で行っちゃったんですね~。
神倉神社↓
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下調べ全くナシなので
「あれぇ、あんな山の中に鳥居みたいな色が見えるよ!」
※管理人はすこし視力が悪い
みたいな軽い気持ちで、神倉神社だとは思わずに…(オイ
まぁとりあえず吸い寄せられちゃったんです。鳥居見えたんで(笑)
こんな近くまで来て、神倉神社と気付かずに
電車まで時間があるから行ってみようなんてノリで…
もはや無茶をとおりこして無知!(ノД`)・゜・。
神社のブログを書いている人間とは思えない!
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遠くからは緑に埋もれた拝殿しか見えなかったが、
御膝元までくると立派な橋が現れた。
橋をわたると正面に
サルタヒコさんと三宝荒神さんの社がある。
三宝荒神さんについては「台所の三宝荒神さま。」に書いたので
細々したことについては省略。
特徴としては 明王様のような憤怒相で穢れを厭離し、
”仏法僧”=三宝を守る、荒々しいカミサマ=荒神
なぜサルタヒコさんと一緒に居るのかは調査中。

さて、それを横目に左折すると 立派な鳥居と
源頼朝が寄進したという石段がそびえ立つ。
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階段が「そびえ立つ」というのも おかしな表現だとは思うが
まさにそんな感じなのである。
あとで調べたら、階段は全部で538段あるらしい。
のぼれども、のぼれども、目前には段があるばかり。
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長野・布引観音の経験から
階段下にあった木の杖を迷いなく手に取ったが
やはりそうして正解だった…(´・ω・`)

そして、やっと到着。
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朝早くから、観光している家族連れが2組いた。
しかし、管理人がゆっくり見ていると
家族連れは写真を撮ったりしてアッサリ去って行った。
こんなに気持ちがいい場所なのになぁ。

人の声がしない。風が吹いている。

ここの風に当たっていると
風が体に入ってきて渦を巻くような感じだ!
(/・ω・)/ウォオオオ!
…あ。管理人はオーラが見える人とかじゃないので、
単純に朝の澄んだ空気でテンションあがったダケっす。
騒いですいませんね。

でもなんというか、
神社とか神様のいる場所というのは
「なんかココ気持ちいいわ~」
「いいところだしカミサマにはここに住んで戴くべ」
みたいな感じで決まることも多いのではと思う。

もしくは、スサノヲのように神様自らが
「やべぇ、超すがすがしい!新居ココにするわ!」
という場合もあったりね。
※スサノヲとクシナダの新居・須賀神社の話。
 (正確には清々しかったのは気候でなく彼のキモチである)

勿論、危険や苦しみのある土地だからこそ
救いを求めてカミサマが作り出された!
というパターンもあるけれども…。

さておき、こちらが名物(?)
神倉神社の「ゴトビキ岩」である。
ゴトビキとは新宮の方言でヒキガエルのことだそうな。

あまり目立たないようにとっているが、
ゴトビキ岩のすぐ下でヨガだか座禅を組んでる
旅人っぽいお兄さんがいた。
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神倉神社の祭神は
アマテラスとタカクラジ(高倉下と書く)ではあるが、
このゴトビキ岩が「御神体」とされている。
そして、実際この岩の 周辺からは経塚の形跡や
さらに昔の銅鐸なども見つかっているのだそうだ。

なので、おそらくこの場所は
神社という人工的な形になる以前から
岩に対する信仰が盛んだったのだろう。
「神倉」は「高倉下」と関連して「倉」なのか?
と一瞬思ったが、
イワクラ(磐座)という言葉のことを考えると
カミクラ=神座 つまりカミサマのいるところ
というのがモトの意味なのかもなぁ…。

とも思った。
ちなみに磐座というのも
信仰対象となる石や岩のこと。
つまりカミサマだったり、そのいる場所。

 

*熊野・信仰レイヤー*

レイヤーってコスプレイヤーじゃなくて
あの写真加工ソフトとかで重ねていくヤツね。
下書きレイヤーとか、線画レイヤーとか。
(熊野信仰コスプレイヤー、ある意味気になるが)

この神倉神社とか
それに関する神様がイマイチつかめないのって、
おそらく熊野が聖地すぎて神道にも仏教にも
それどころかもっと原始的な宗教でまでも特別視されて
その結果、レイヤー重なり過ぎたせいだと感じるのだ。

いろんな口伝や書物とか、別のレイヤー上にあるものが
あれもこれも同一視されたりこじつけられた結果
「レイヤーがすべて統合」された状態かな。
と、管理人は思った。
…某ア〇ビのフォト〇ョuserでない方、
イメージ湧きませんよね…すいませんねホント。

どんな伝説や歴史にも
「実はこうだった説」とか
「地元ではこんな伝説も」的なのはある。
だが、熊野の場合どれもこれも大御所(?)過ぎて
どれが大モトだか見えづらい!
自分で調べていてそう思った。

たとえば、
神倉神社でいえば
原始信仰レイヤーでは信仰対象は岩。
しかし神道レイヤーではアマテラスとタカクラジ。

そして日本書紀レイヤーで
カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇である)
が登ったのが天磐盾という山であるが、
いつの間にかこれが
天磐盾=神倉山であるという話になっていた。

