とまのす

ちいさくゆっくり、民俗学。

彫刻だらけの桐生天満宮。

桐生駅北口から北東に向かって歩くと、
群馬大学工学部の少し手前に鳥居が見える。
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五叉路のようにも見えるが、
鳥居左に見える道っぽいのは参道の一部。
十字路に参道がせり出して見晴らしが悪い状態だが、
車はスピードを緩めずバンバン曲がってくる。
なので、信号待ちの時は要注意。

参道を歩いてややすると、太鼓橋↓が。
大体の神社がそうであるように立ち入り禁止。

*太鼓橋*
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というのも、神社参道に架かる橋は
そもそも人でなくカミサマのための橋。
つまり特別な日に渡ったり降り立つ場所なのである。

余談だが、
かの有名な伊勢神宮にも「宇治橋」という橋がある。
コチラは、普通に参拝者も通れる橋であるが、
冬至の前後数日は橋の「俗世」側から「神域」を見ると
ちょうど橋の延長線上・正面の鳥居から日が昇るという。

日食が「太陽が死ぬとともに、新しく生まれ変わる時」
と表現されることがあるが
太陽の力が一年で一番弱まるとされる冬至もまた
伊勢神宮祭神が橋に降り立つ「特別な日」…
なの、かも、知れない。

かも、というのは定説というワケではないからで
「偶然か」と言われることもあるし
その日に特別な神事が設定されているわけでもない。
しかし、星回りにうるさい(?)古代人が
太陽の女神のおわす神社の設計をするのに
太陽の動きを計算しないなんてことがあるだろうか。
逆に夏至の日には夫婦岩からの日の出が見えるというし
これは絶対わざとだろうと管理人は思っている。

…何の話だったっけ。
(´・ω・`)アラ?

とにかく!
伊勢神宮の神域と俗世を隔てる五十鈴川に限らず、
三途の川も「あの世」と「この世」の境界。
イザナギも、黄泉の国のイザナミにあった後に
川で身を清めてから生者の世界に戻った。

そんな感じで、日本人の心象としては
「川」は極めて境界性の高い存在で。
だからこそソコを渡ることを可能にする「橋」は、
カミサマと人をつなぐ特別な装置なのだろう。

現在ではそれが簡略化され、
「川は無いけど橋があれば境界性表現できるよね」
的な感じで(ex.鎌倉・鶴岡八幡宮
水の無い参道の真ん中に太鼓橋だけがドーン!
という光景も珍しくはない。

もしくは昔は橋の下に水があったが
地形や水位変化のため今は無くなった…
という考え方もありだろうか。
諏訪大社下社春宮の下馬橋とかそうかも)

まぁ大手の神社は置いといて、
桐生天満宮の話に戻りましょー。
(*'ω'*)ソウシマショー。

*財福稲荷社*
さて、太鼓橋の左には新しそうな小さい社がある。
扁額を見ると「財福稲荷」とある。
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末社の中の1つだった御稲荷さんから神霊を招き、
古くから伝わる「財福稲荷」の名前を掲げて
お祀りし直したのだそうだ。(公式ホームページより)

個人的に気になったのは、その稲荷社横にある灯籠。
稲荷社よりずいぶん古そうな上に、なんだか石っぽくない。
特に 土台部分。なんだこれ。鉄?
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素材は分からないが、ちょっと変わった感じの燈篭だ。
鉄なら、南蛮灯篭というやつだろうか?
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*拝殿*
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そして拝殿の前まで行くと、
狛犬↓は濃いめの小澤征悦風(?)
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今生まれ落ちたばかりのような
ツルッツルな「撫で牛」ちゃんもいます。
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おみくじを結ぶ場所↓は、なかなか独特な形態。
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境内をよく見ると、色々な所に
この「一陽来復↓」の札が貼られている。
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知識不足かもしれないが、
これ 早稲田の穴八幡で冬至に配るやつ?
それとも群馬にも一陽来復のお札があるのか?

