盆も、もう過ぎちゃいましたねー。
しばらく記事を書くのをサボっていたが、
神社へはちゃんと行ってたよ(=゚ω゚)ノ!
しかし、今回は神社少なめ記事。
今年の盆は石巻へ行っていたので
「何の祭に行ったの?」
と友人たちに訊かれた。
ご期待に沿えなくて申し訳ないが、
今回の目的は日本的な祭でなく芸術祭だったのだ。
「Reborn-Art Festival 2017」。
3.11の被災地でもある石巻市街と牡鹿半島で
アート作品や音楽・料理などの展示・提供が行われている。
地域と運営者や作者、そして訪れた人たちで
地域が前に進む力を「生み出す」とともに、
Art(語源は「生きる術」という意味のArs)を「再生」するイベント。
(あくまでこれは管理人の理解で、正しい原文はイベントHPを読んでいただきたい)
単に芸術作品で人集めをして被災地を元気に!
というだけでなく、
生きる術という意味でのアートを再興する。
というのは なるほどフムフムと納得。
とはいえ折角石巻まで来たので
地元の神社にもいくつか行ったわけで…
なんか石巻にはこういう↓体型(?)の狛犬が多い。
犬やライオンのようにどっかり座る!というよりは、
猫のように狭い範囲にシュッと座っているような。
そして、かたやシュッとしていない狐。
これは別に石巻全域の狐がこうというわけではなく、
市街にある「鹿島御子神社」の境内に居た狐だ。
何みたいとも言い難いが、初めて見る雰囲気の狐である。
ポケモンのスリーパー系(?)
なんでこんなにホリが深い しかめっ面なんだ…。
さておき、この鹿島御子神社にいるカミサマについてだが、
「鹿島」といえば鹿島神宮などに祀られるタケミカヅチ。
地震除けの神としても名高いが、もとは武神である。
管理人が大好きな諏訪大社におわすタケミナカタは、
このタケミカヅチとの力比べに負けたため諏訪に逃げ込んだという。
鹿島御子、ということは そのタケミカヅチのお子さん!
という意味であるが、残念ながら 父ほどのエピソードが残っていない。
天足別(アマノタリワケ)という名前だとは伝わっていて、
父のタケミカヅチやフツヌシ親子とともに東北平定を行ったという。
東北へ遠征してきた彼らの船は 現在の石巻周辺に停泊。
一説には、その碇(いかり)が海底の石を巻き上げたので
その土地に「石巻」という名が付いたとも言われている。
そのためか宮城には アマノタリワケの名を頂く神社が多く
鹿島天足別神社・鹿島天足和氣神社などがある。
(いずれも、読みは「かしま-あまたらしわけ」・祭神はタケミカヅチ)
また、福島・南相馬市にも 同名の「鹿島御子神社」がある。
東北を平定した後、タケミカヅチたちは地元に帰ったが
アマノタリワケはこの地にとどまり治安を守ったともいう。
その位置や伝承の内容から、これらの神社群は
大和民族の東北平定・開拓の拠点となった場所か?
と考えることもできなくはない。
現に、石巻から電車で数十分で「多賀城駅」だが、
歴史の授業で出てきた通り多賀柵は「対蝦夷」の軍事拠点。
その近くの塩竃神社周辺は「塩竃丘陵」と呼ばれる地形であり、
かつては勢力の境界だったと伝わっている。
宮城県は伊達政宗推しのため 多賀柵は観光資源としてイマイチだが…
今やアラサーとなった管理人もかつては
胆沢城と多賀城の位置がどうしても覚えらえない中学生であった。
ので、厄介なコイツ(多賀城)のことはよく覚えている。
まぁ話がズレた上にいつも通り神社の話ばかりしているが、
宮城がかつてそうした土地であったということを踏まえると
神社におわす神様がどのような立場で鎮座しているのか分かりやすい。
ちなみに、鹿島御子神社拝殿のすぐ隣には道真公が祭られていて
その社は「日和山天満宮」という。
銚子の長九郎稲荷の記事にも「日和山」という地名が登場したが、
沿岸の港町にはよく同じ名前の山がある。
漁師さんたちが天候を予測するため海や空の様子を見た場所だろう。
この神社があるのも日和山という山であり、
このように↓河口や海の様子がよく見える。
ちなみに御覧のとおり日和は最悪である。
すいませんねぇ皆さん、連休なのに 雨女が来たせいでねぇ…。
しかし、そんな雨のなか参道にはヒマワリが咲いている。
管理人は、花のつぼみ
とくに、柔らかく優しげなのではなく
こうやって中身を守ろうとするアーマーのようなのが好きだ。
実は、このヒマワリを植える活動を引っ張っているのは
フラワーアクティビスト・志穂美悦子さん。
若い人は知らないかもしれないがアクション女優であり
あの長渕剛の妻でもある!