さらに、
日本書紀レイヤーでは東征の経路の一部
というだけだった天磐盾が
「それってリアルでいう神倉山よ」
ということになってしまったがために

熊野権現が最初に降臨した地=神倉山」
という熊野権現レイヤーが重なったとき
天磐盾=熊野信仰の聖地!
ということになったわけだ。

そのうえ、当の熊野権現
「本宮」「速玉大社」「那智大社
3柱の神を合わせて熊野権現と呼ぶよ!とか
本宮に居るケツミコ=阿弥陀如来
速玉大社のハヤタマオ=薬師如来
那智大社のフスビ=千手観音
それぞれの神様に対応する仏様がいるよ!とか
それ以前に那智大社って元々は
修験道の修行をする場所だったから
「3社」の仲間じゃなかったよ!
とかいろいろなことを言い始めるので
それは もう大混乱である。

やはり、
そのうち那智には行きたいが
さすがにその時はよく勉強していかねば…
と思う管理人でしたとさ。



*タカクラジって誰だ*

レイヤーはまぁいいけど、
それ以前にアマテラスと一緒にいるの誰よ?
という方もいらっしゃるはずだ。

タカクラジノミコト
というとカミサマっぽいのだが、
彼じつは一般男性(?)である。
日本書紀に登場するのだから
何かしらの身分はあるのかもしれないが、
それにしてもカミサマではない。

では一体何をした人かというと、
熊野にやってきたものの
地元勢力にてこずって遂には気を失った
カムヤマトイワレビコに剣を持ってきた人物。

この剣、ただの剣ではない。
タケミカヅチ紀伊を平定した時に使用したもの。
つまりプレミア付きである。
ではどうしてそんなスゴイものを
人間であるタカクラジが持っていたのだろうか?

実は難航しているイワレビコを見て
アマテラスがタケミカヅチに言ったのだ。
「アンタか治めたあの辺、また騒がしいわよ」
「行って何とかしてしなさいよ」
それにこたえてタケミカヅチが言うことには
「俺が行くまでもねぇ。平定に使った剣でも落としとくわ」

そして、はたして
なぜかタケミカヅチは剣を落とす場所に
タカクラジのうちの倉庫を選んだのである。
タケミカヅチ
「お前んとこの倉庫に俺の剣落とすから、
 それイワレビコに持ってってやってくれよ」
といった夢を見たタカクラジは夢告の通りに動き
イワレビコの窮地を救ったわけである。

こう書くとイワレビコは主人公なので
冒険を繰り広げるヒーローのようだが、
地元からしたら攻めて来たヨソモノである。

某海賊王になる漫画で
「正義が勝つのではない、勝ったものが正義なのだ」
というようなセリフがあるのだが、
これもまさにそうだという気がする。

イワレビコが勝ち進んだので正義になっただけの話。
そのために日本書紀古事記では
地元民がよく分からない部族や動物のように描かれ
簡単に殺されたりしてしまう。
さらに、古くから信仰対象になっていた岩の横に
敵であるイワレビコの祖先であるアマテラスと
彼を助けたタカクラジが祀られている始末である。

気持ちのいい場所なのはサイコーだが、
たった一言「誅された(=悪人を討った)」
とゆう表現で登場するのみの地元勢力は
実際どんな存在だったのだろう。
と風の中で考える管理人でしたとさ。

次回はちょっとそんなことも話をしたいなぁ
(*'ω'*)

太地にのこる 捕鯨の足跡。

*クジラの町*
先日の記事ではとりあえず
飛鳥神社と恵比須ノ宮だけに触れたわけだが。
今回はもう少し「人-神」の形跡でなく
「人-鯨」の足跡を辿る内容を書いていこうと思う。

そんな管理人をまず迎えてくれたのは
親子のクジラ像である。
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今まで、大きなクジラ像と言えば
上野の東京科学博物館にあるやつしか見たことが無かった。
しかし、前回も書いたように管理人は海が怖いのだ。
少し坂の横を覗けばすぐ 港や 波立つ海があって、
丘にいても色々な方向から波音が聞こえてくる太地。
地面に立っていても大海の真ん中に立たされているような
空恐ろしい気分になるわけである。

海に慣れ親しんだ人は「こわがりすぎ」と笑うだろうが、
その恐怖の中でこの巨大な像と
あろうことか目が合ってしまったのである。
魚とは違う、こちらの心の中まで見えていそうな目である。

像ですらこの有様であるから、
幼少期に渡嘉敷島あたりを船で通ったとき
船からザトウクジラの尾が見えた時は何とも言えず
眩暈がするような気分だった。
(人様はお金まで払っても見たがる光景なのだが)

まぁ、もはやこうなると
すべてからクジラ圧力(?)を感じ
こんな平面に書かれた絵ですら
「トンネルに入ると周りをクジラに囲まれるのでは」
という謎の発想に至るようになる。(クジラ恐怖症か)
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*クジラを供養する*
そんな謎の恐怖症に震えていた管理人だが、
昨日の記事に書いた「てつめん餅」を食べて
少し元気を取り戻した。