一陽来復」の意味としては、
冬が極まって終わり、また春が来ること。
冬が極まるというのはつまり冬至のことでもある。
転じて、悪いことが去り運気が上を向き始めること。

しかし、それと天満宮にどんな関係が?
天満宮菅原道真)は北極星信仰と関連深い
と言われたりするが、
冬至という「陰」の極まる時が
「北」を象徴する北極星とつながるんだろうか。

ちょっと想像の域を出ないなぁ。

*祭神について*
そもそも、この桐生天満宮
天満宮」と言う名前なので主祭神菅原道真だろう!
と思っていたのだが、
実は西暦100年ごろはアメノホヒが祀られていたそうだ。
西暦100年なんて昔過ぎて 何があった年なのかよく分からないが、
聖徳太子摂政になる約500年前。
日本神話で言ったらヤマトタケルのお父さんの時代である。

さて、このアメノホヒという神様は誰かと言うと
あの アマテラスの息子である。
息子とはいっても、おなかを痛めて生んだのではなく
彼女が鬟(みずら)に巻いていた勾玉から生まれた神だ。

5人兄弟だが、その後の日本神話にちゃんと登場するのは
彼の兄・アメノオシホミミくらい。
お兄ちゃんはかなりのヘタレで、
そして、アメノホヒ自身も かなりのゆとり世代(?)。

母・アマテラスはまず兄に
「ぼうや、地上を平定してきてちょうだい」
と言ってみたがアメノオシホミミ
「地上は物騒でヤバそうだからボク行かない」
という感じだったので弟にお遣いを頼むことにした。
オオクニヌシを説得して国を譲ってもらってきて」

そうして、アメノホヒ
「はーい」と降臨してみたものの、
説得しているうちに懐柔されてしまった。
そして…

「平定のために地上に降臨してみたけど、
 逆にリスペクトしちゃた的な?
 オオクニヌシさんパネェっすわー。
 俺、マジ地上気に入ったんでしばらく帰らないから!
 (=゚ω゚)ノサーセン☆彡」

と、連絡も無しに3年間帰ってこなかった。

彼は「天穂日」という太陽信仰圏の農耕神らしい名前で、
いかにも太陽の女神・アマテラスの子という感じがする。
が、彼は結局 オオクニヌシを祀る出雲国造一族の祖神となった。
つまり、天津神代表・アマテラスを母に持ちながら
彼の子孫は国津神代表・オオクニヌシを祀っている。
ちょっと変わった神様なのだ。

ちなみに、彼が慕ったオオクニヌシ
しばしばオオモノヌシと同一視されてきた。
この桐生天満宮の近くに「美和神社」があるのだが、
そこの主祭神はオオモノヌシなのである。
こんな北関東まで遥々招かれたのに奇遇にも側に居られて
アメノホヒもきっと喜んでいることだろう。

そして、あと一組。
名前自体は知名度が低いが、活躍の場は多い
「祓戸四柱大神(はらえど-よはしらの-おおかみ)」である。
あらゆる災いや罪・穢れを祓い清めるカミサマで、
瀬織津姫神・速開都姫神気吹戸主神・速佐須良姫神
の4人ユニットである。

セオリツヒメは単体で祀られることも多いだろうか。
本土では川や瀧の女神とされることが多く、
その激しい流れで穢れを海へ押し流すのだそうだ。

そして、荒れ狂う潮の狭間におわす
大海の女神・ハヤアキツヒメが、
その罪や穢れを残すことなく飲み込む。
その様子は大祓詞では「かか吞む」と表現されるが、
この「かか」とは一説に蛇のことと言われ
つまり蛇のように大きな口をあけ一瞬で丸呑みする!
という様子らしい。(大学のころ本で読んだ気がする)
なかなかの迫力である。

そして、飲み込まれたのを見計らって
風神・イブキドヌシはその長く強い息で
根の国(死者の国)まで罪と穢れを吹き飛ばす。
…管理人は、ハヤアキツに飲み込まれたものを
どう吹き飛ばしているのかずっと疑問に思っている。
まさか彼女ごと一旦根の国に送るのか?