もちろん、彼女だけが中心となって植えたのではなく、
地元の方や 被災した鹿島御子神社の再建を望む方など
いろんな人の協力の賜物だ。
今回の芸術祭とは直接関係はないようだが、
ヒマワリで被災地を元気づけようとゆう考えのもと
海が見える参道の石段に1000粒の種が蒔かれたそうだ。
なんとなくだが「海が見える参道」と考えたときに、
私たち「コチラ側」から海がみえて その場所にヒマワリ。
というだけでなく海の彼方に行ってしまった人たちの
「アチラ側」からも ちゃんと見える場所かもしれないと感じた。
もちろん、体が海の奥へ行ってしまった人たちも
もう気持ちは家族の近くに戻っている!と考える人も多いと思う。
だから、これは管理人がふと「海からでも見えるね」と思った。
というだけの話だ。
市街地側から神社までは店があり住宅があり
そこには「暮らし」を感じるのだけれど。
その石段を下りて鬱蒼とした樹の中を抜けていくと、
その先は本当に何とも言えなかった。
春に行った福島では神社参道に
「津波到達地点」という石碑が多かったように思うが、
こう「襲来の地」と書かれると痛みが増す感じがする。
そして 芸術祭に行ったにもかかわらず、
ここに作品があるとは全然知らなかったのだが…
増田セバスチャンさんのNew Generation Plant #2。
透明なキノコのような植物の中身は
この人の作品らしい極彩色だ。
もっといい表現があるのかもしれないが、
管理人の目にはいささかビビッドすぎる。
初めて他の作品を東京で見たとき
「きゃりーぱみゅぱみゅかよ!圧が強いよ!」
と思ったら、きゃりーの美術演出自体 この人だったという…。
しかし、重要なのはその色使いだけではなかった。
というのを知ったのはCINRA.NETに掲載されたインタビュー記事。
https://www.cinra.net/interview/201704-masudasebastian
このキノコの中身は彼と共同で制作した美大生たちが集めたものであり、
この集めるということによって
美術畑にいた美大生たちは社会の中のアートの位置を知り
作品には若者のエネルギーが詰まっていったという。
是非興味がある方は読んでみてほしい。
このキノコ的なもののすぐそばには
震災後に作られた可愛らしいお地蔵さまがあるが、
周りは建物がほぼ無い。更地にただただ草が生えている。
信号機は一方が赤、もう一方が黄色の点滅。
車両はトラックがほとんどだった気がする。
ただただ、日本製紙の石巻工場へ続いていくまっすぐな砂利道。
こんな店も無い道を身長150cmの管理人が歩いていると
車両の誘導をしている警備員さん的な人が
「子供が迷ったか?なんだろう?」
というような顔で見ていた(ような気がする)。
ここを少し進んで海側へ曲がると間もなく
草だらけになった土地に小さな稲荷神社がある。
「善海田(ぜんかいだ)稲荷」という少し変わった名前だ。
実は震災後、ココのご神体は 先ほどの鹿島御子神社に移された。
津波で 社殿が基礎部分のみを残して押し流されたからだ。
製紙工場を背景に、
ティム・バートンの絵本のような独特な木が印象的だ。
一度は土台だけになり、周りは瓦礫だらけだったそうだが
小さな石の祠にはキレイに御札が納められ 狐の姿も見える。
大事にしてもらっているようだ。
神社としては1000年以上の歴史があったらしく、
古くは「川口與志宇美明神」と呼ばれていたそうだ。
なので元は「ゼンカイ」でなく「よしうみ」だったことがわかる。
また、川口というのは(まぁ地名かもしれないが)
近海でなく河口での漁を見守っていた明神様ということかもしれない。
以前の例祭の様子などを写真で見ると
ずいぶんにぎやかな様子だったのが窺える。
こうやって伝統は少しずつ形を変えていくんだろうか。
形は変わってもいいから10年、20年経ったときに
「平成の震災以前は例祭が賑やかに行われていた」
という文字だけの姿になってしまわないよう
鹿島御子神社の祭としてでも何とか続いてくれたらと思う。
そして、コチラの善海田稲荷の本拠地(祠)も
善海明神の歴史と震災の碑として、
(社殿がこの場所に再び建つことは無くとも)
ずっと地域の人に大事にして行ってもらえたらいいな。
しかし 今は「ココに住んでいて被災した人たち」に守られているが、
月日が経って「ココで育った人」が居なくなったら?