そして、その亀八屋さんから少し歩くと
コチラの東明寺さん↓に到着。
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海に面した街の神社仏閣は高台にあることが多いが、
東明寺さんも道から幾分階段を上って本堂という立地。
津波が意識されているだろうという気はする。

階段を上がるとすぐ、
植込みの中に魚籃観音様らしき像があった。
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魚籃観音というのは、
魚の入ったカゴを持っているのが特徴で
魚売りの美しい娘の姿で漁村に現れた観音様だ。
日本では、千手観音や十一面観音に比べると
だいぶマイナーな観音様ではあるが…
こうした漁業の盛んな港町などでたまに見かけたり
刺青として背中に彫ってある人も見かける。

そして、こちら↓が
お目当ての「鯨供養碑」である。
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説明を読むと、
捕鯨に携わっていた浜八兵衛さんが建てたそうで
「鯨の殺生の罪が許されるよう皆で法華経を唱えた」
というようなことが書いてあるのだそうだ。

日本には色々な供養塔があるが、
このように文が書かれているとは限らない。
単に「〇〇供養」と書かれた石碑から、
人がどのような気持ちで建てたのかというのは
なかなか見えづらい。

なので「鯨の冥福を祈って」的な建前でなく
「自分たちの罪が許されるよう」という
本心に近い言葉が明記された この供養碑は貴重だ。
動物を殺さざるを得ない生業の人が感じた
「恐怖」「うしろめたさ」がよく表れた文だと思う。

*日本の供養・インドの供養*

突然だが、
管理人は「日本の信仰の特徴は?」と聞かれたら
なんとなくこの「供養」という概念が
その答えの1つではと思っている。

いつかの記事で もしかしたら書いたかもしれないが、
供養という言葉自体はサンスクリット語を意訳したものだ。
しかし、ヒンドゥー教での「供養(プージャー)」と
日本の「供養」というものは考え方が少し違うと思う。

そもそも対象からして「プージャー」は
神様や力を持った霊に向けられていることが多い。
そして、それは
神や霊に香や食物を「供え」て
その力を「養う」という意味合いが強い。

一方で日本の「供養」の対象は
亡くなった人、狩った動物、食べた魚介
使い古した道具にまで至る。
しかし神様がその対象になることは少ない。
それは、どこか大事に手を合わせ「弔う」と同時に
どこか「憐れむ」ような「償う」ような…
そしてその殺生を「許されたい」というような。
そんな気持ちが底の方に流れているからなのかもしれない。

*大背美流れ*

しかし うしろめたさ、とは書いたが
何も人が一方的に強い立場からクジラの命を奪って
自分たちは良い思いばかりをしていたというわけではない。
というのはこちらの碑の謂れからもわかる。
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こちらは「漂流人記念碑」。
記念碑というと、どうしても良いことのようだが…
コレは古式捕鯨で100人ほどの漁師が一度に犠牲になった
「背美流れ」を後世に伝えるため建てられた碑である。

日本で起きた海難事故の中でも最も大規模な部類
といわれるこの「背美流れ」は明治11年の年末のこと。
不漁続きで逼迫した状況だった太地で鯨発見が知らされた。
それは非常に大きい上に子連れのセミクジラだったという。
古くから太地では「親子の背美は夢にも見るな」と言われ、
通常であれば捕鯨の対象にすることはなかったはずだった。

しかし、もはやなんとしても鯨を獲らねば
村は年も越せないような状況だったということだろうか。
太地の鯨方は午後に漁へ出て、普段は獲らない母鯨を捕えた。
しかし、その時点で既に翌朝になっていた上に
西 つまり沖の方への風が強く、
いつにもまして大きな鯨をつないだ舟は沖へと流された。
そのうえ寒さの冴える年末のことである。

そこまでが今でいうクリスマス。12/25のこと。
船団の中には沖に米と水を届けてもらう必要があるため
一端村に戻って状況を報告したものが居たそうで、
この時点ではまだ漁が続けられる可能性があったようだ。

しかし、いよいよ26日ごろには村も大騒ぎになり始めた。
そして、沖では一度捉えた鯨を手放し
帰港を優先せざるを得ないという判断が成された。
泣く泣く鯨の綱を切り 舟同士を綱でくくって漕ぐが、
食料も尽き 体温も奪われ 体力も残り少ない状況。
一向に浜に近づくことはできず
ついには舟同士の綱も切って何艘かでも帰港を試みた。
しかし結局は風で運よく陸に打ち上げられた三艘程度が
マグロ船に助けられて生還したのみであった。

というのが「背美流れ」の大筋である。
この鯨方は全盛期1000人ほどで構成されていたとはいうが、
洋式捕鯨への転換期には構成員も多少減っていたはずだ。
そのうえ不漁で逼迫した最中100人もの働き手が亡くなる
というのは鯨方が壊滅状態になるには十分だっただろう。

しかし、それ以降も洋式捕鯨の導入などはありつつも
現在まで捕鯨の町として名を残している。

*燈明崎*
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さて、そんな漂流人記念碑を通り過ぎ
しばらく歩くと「燈明崎(とうみょうざき)」に着く。
先程の背美流れでも「鯨発見の知らせがあった」と書いたが、
古式捕鯨では高台から海を見張り、
鯨を見つけると狼煙を上げて海上の鯨方に知らせたそうだ。
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「燈明崎」の石碑の手前に
お地蔵さまと神道っぽいカミサマがいた。