最後に、根の国におわすハヤサスラヒメが
その名のごとく罪や穢れを流離(さすら)わせ、
どこかへ失われてしまうという。
最後はなんだか、なんとなく無くなる感じなのだ。

…とまぁ、多彩な神様がいらっしゃる天満宮である。


*ゴテゴテ本殿*
さて、祭神の話でだいぶ尺を使ってしまったが
この神社で特筆すべきはこの本殿の彫刻!
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上には上がいるので「これが最強」とは言えないまでも
いままで管理人が見た中では一・二を争うゴテゴテ。
蚊に刺されながら写真を撮りまくる価値はある本殿である。

あまり良い写真を撮ってこられず
彫刻の立体感が半減なのが悔しいところだが…
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それにしても
何の彫刻も施していない場所を探すほうが大変なほど
いたるところ彫刻だらけである。
ゴテゴテ大好きなので堪りませんなぁ。
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いまでも所々に彩色の形跡が見られるとのことだが、
境内には設計図というか完成予想図として描かれた絵↓が
説明版に掲載されている。
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な、なんと。超ド派手ではないか。
好みとしては今のほうが好きだが、
この彫刻の質と量でこの彩色だったらと思うと…
それはそれは素晴らしいお姿だったことは想像に難くない。

末社たち*

立派な神社だけあって、後ろに回って見ると
たくさんの社が並んでいる。灯篭?もたくさん。
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奥にある「春日社」は、目立たない場所にあり姿も控えめながら
桐生市指定文化財になっているそうだ。
人(社?)は見かけによりませんなぁ。

あとは「神道七福神」を祀ったという宝船神社↓とか。
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そして、管理人が気になったのがこちら↓f:id:ko9rino4ppo:20170528061214j:image
「機神神社」という扁額がかかっている。
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手水鉢は、水は張られていないが
そこには生糸の巻かれた糸車↓とおもわれるマークが。
マークというか、これが神紋なんだろうか?
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県外の方には富岡製糸場のほうが有名になってしまったが
群馬は製糸業だけでなく銘仙(織物)も有名なのである!

上毛カルタ群馬県民御用達ご当地カルタ)でも
「繭と生糸は 日本一」のほか
県都前橋 生糸(いと)の町」
「日本で最初の 富岡製糸」
銘仙織り出す 伊勢崎市」そして
「桐生は日本の機(はた)どころ」と…

44枚しかない札のうち、実に5句が生糸や織物に関するものだ。

そのため、機織や養蚕に関する神社は多いといえる。
この神社、機の神様ということはタクハタチヂヒメとかだろうか。f:id:ko9rino4ppo:20170528003622j:image
社内はちょっとモノが多いが、非常に明るい。
天満宮本殿ほどではないが、小規模ながら精巧な彫刻。

ちなみに、機織の女神・タクハタチヂヒメは
タカミムスビの娘とかオモイカネの妹といわれ、
天皇の祖先となったニニギの母。
つまり、先ほどのヘタレお兄ちゃんアメノオシホミミの妻。
まぁヘタレというか、慎重で 手柄は人にとらせるタイプ
といった方が良いだろうか。

*追記*
ちなみに、絹・織物関連といっては何だが
ここ桐生天満宮がどうしてこんなに豪華かというと
徳川家代々の祈願所となっていたからなのかもしれない。

とくに、関ヶ原の合戦に際しては
軍旗に使う絹糸を神前に供えて祈願し、勝利を収めた。
その凱旋をきっかけに境内では織物市が開かれるようになり、
後の桐生織物繁栄の礎になったとも言われている。

未開の地グンマーとか言われてるけどね、
昔はスゴかったんだから!
古墳だってバンバン立ってるし!
埴輪だっていっぱい出るんだから!