それとも、その頃にはまたここにも人が住むだろうか?
そういえばメディアや書籍で、
「震災後に幽霊の目撃談が多数報告されている」
という内容をよく見かけるが
この地区は津波の被害が大きく度々その記事の舞台となる。
色々な本や記事を読んでみるが、
その体験談の1つ1つが「恐がらせようとしている」のでなく
見えないのに確かに「かつて そばに居た人を感じる」話だからこそ、
それはただの怪談でなく 人と人の物語になり
災害や死というモノの受け止めかたの形を教えてくれる。
今まで読んだ中で一番印象的だったのは
「死者が生きている者をケアする」という一文。
災害に遭ったり身近な人を亡くした人が
どのように考え、苦しんだり乗り越えていくかというのは
どちらかと言うと民俗学より心理学の範疇かもしれない。
が、この話が個人の体験から語りになり集まることで
この類の話は今後 民俗みを帯びていくような気がする。
あまり専門書寄りにならず、
町の書店さんでも置いてありそうなのはこのへんか。
「霊性の震災学」は、「学」と付いているだけあって
客観的・分析的な空気を少し感じる。
「魂でもいいから、そばにいて」は
電車で読むと多分泣くので一人で部屋で読もう。
(´・ω・`)←電車で読んで鼻垂らしてた張本人
畑中先生が「蚕」の出版記念イベントで言った
「タクシーに幽霊じゃなく河童が乗ったら精神的復興のしるし」
というような言葉をふと思い出した。
大切な人を失った人たちが その見えない姿を語り、
その語りが降り積もって いつかその集合体が
ある人と その大切な人の話から 災害と 人と 奪われた人と
というボンヤリした輪郭で描かれるようになったとき。
それが、幽霊が妖怪に姿を変える時なのかもしれない。
そんなことを考えながら、また人里に戻ってきた。
先程の善海田稲荷さんが守っていたであろう「川口」。
旧北上川の河口である。
河口の中州に作られた「中瀬公園」。
宇宙船のような独特な形の建物は石ノ森萬画館。
何をかくそう宮城は、漫画家・石ノ森章太郎の故郷である。
彼の出身は登米市石森町であるが石巻は第二の故郷とも言われ、
石巻駅や市街のいたるところに
サイボーグ009や仮面ライダーの像や装飾がある。
ここも震災、というか津波でだいぶ被害を受けたが
震災の翌年末には営業を再開したと聞いている。
残念ながら、管理人は石ノ森章太郎の漫画を読んだことが無い。
ので、あまりグッと来なかったわけだが
道行くオジサンたちが少年のように写真を撮りまくるのを見て
ああ、さすが巨匠なのだなぁと勝手にしみじみしていた。
さて、この中瀬には作品を見に来たわけだが
レーザーによる作品なので暗くなってからでないと見られない。
なので、先に腹ごしらえとする。
朝から何も食べておらず管理人の血糖値はもはや低血糖寸前である。
毎度被災地周辺に来たら
なるべく全国チェーンでなく地元のモノを買おうと思っている。
でももうフラフラなのであまり歩きたくない。
ので、すぐそこにある「いしのまき元気いちば」へ。
2階には何やら温かい食べ物もあるようだが、
疲れているのでそんなに食べられる気がしない。
というわけで、1階の販売コーナーでかりんとうとブッセを購入。
普段あまり好んで洋菓子は食べないが、
ずんだなら食べてみてもいいかもしれない…。
ということで、店の外にあるベンチで大きなリュックを下ろし
ずんだブッセを食べましたとさ。やわらかい味で うまし。
空腹で大してパッケージを見ずに買ってしまったが、
かりんとうは酒粕味だった。これも優しい味。
酒粕味ってあんま粕漬けとかのイメージしかないけど、
甘酒的な感じで甘いお菓子にも合うのね。
そんなこんなで、
出入り口すぐのベンチで遠慮なくモグモグし
あまつさえ居眠りなどしていたら暗くなってきた。
ので、もう一度 中津へ。