「古式捕鯨支度部屋跡」↓は今はただの空き地。
高台の見張り場(山見)で働いた人たちが
休息や食事をとる場所が「支度部屋」である。
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そして、山見台の正面(?)には小さめの神様。
鳥居は大きめでしっかりしている。
地図などにはあまり社名は乗っていないが、
どうやら御崎神社というらしい。
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おおきくはないが、恵比須ノ宮と同じくらいだろうか。
放置されてボロくなっているという印象は無く、
お賽銭箱なども比較的最近新調してもらったようだ。
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位置関係としては、こんな感じ。
写真左側から歩いてきたわけだ。
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そして、これが山見台跡。
ここで夜明けくらいから海を見張り鯨を探していたわけか。
先程の案内図が無ければここが先端かと思ってしまうが、
この山見台の先に「燈明崎」の名前の所以たる燈明台がある。

その燈明台がこちら↓だ。役目としては「灯台」。
夜間に通る舟に場所を知らせるための灯りである。
現在は使用されておらず、
山見台も燈明台も資料を基に復元されたもの。
つかわれていたころは鯨油を燃料としていて、
一晩灯すのに3~4合は必要だったようだと書かれている。
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ちなみに、さきほど御崎神社の写真を見ていただくと
背景に石垣が写っているのが見える。
説明板によれば、これは燈明台を管理していた
新宮藩士の住居跡ではないかとのことだった。

海が怖いという割に、そこら辺に登るのは好きなので
この写真の後ろに写っている柵の二段目くらいに登って
海の写真を撮ってきた(/・ω・)/
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そして、いったん引き返して
もう一つの山見・梶取崎へ向かう。
燈明崎から梶取崎へは遊歩道でつながっているが、
燈明崎から引き返し遊歩道の方へ曲がる分かれ道に
コチラ金刀比羅神社↓がある。
注連縄ではなくロープっぽい綱がカワイイ(?)。
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拝殿は瓦葺き。壁や柱は簡素な感じがした。
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金毘羅(こんぴら)宮ではなく
金刀比羅(ことひら)神社という名前から、
ああ、ここにも神仏分離令の形跡が…。
と考えながら本殿を見に拝殿裏へ。
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…!?
覆殿?覆殿なの?
何この珍しい形状…。

この中の本殿がどんな感じなのか気になったが、
雨が降る中ガッツリした覆殿に囲まれて暗くて見えなかった。
この辺の神社はこんな感じなのか?と思ったが、
別に飛鳥神社はこういう感じじゃなかったよな…。

ちなみに燈明崎から梶取崎への遊歩道には、
数メートルおきにこのような↓
鯨図鑑のようなパネルが立っている。
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これは「背美流れ」の時に現れたセミクジラである。


文字が小さい上にはがれてしまっているのが残念だが
名前の由来や生態、見た目の特徴など細かく解説してあって
読んでいると なかなか楽しい。

雨の中、花も瑞々しく綺麗!
(雨女なので雨はあまり気にしていない)
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木の根元に、小さめのカニも見つけたが
写真を撮る前にどこかへ逃げてしまった…(´・ω・`)

さて、数十分歩くと梶取崎に到着。
東明寺さんのものほど古くはないが、
古式捕鯨船の上の鯨が乗ったデザインの鯨供養碑がある。
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ここには、先ほどの燈明台よりだいぶ近代的な灯台があるが
その最上部についているのは風見鶏ならぬ風見クジラ。
かわいいぞ!(*‘ω‘ *)
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この灯台の脇から、古式捕鯨に使われた「狼煙場跡」に行けるのだが…
先端へと歩いていくと、
先ほどの燈明崎よりも海に突き出ている形状なのか
両脇が波の音に囲まれているのにまだ先へと道が伸びている。
え?なに?怖いんですけど。どこまでつづいてんの?
こんな細いとこがそんな先まで伸びてて大丈夫なん?
と頑張ってはみたが…

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結局この↑狼煙場跡を写真に撮るや否や
逃げるように灯台まで走って戻った。
無理。海、無理。
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そして、もう海沿いは嫌なので
内陸を突っ切って「くじら博物館」へ向かう。

途中、抱壷庵さんという陶芸工房を見つけて
「たまにはお土産でも買ってみるか」と覗いたものの
奥の方に人の気配はあるが店には一向にだれも出てこない。
鍵が開いているので勝手にドアを開けて
しばらく商品を見てのんびりしていたが人は来ない。
選んでも店員さんがいないので買えないと悟り、退散。
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この鯨のレリーフ?も売っているようだ。かわいい。
そして、さらに歩いて博物館到着。
結論から言うと、抱壷庵の方はどうやら
博物館で絵付け体験コーナーをやっていたようだ。
それならそうと「博物館でやってます」という張り紙がほしい。
ちなみに商品は、博物館のお土産売り場で買うことができた。