遊郭しのぶ 吉原神社。

*吉原神社*

今週来てみたのは、東京都台東区の千束にある「吉原神社」。
小さいながらも、御朱印をもらう人などで賑わっている。
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狛犬↓は、どことなくエキゾチック(?)な面立ち。
ペルシア系というか、なんというかね。
※個人の感想です
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さて 吉原といえば遊郭だが、
ここ千束は特に「新吉原」と呼ばれた場所。
最初の吉原(元吉原)は人形町のあたりだったが、
後ほどこちらに移転したのだそうだ。

この吉原神社にはどんな神様がお住まいかというと、
おなじみ ウカノミタマノカミである。

吉原の出入口というのは非常に限られていたわけだが、
その出入口・大門付近に玄徳(よしとく)稲荷。
そして、敷地の四隅を囲むように
榎本・九郎助・明石・開運という4つの稲荷社があった。

そのためだろうか。
新年を迎える江戸の町では「獅子舞」が演じられたが
年末の吉原では獅子でなく 「狐舞」が行われたという。
御幣と鈴を持ち 狐の面をかぶって踊る姿は、
吉原の年の瀬の風物詩としていくつかの錦絵に残っている。

そういえば
女衒に買われた少女が勝気で美しい花魁になる姿を描く
「さくらん」安野モヨコ・作)でも、
年末の大掃除をする場面で狐舞が描かれていた。

必需品を堅実に売る商売ではないからこその
客足の流れの速さ 流行れば湯水のように湧く銭。
まさに御客様あっての「水」商売である。
お稲荷様は出世・繁盛が得意分野であるから
朝な夕なに手を合わせざるを得なかったことだろう。

そしてさらに、
妖狐・妲己の如く美貌で城も国も傾けるが傾城。
※傾城(ケイセイ)は遊女の異名
女郎は色恋を演じて狐の如く客を化かす。
狐と遊女にはそんなイメージのつながりも
もしかしたらあったのかもしれない。

そんなわけで花街をぐるりと囲んだ5つの稲荷社が、
明治に入って1つに集められ大門付近に合祀された。
そして吉原に隣接していた弁財天も同居することになり、
これが現在の吉原神社のモトとなったのである。
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↑拝殿の提灯には、ちゃんとすべての稲荷社・辨天様の名前が。

*お穴様*

さて、その拝殿の向かって右に
末社のような小さな社がある。
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説明書きを見ると「お穴様」と書かれていて、
なんでもカミサマは社の中ではなく
なんと地中にいらっしゃるのだとか。
祭神が何かなどは詳しく書かれていなかったのだが、
なんだか気になる神様である。

ちなみに 上野・穴稲荷も別名:お穴様と呼ばれているが
この吉原神社のお穴様との関連はハッキリしない。
ただ、その「御穴」という名称から穴稲荷は
性病予防の神として非常に信仰されていた!
と聞いたことがある。
だとすれば、こちら千束のお穴様も名称からして
同様の御利益が期待されたと考えても良いのだろうか?
(もしくは、上野から吉原へ御招きしたとか…)

御穴様のそばには天燈鬼・龍燈鬼↓。
この2人のファンとしては、
木造の精巧な像とはまた違う様子も可愛らしい。
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*弁天堂本宮*
さて、吉原神社から歩いて数分の場所に
現在吉原神社に分祀された弁天様の本宮がある。
管理人は個人的にはコチラの方が好き。

まず、ココが昔どういう場所だったかと言うと
吉原に接する「花園池」という池であったそうだ。
そして、その池に浮かぶ島に弁天堂があったという。

花園池の弁天堂なんて、花街らしいなぁ
と思うが、花街が花園なのは「男性にとって」である。

飢饉の絶えない雪深い田舎から買われてきたら
毎日綺麗な服を着て満足な食事なんて夢のようだろうが、
一方で年季が明けるまでは 辛くとも病になろうとも
身分のある人に見初められ請け出される他は、
死ななければ大門から出ることはできなかった。
そして、年季を待たずして亡くなれば無縁仏として
死体遺棄の如く寺に放り込まれたと言われている。