中津の先の方に展示があるため、
海が苦手な管理人にとっては結構な恐怖である。
小さな中津は先に行くほど両わきから水の音がする。
川なのに、もう すぐそこが海のせいで
流れるのでなく打ち寄せる音がする。
もともと自由の女神があった所より さらに先。
(…と言っても地元の人しか分からないか)
近づくとだんだん見えてくる光。
カールステン・ニコライ「石巻のためのstring(糸)」。
ただまっすぐ上へ伸びる光線。
私は、震災で親しい人をだれも亡くさなかった。
だから、そういう人たちがこれを見てどう感じるか分からない。
ただ、いくら心の中で「空の上に居る」と考えても
届かない誰かの存在を描き切れないこともあると思う。
そんな時、雲のむこうと 自分の建つ地面が
一本の糸で繋がっているのが本当に見えたら。
思い描くのと何か違う 確かなつながりを感じるかもしれない。
震災と津波で、本当にたくさんの
モノや人が目の前から消えてしまった。
そのあとで、見えないものの存在や力を感じる一方
見えるもの 触れられるもののチカラってすごかったと思う。
…そんなことを少し考えた。
もう1つ印象的だったのが雨。
管理人は雨女なので、もちろん着いた時から降り続いていた。
昼間は何とも思わなかったが、
この光の糸が地上から雲の上に向いているのを見て
ああ、それとは反対に、空から地面に雨が降っている。と思った。
この糸が 地面に残った人たちが空へ向ける気持ちなら、
この雨は 遠くへ行った人たちが地上へ向ける気持ちだろう。
いや、むしろ 盆だから
想いとか気持ちとかじゃなくて 本人たち”そのもの”かもしれない。
そんな気持ちになった。
私も神式葬儀経験者ではないので正確な所までは分からないが、
「神道の弔い」というのは仏教とずいぶん違う。
日本の仏教では、
死後・葬式後も亡くなった方は「個人」として三途の川を渡り
裁判(?)や刑を受けたり、阿弥陀様のもとで説法を聞いたりする。
そして葬儀や法事というのは、
地獄での刑が軽くなり早く浄土に行けるようエールを送ること。
(というイメージを勝手に持っている。)
エールと言うと語弊かもしれないが、
①いいところに行くには 故人の生前の善行が足りない
②お経をあげたりして徳や行を補充してあげる
③合格ラインまで押し上げてあげよう!というイメージか。
一方、神道の葬儀はというと
それは、故人が「人」だったころにくっついた汚れを落とす
いわば「ピーリング作業」ではないか?と管理人は認識している。
そしてツルツルの綺麗な状態になったら、
すでに他界したご先祖様のカタマリみたいなものの一部になる。
そのカタマリが、カミサマ的に この世の生活をサポートしている…
というようなイメージを持っている。
「ご先祖様のカタマリってなんやねん!」
と言いたい方もいそうなので その場合は、
カミサマの国に行くのに相応しくなるよう
けがれを落とす「お風呂」が葬儀であるとでも言おうか。
ここでいう神様というのはあくまでも
仰々しく国家や勢力を感じる(アマテラス的な)神様でなく、
ご先祖様たちが みんなでその家系の末裔を見守るというような
素朴な 国家レベルでの記録には残らないくらいのカミサマである。
何が言いたかったか分からなくなってきたが、
盆というモノを仏式に考えれば
「家の門で迎え火を焚いて先祖をお迎え」
というよくある盆の風景になる。
でも(盆自体仏教行事だが)神式に考えたら、
「ご先祖様のカタマリが 地域に帰ってくる」
という状態になるんだろうか。
この雨みたいに、どんどん空から降ってきて
田んぼや 建物や 人に沁みこんでいくんだろうか。
そんな風に考えれば、
盆に1日中 雨に降られるのも悪くないと思った。
次回は、やはり雨の中 牡鹿半島に行ってきた記録の予定です。
(=゚ω゚)ノ!