展示は古式捕鯨の様子のジオラマ↓や
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ほぼ実物大と思われる、
天井から吊られた鯨と捕鯨船の模型↓など
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昔のクジラ漁の様子が具体的に分かるものが多かった。
コチラ↓は鯨銛の種類の解説。
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壁いっぱいに貼られた捕鯨船のデザイン画も
シャープで素敵である。

そして、こちら↓が実物の1/10の模型。
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コレを見ていた女性が
「え?コレのたった10倍て、小さない?小さいやろ!」
とずっと言っていたが、たしかに。
鯨というから大きな「船」で獲るかと思いきや
木の葉のような「舟」である。

一隻で引っ張ってくるのでなく、
「勢子舟で追って 網舟が張っている網に追い込む」
という方式ではあるがなんとすごいのだろう。

そんな歴史的・文化的展示がある一方で
あちらの柱には実物大のオスの性器の模型が。
そして、向かい側の柱にはメスの性器模型が。
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2階にもまた別のオスの性器の模型が飾られているが
これまた「ミサイルか」という大きさであり
地元の「珍宝館」(一般的に言う宝物館)を思い出した。
そのほか、内臓や噴気孔、そしてイルカの胎児などの
ホルマリン漬けコーナーなどもあり
充実しているがおなか一杯感もある博物館だった。

ちなみに、そう巨大な博物館ではないが
鯨オンリーに関する博物館では世界最大級らしい。

さて、今回は
和歌山に来ておきながら熊野古道には行けなかったが
次の記事では宿泊した新宮にある
熊野にまつわる社について書く予定ですー。
(*'▽')

*おまけ*
紀伊本線は、ターコイズブルー
可愛いワンマン列車でした(*´ω`*)
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恵比須ノ宮の鯨鳥居(+α 飛鳥神社)

*電車の中で一苦労(雑談です)*
そんなこんなで、
大阪で見た雪鯨橋がこれから行く太地と深い関係にあった!
とゆう事実に御縁を感じながら電車に揺られること約4時間。
遠い。遠いぞ。
しかも後ろの席の女の子はテンションが上がってしまい、
アナ雪のLet it goを熱唱している。
車内で"ありのままの"元気を振りまかないでくれ…
と思いながらイヤホンで本家の歌声を聴いていたが、
幸い 女の子は和歌山あたりで降りた。

今回はそう長い滞在ではないので、
静かになったところで回る優先順位を決めるため情報収集。
いつも準備万端なほうではないので土壇場まで何か調べている…
(;´Д`A

そして悟った。これは、1日の滞在では足りない。
そして、太地にはあまり泊まるところがないことに気づき
特急のデッキで新宮のビジネスホテルに
片っ端から電話をかけまくる。
ゴールデンウィークに当日予約。
我ながら行き当たりばったりすぎるぞ!

しかも、やっと空いていそうなホテルがあったものの
名字を聞き取ってもらえない。
「それでは、ーーー様、1名様で本日ご宿泊ですね」
どうもさっきから砺波(となみ)と言われている気がする。
そして、念のため言い直すも
「あ、泊(とまり)様ですか!」
「ん…タミル、様ですか?」
おい、だんだん日本人じゃなくなってきているぞ⁉︎
中央アジア系?
特急からかけているから電波が悪いか?
いや、私の滑舌が悪いのかもしれない。
相手のせいにしてはいけない。
相手もあまりの聞き取れなさに動揺しているんだ。
「うーん、ミヤコにマルで、トマル、です」
「港に丸ですね?」
「ええと、東京都の都、に、牛若丸の丸、です」
「うしわかまる…」
「あー、えーと、数字の九に一本足したやつです」
こちらもあまりの伝わらなさに動揺しているのか
牛若丸とか九に一本たすとか、
全然わかりやすくない例しか出てこない。
丸ノ内とか、日の丸とか、他にもっとあっただろ!

*太地に到着*
まぁ紆余曲折を経て無事本名で予約ができ一件落着。
ちなみに、砺波は富山 泊は沖縄でよくそう間違われる。
そんな事件はあったが、無事 太地に到着。
タクシーなどは見当たらない、
駅前も特にコンビニもない、
特急が止まるのが不思議なような駅である。
しかも、予報は晴れだと友人たちが言っていたのに
私の雨女の力が予報を上回り まごうことなき雨である。
仕方なくフードをかぶって出発。

駅から少し歩くと、もう海である。
そしてそのまま
まずは、午前に売り切れてしまうこともあるという
太地名物・てつめん餅を求めて亀八屋さんへ。
住宅地、と言ってもかなり趣のある
撮影に使えそうな感じの場所にある。
看板は出ているが、
商品を見えるところに並べて売っているわけではないので
ウッカリ通り過ぎるところだった。

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私の前に買っていったおじさんは地元の人っぽいが、
どこかへ手土産にするのか10個くらい買っていった。
対して私は消極的に1個。
今日1日これしか食べない予定なので、
白と緑(よもぎ?)1つづつ買っても良かった気もした。
が…持って歩く間に雨でビチョビチョになるのは目に見えていた。
1ヶ110円なり。お安い。
あんこは管理人の好きな水分少なめ、こしあん。
まわりのモチはたよりない程に柔らかい。
うまし(*´ω`*)
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食べる前は
「名物ってクジラ肉とかじゃないの?」と思っていたが、
これは名物と呼ばれてしかるべき。

*薄命美男子とサビサビの剣*
なんとなくライトノベルの題名風だな…。
(´д` ;
なんというか雨の中傘もささずに
餅をかじりながら歩くというワイルド状態ではあるが
次の目的地「飛鳥神社」に到着。f:id:ko9rino4ppo:20170506145356j:image
詳しい説明版などはないが、
熊野信仰において重要な土地である「阿須賀神社」と
名前の音だけでなく祭神も同じようだ。
(その阿須賀神社についてはまたの機会に書くとして…)
祭神・コトサカノミコトは一般的に
縁切りの神として知られている。
一体何との縁を切る神社として建ったのだろう?