病気をもらいませんように。
客が付いてくれますように。
今日のお座敷も無事過ごせますように。

先に紹介した五稲荷をはじめ弁天様・お穴様にも
吉原の女性たちはどれほど願ったことだろうか。

そんな身の上を苦にした遊女たちの放火も度々あり、
また敷地内での火事が延焼することもあり、
この吉原では おおよそ20年に一度ほどの頻度で
「大火」と言うにふさわしい大火事が起きた。

その中でも最も大きな被害をもたらしたのは
関東大震災による火災ではないかと言われ、
本宮の境内中央には遊女の慰霊のため観音像↓が作られた。
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境内に入ってすぐ、敷地の真ん中に高い岩があり
周りは花や石仏で囲まれている。
そしてその岩の上に観音像が衣を靡かせ立っている。
写真を撮るとちょうど木々の間から光が差して
まるで観音様から後光が差しているようである!

境内にはいくつかの新聞記事や写真が張ってあるので
是非訪れた際には見て読んでいただきたいのだが、
コチラ↓が関東大震災による火災の様子である。
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黒煙と炎の中で 逃げ惑う女性たちが描かれている。
この時、ここまでの大きな火災にもかかわらず
吉原では商品である遊女たちが逃げ出さないようにと
大門を閉めて閉じ込めたとも言われている。

そして、逃げ場を失いながらもどうにか助かろうと
池に飛び込んだ遊女たちは折り重なり
溺死した者もいれば圧死した者もいたのだそうだ。

当時どれくらいの規模の池で
吉原にはどれほどの女性がいたか分からないが
境内の写真を見る限りでは最早
池に水など溜まる余地もないほど人が折り重なっている。

逃げ場を失ったのは門が閉まったせいであり
つまりそれは火災ではなく人災ではないか…というところだが
こんな吉原未曽有の大災害であってもその死者の数は、
年季を待たずに亡くなり寺に投げ込まれた遊女の数には
遠く及ばないというのだから悲しい話だ。

現在は弁天堂を囲むほどの池は無く、
小さな池で所狭しと鯉が泳いでいる。
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新しくなった弁天堂に鮮やかな壁画を描いたのは
美大の学生さんやOBさんだという話だ。
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中を覗くと、中央には見慣れた姿の小さな弁天様。
江ノ島に祀られている「妙音弁財天」と同様、
一切の衣をお召しになっていないようだ。
そして、奥にどっしりと構えるのは八臂弁財天だろうか。
手の本数はよく見えないが、六臂は珍しいので八臂か…?
頭の上には宇賀神(ウガジン)も居るようだ。
じいさん顔の蛇で、微妙に気持ち悪いカミサマだったりする。
(ココのは髪を二つに結っているので女性かもしれない)
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吉原神社の方は「神社」なので合祀された弁天様も
「祭神:イチキシマヒメ」とされてしまっているが。
コチラの本宮では「宮」とはいうモノの
本来の仏教的なお姿を見ることができる。

水商売というのも、
昔よりは自由な働き方ができるようになっただろうが
昔と最も変わらない仕事かもしれないとよく思う。
知人がそういう世界で生きているので、
なんとなく管理人としては 
他人事とは思えないと言ったらおかしいが。
そんな感覚がある。

まぁ浅草という土地柄、
歌舞伎町のように夜のおねぇさんは多くないが
無念の遊女を弔うにとどまらず
現代のおねぇさんたちもお守りください。
と手を合わせる管理人だったとさ。

ちなみに、
この吉原神社の近所に浄閑寺という寺院がある。
近所と言っても少し歩くが、
そこが吉原の「投げ込み寺」であり今も慰霊塔がある。
時間と興味がある方は、
是非そちらにも寄ってみていただきたい。