いや、単に
お隣・那智勝浦でブイブイいわしてる神様を
土地の守り神様として勧請したのか?
なぜコトサカノミコトかはわからないが、
捕鯨の町の氏神様なので絵馬は鯨である。
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ちなみに管理人には
「絵馬があったら片っ端から人の願いを読む」
という悪趣味な習慣があるが、
この神社にあった絵馬は たった1つ。
なかなか切実で具体性のある願いで、個人的にはいい。
そして、自分のある性格を変えたいという願いだった。
つまり、考えようによっては現在の自分の一部との縁切りだ。
叶うといいなあ。神様ではないながらに応援してます。

さて、この神社は御神体に少し特徴がある。
まぁ端的にいえば古い剣なのだが、
海に落ちていて漁師の網にかかったものなので
塩水でひどく錆びているという。
では誰が海に剣を落としてしまったのかというと、
平維盛(たいらのこれもり)という人物である。
源平好き(?)もしくは中世好きであればご存知かもしれないが、
平清盛の孫である。

早くに父を失い立場が微妙であったことなどから
度々周囲とぶつかっては止められ、戦の成績もふるわず、
二十代にして敗走の末に亡くなったという不遇な人物である。
しかし、美人薄命とでもいうのか
容姿は光源氏の再来と言われるほど端麗で、
初めて大将となった際の鎧兜姿は なんと周囲の男どもをして
「絵にも描けぬほど美しい」とさえ言わしむる程だったそうだ。
それは相当だな。

そんな彼が最後どのように亡くなったかには諸説あるわけだが、
一説には補陀落渡海(ふだらく-とかい)したと言われている。
つまり、入水自殺である。
補陀落とは観音様が住む山の名前(ポータラカの音写)。
そこに海を越え旅立つということなのだろう。
中世、那智では比較的盛んに補陀落渡海が行われたそうだが
一般的には高僧などが行うことが多かったようだ。
維盛も、落ち延びてから出家して熊野三山へ詣でた後に
那智の海岸から沖へ漕ぎ出したといわれている。

既に出家してこれから死のうという人間が
剣を帯びていただろうかという疑問もなくはないが、
僧が行う補陀落渡海でも決して浮き上がれぬよう
体に108の石を縛り付けたりすることがあるらしいので
もてる武具をすべて身に着けていた可能性もなくはない、か?
ちょっと細かい状況はわからないが、
ともかくその際に彼が落としたといわれている剣が
この飛鳥神社の御神体とされている。
もちろん、実物を見ることはできないわけだが。

*鯨鳥居と対面*
さて、この飛鳥神社の近くに
管理人がかねてよりお目にかかりたかった
小さな御宮「恵比須ノ宮」がある。f:id:ko9rino4ppo:20170506145605j:image
お宮自体は小さなものであるが、
鯨の肋骨で作った「鯨鳥居」ゆえに知る人ぞ知る神社である。
クジラとえびすと障害者 - とまのすを書いた頃だが、
管理人は「障害者と信仰」という視点で
一時期エビス(ヒルコ)にハマっていたことがある。
そのときに先の雪鯨橋と鯨鳥居を知った。



国内に現存する鯨鳥居は2つしか無いと言われ、
1つがこの和歌山・恵比寿ノ宮。
もう1つは長崎・海童神社のものである。
昔は日本統治時代の台湾や、色丹などにも数個あったらしいが。
そちらもきっと政治的な意味でも
神社ごとなくなっていたりするのかなぁ。

現在は、まだ一部の捕鯨が許可されているため
まぁなんとか劣化しても新調可能だ。が。
今後もし捕鯨が全面禁止になるか鯨が絶滅してしまえば
鯨鳥居は作れないということになる。

風雨による浸食ならば
コーティングか何がで防げそうなものだが、
万一 戦火や震災、津波で突然失われてしまえば
まぁおそらく守りようもない。

神社が昔の姿であり続けられるのは、
人の世が平穏なだけでなく生きものも豊かであり
その恵まれた状態であっても人が神様を重んじて
その住まいを保つことを忘れない。
という案外難しい条件が揃っているときなのだ。
そういう意味でも、
今や2つしかないが今後も鯨鳥居がずっとあってほしい
と思う管理人だったとさ。

管理人のたそがれは置いといて、
この恵比須ノ宮は小さいながら歴史はそこそこ古く
あの井原西鶴の「日本永代蔵」にもその様子が記されている。
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本当に大きさで言えば
どこかの末社かと思ってしまうような小ささなのだが
井原西鶴の文章を読むと、
そのころ既に盛んに信仰されていたようだ。
もしかしたら、昔はもう少し大きかったのかもしれない。

そもそも西鶴さんがどうしてこの土地を訪れたかというと、
「横手節」という小唄を聞いたからである。
まぁ江戸ではなく大阪の人とはいえ、
今でも4時間かかるのに当時は何日かかったのだろう。
だというのに、
「面白い小唄があったからその発祥の地を訪ねてみよう」
という軽い動機で すごいバイタリティだな…。

そしてちなみに
「日本永代蔵」というのはどういう本かといえば、
町人物といわれる庶民の生活を扱ったジャンルであり
裕福なやつはどうやって裕福になったかとゆうのがテーマ。
この本の2巻目に太地の鯨獲りの名手の話が出てくるわけだが、
その名手が盛んに拝んでいたというのがこの恵比須ノ宮である。
現代語訳しか読んだことがないのだが、
そこでは「鯨恵比須」と書かれていたような気がする。
そして、当時の様子では「高さは3丈ばかりもある」と。
つまり9~10メートルくらいということか。
まぁ読み物なのでもしかしたら誇張はあるかもしれないが
今よりもずいぶん立派なものであったらしい。
また文中で名手「天狗源内」が
例年より参るのが遅くなってしまい慌てて行くが
もう自分よりほかに参る人もいないようで
神楽を奉納したいと言うも遅い時間なので適当に済まされた…
というエピソードが書かれている、
なので、日中は参る人が多く
神楽も舞われるような宮だったのだろう。

*おまけ*
恵比須ノ宮の正面に
対面するようにこの石がある。
石棒や金精様というには少し前のめりで
ねずみ男のような親しみを覚えるのだが…。
これは一体なんだったんだ。
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そんなこんなで、
この後はくじら博物館や鯨供養碑
そして古式捕鯨の形跡をめぐって歩きました。
そちらはまた次の記事で書きます~。
相変わらずまとめるのが遅い管理人ですいません。

瑞光寺さんの雪鯨橋。

今回は、和歌山・太地(たいじ)に行くのだが
高崎→(50min.)→東京→(2.5h)→新大阪→(4h)→太地
とブッ続けで電車に乗るのも辛いので、
新大阪で小休止がてら淀川区にある瑞光寺さんに来てみた。f:id:ko9rino4ppo:20170504230732j:image
瑞光寺さんは、小さいながらも歴史は古く
なんとあの聖徳太子が建てたと言われている。
本尊さんは十一面観音さんだそうな。

とまぁお寺さんの概要はそんなところだが、
普段神社に行くことが多い管理人がなぜ寺院にきたかというと…
前々から見たい見たいと思っていた
「雪鯨橋(せつげいきょう)」を見るためだ。
大阪は東京から3時間弱で着くし、
行きづらい場所ではないはずなのだがなぜか来たことがなかった。

さて、雪鯨橋とは何なのかといえば、
鯨の骨で作った橋である。
Wikipediaさんによれば、鯨の骨でできた橋というのは
日本でここにしかないらしい。

どうも、管理人は
狩猟や漁業に観点の深い神社仏閣が気になる。

というわけで、こちらが雪鯨橋。
f:id:ko9rino4ppo:20170504230302j:imageやはり骨なので風雨で劣化してしまい、
現在のものは6代目に当たるそうだ。
北海道沖で獲れたイワシクジラの下顎骨と扇骨(人間でいう肩甲骨)、
そして南極海で獲れたクロミンククジラの脊椎を使用している
と書いてある。そして、先代の欄干だった骨は…f:id:ko9rino4ppo:20170504230356j:image
f:id:ko9rino4ppo:20170504230430j:image
壁際に普通に並べられている!
盗まれたりしないんだな。案外治安いいな大阪!
ちなみに、山門も鯨の骨である。f:id:ko9rino4ppo:20170504230624j:image
でも、そもそもなぜ
殺生が禁じられている仏教の寺院に鯨の骨が?
とおもって調べてみると…
昔ここの偉いお坊さんが不漁つづきのの哀れな漁民に
泣き付かれて一度は断ったが根負けして祈祷をしてあげました。
とさ。さぁ!
コーヒールンバの節に乗せて歌ってみよう!
(オイコラΣ(’・д・))

まぁコーヒールンバはさておき、
だいたい発端はそんな感じ。
初めは
「仏様の教えに背くことになりますから、
 魚や鯨が獲れるようになどと祈祷はできません」
と言っていた彼も、貧しく飢えた様子の村人を放っておけず
結局は祈祷をすることとなった。
するとなんと鯨が獲れたではないか!

昔は鯨一本 七里が賑わう、鯨一疋 八郷潤すetc
(つまり一匹水揚げすれば
 7つの里(or8つの郷)が一度に食料や収入を得るほど)
と言ったそうで1匹獲れれば村人はずいぶん助かったことだろう。
さて、これを調べていて管理人は知ったのだが
この僧・潭住さんが行脚で訪れた村こそ、
これから行こうとしている和歌山県・太地だったのだ。

なんという偶然だろう!
しかも、太平洋戦争で焼失し
しばらくは架かっていなかった雪鯨橋が復活したのは
太地町の協力あってのことだという。
なんだかテンション上がって来た!