岩櫃山のおひざもと。

まだ和歌山で行った速玉神社の記事を書いていないが、
先週末は地元で ぶらり鉄道の旅。
吾妻のほうまで行ってみた。
今回の神社は駅から近いので気軽でオススメ。
(前日は炎天下9~10km歩いて、疲弊した)

吾妻線郷原駅で下車。岩櫃山の麓である。
岩櫃(いわびつ)、と聞くと
あの「真田丸」のカッコイイ音楽が思い出されますね!
(*'ω'*)ソウデスネ!
しかし、先日東京の友人に訊いたら
なぜか上田城とセットで「長野」と記憶されていて
管理人はちょっとショックを受けた。

有名=「群馬じゃないだろう」
って発想やめてよ!岩櫃は群馬よ!
(ノД`)・゜・。

*密岩神社*

さて、余談は良いとして
今回来てみたのはコチラ「密岩神社」。
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御覧の通り、非常に新しく小さめな神社である。
しかし、切り立った岩櫃山を背にすると
ちょっと印象が違ってくるだろうか。
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実は、今回訪れた密岩神社は「里宮」。
御参りしやすいように人里に作られた御宮である。

奥宮は、ご想像いただけると思うが
あの背面にそびえる岩櫃山の山中にある。
「昭和の末より落石が増え立ち入りが困難になった」
とのことで、管理人が生まれたころにはもう
奥宮への参拝は できなかったのかもしれない。

そして、平成25年にようやく
里宮への遷座式を行うことができたのだそうだ。
しかし、いろいろな方のブログを読んでみると
「今はもう遠くから様子を窺えるのみ」
というようなことが書いてあるので、
遠目に見ることはできるのだろう。
「誰がどうやって建てたのか」
という場所に建っているらしいので是非見たい!
(*'ω'*)

さて 神社の謂れを読むと、
岩櫃城主・吾妻太郎齋藤基国(もとくに)は
永禄6年、武田方・真田幸隆に攻められ妻子と離散。
当時第三子を身籠っていた妻は
城から逃れ岩櫃山の洞窟で子供を産んだのだそうだ。
そして その子を里人に託し、自らは夫探しの旅に出た。
しかし夫は一向に見つからず。

結局彼女は精根尽き果て岩櫃に帰り着いたが、
山中の洞窟で息を引き取ったのだそうだ。
すると一筋の煙とともに観音様が現れ、
また彼女の亡骸もろとも消えていったという。
そんな彼女を哀れんだ里人が彼女の霊を
「密岩権現」として手厚く祀ったのが密岩神社だ。
ということである。
神社だけれど観音様がかかわってくるあたり、
仏教圏っぽさ、山っぽさ感じるなぁ。

さて、中を覗いて見ると銅板葺きの屋根がまばゆい!
そして、赤い「てるてる坊主」のようなものがある。
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説明を見ると「ほうずき」と呼ばれるそうで、
真綿を赤い布で包み、乳首を模しているという。

以前、遠野の記事河童と妙見様と。 - とまのす
似たようなものについて書いたことがある。
そちらは紅白の布で作る饅頭もとい乳房的な形で、
中には米を入れるのだったような気がする。
多少の差はあれど効果は同じく
奉納すれば「乳の出がよくなる」といわれている。

今となっては
母乳が出なくても、いろんな便利製品がある。
別に「真田丸で有名な岩櫃山ですよ」
という雑な売り出しだけでも観光客は来る。
むしろ「ほうずき」に興味を持ってくれる人は
一体どれくらいいるというのか。
社殿の中を覗かず六文銭の旗と山を背景に
この小さな神社の写真を撮って帰る人も多いだろう。

そんな時代に、
よくぞこの信仰を里宮に引き継いでくれた!
そしてよくぞ神社の案内板で
「ほうずき」について言及してくれた!
(*´ω`*)ホウビヲトラス!(←何様)