というわけで今回はさっぱり切り上げて
明日以降に備えます!

海をみまもる 津守神社。

先日書いた記事の久ノ浜から海を眺めると
左の方に海に突き出したような島みたいのが見える。
近くに居たおばあちゃんに聞いたら、殿上岬というらしい。

そして、その岬を眺めていたら
重いブーツで18km歩いたがために足はロクに上がらず
舗装路すら足を引きずって歩いているというのに…
見つけてしまったんだなぁ。鳥居を!
ここに!
f:id:ko9rino4ppo:20170412142319j:image
さて、足を引きずりながら歩くこと数分
工事中の橋の下に低い橋がみえた。
f:id:ko9rino4ppo:20170410220322j:image
橋の下はもう、すぐに海だ。
ちょうど大久川が海に注ぐ河口であり
津波の時はきっと押し寄せる津波がこの川をさかのぼったのだろう。
そうして大勢の人や物をさらった海かと思うと
当日は穏やかだったが空恐ろしかった。
※管理人はグンマーで育った山の民なので、
 そもそも海というもの自体が未知の領域であり怖い。
f:id:ko9rino4ppo:20170410220332j:image
その橋を渡り、緩やかなアスファルトの上り坂を歩いていく。
平地でも股関節が痛いので、緩やかでも坂であればさらに痛い。
そのうえ、ダメ押しのように…
f:id:ko9rino4ppo:20170410220402j:image
きゅうなかいだん が あらわれた!
▶︎たたかう
▷にげる

だぁれも人がいないので、
遠慮なくうめきながら登る。
そして、拝殿に到着。

通常よりお正月らしい縄の懸り方。
そして戸口のミカンが…干からびている!
あまり頻繁にはお手入れが入っていないのかもしれない。
(´・ω・`)

福島県神社庁HPに載っていないので御祭神がわからない…

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拝殿を見て、鳥居の方を振り返ると
登って来た時には気づかなかったが海が綺麗に見えた。
f:id:ko9rino4ppo:20170410220456j:image
さらに拝殿の脇の草の中を登っていくと、
大きな石碑のようなものがある。
f:id:ko9rino4ppo:20170410220522j:image
戒道大龍女 龍道大龍王
とあってなんだか仏教チックな雰囲気が出ている。
ココでの意味は情報が少なすぎてわからないが、
秋田・善寶寺で信仰されている龍神と同名である。

どうやら調べてみると善寶寺さんの龍道大龍王とは
法華経に登場する「八大龍王」の一人沙迦羅龍王らしい。
サーガラ=大海という意味らしいので、
沙迦羅龍王(サーガラ・ナーガラージャ)は8人の中でも
特に海に関連深い龍王様なんだろうか。

ちなみに戒道大龍女は、彼の奥さんではなく
三女である善女龍王(または八歳竜女)の別名らしい。
岩手にある報恩寺の記事でも少し触れたが、
彼女は龍王の娘というよりかは
「初めて成仏した女性」として有名神。しかも八歳で。
成仏した証に男性になったというトンデモ展開のため、
絵や仏像では女性でないこともあるのだが…。

このパパと娘、東北ではちょくちょく
海産物の供養塔や 漁業関係者の海上安全祈願
農村の雨乞いを龍がかなえた伝説などに登場する。

ココの場合、立地的に海上安全祈願かなあ。
「津守」神社だし。
3.11以降、東北で「津」と見ると津波を連想してしまうが
津とは船の停泊する場所=港のコト。
津守というのも「港やその周辺を守る」という意味のはず。
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上空から見ると津守神社はこんな感じの地形で
この津守神社の建つ「殿上岬」というでっぱり(?)は、
その北が港として利用されている。

この近くは南からの波浪が強く難破も多かったそうで、
南に岬が立ちはだかり波風を防いでくれる殿上岬は
まさに久ノ浜港にとっては「津守」だったのだ。

東日本大震災でも、津波は画像右下からやってきて
南寄りから殿上岬にぶつかるようにやってきたらしい。
そのため港は海に近い割には浸水は少なかったとのこと。

しかし殿上岬にぶつかった波と南からの津波
まともに大久川に流れ込んだため、
大久川周辺(特に津波の力の加わる側であった秋義神社側)
は川に沿ってだいぶ内陸まで浸水し火災も起きたという話だ。


地形というのはなんとすごいんだろう、
としみじみしながら海の方を見る。
すると、体を張って港を守っているばかりか
沖に出た舟までも見守れそうな風景だった。
管理人の写真がショボいので感動が伝わりづらいが…
f:id:ko9rino4ppo:20170410220809j:image
痛みに耐えて登った誰もいない神社から
この深い紺色の海と町を眼下に眺めて、
その海岸からは供養として
日蓮宗のお坊さんたちの少し変わった節回しの読経が聞こえたり
エイサーの太鼓の音なども風に乗って聞こえる。

管理人にはこれ以上ないようなご褒美である。
この風景を自分への今年の誕生日プレゼントとしよう。

(*‘ω‘ *)ではまた次回~