昔の人にとって何が死活問題だったのか。
どんな願いを持っていたのか。
その形跡を守り 誰もが見られる場所に安置し、
「何だろうアレ」で終わらぬよう説明まで書いてある。
なんだかありがたいなぁと思った管理人だったとさ。

ちなみに、この辺は超自然が豊かで
次の神社に向かう道すがら
管理人はデカいハチの巣↓を見つけてしまった。
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蜂に刺されたことがある人間としては
身が引き締まる思い(?)である。

郷原名神社*

密石神社の謂れが少々独特であり
また貴重な民間信仰の形跡が残っているとはいえ、
社殿自体が新しく小さいのは事実である。
渋くて鄙びた神社が好みの方は、
舘ひろしが好きなのにジャニーズにしか会えなかった
みたいな気分になるだろう。

そんな方は、徒歩十数分なので
こちらの榛名神社↓も是非行ってほしい。
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天気が良すぎてよく写っていない…
(天気が良すぎて液晶も全然見えてなかった)

注連縄↓は、ほぼ鳥居の真ん中。
ずいぶん低い位置にある。
頭を下げて 敬って入りなさいということか。
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階段を昇っていくと、
予想よりも広い境内が広がっていた。
正面に榛名神社拝殿↓。左に社務所(かな?)。右には神楽殿。
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重厚な屋根に渋い壁。
拝殿の後ろは鬱蒼とした森のようになっている。
さらに、近寄ってみると彫刻がステキ!細かい!
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龍や獅子も凄みのある顔で、
拝殿に近づく者を睨み 祭神を守護している感じがする。
管理人は単なる飾りのようにまっすぐ前を向いているのより
こうして↓首を曲げてしっかり参拝者を見ている彫刻が好きだ。
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名神社の横には御堂がある。
入母屋造りだし、コレも神社か?
と一瞬思ったが、瓦に卍が描かれている。
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手前には木の柱↓のようなものが立っていて、
「寅薬師瑠璃光如来開帳供養碑」と書かれているようだ。
寅薬師ってなんだ?新種の如来
と思って調べてみると、ここの場合の意味は分からないが
寅の日・寅の刻に彫り終えたので寅薬師!
と呼ばれる仏像があったり、
単に虎の日に薬師様にお参りすることも寅薬師と言うそうだ。
(本当に仏教音痴ですいません)
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皆さんご存知・阿弥陀如来さんが
西方にある「極楽浄土」担当なのに対し、
薬師如来は東方にある「瑠璃光浄土」の担当者である。
極楽浄土はよく聞くけど、瑠璃光浄土ってなに?
というと、極楽浄土が「未来」なのに対して
瑠璃光浄土は「現在」であるとされる。

つまり、如来の中では珍しく
現世での苦しみを救ってくれるのである!
なので、薬師如来は言わずもがな庶民に大人気。

ちなみになぜ瑠璃光浄土・瑠璃光如来というかというと、
「瑠璃色の光をもって衆生を病苦より救う」
と言われているためだ。
瑠璃色とは、ラピスラズリの色。
ちなみに、薬師如来は肌の色も青だと言われている。

「病苦を退け現世を救う、チーム如来の救急担当!
 瑠璃色ドクター・薬師です☆」

…どうして私の頭の中の仏様たちは
自己紹介が今時のアイドルっぽいんだろう…
(´・ω・`)

さて、薬師如来に関してはこれくらいにして
御堂を見てみる。小さなのぞき窓(?)である。
扉両わきには可愛らしい色合いのお飾り。
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そして、中は暗くてよく見えないが
照らしてみると厨子のようなものがあったり。
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そして、この写真ではうまく映っていないが
横の壁に懸っている額。(写真ではほぼ影になってしまった)
ココには、竹藪を歩く虎が描かれていた。
やはり寅薬師だけあって、虎とは縁が深いのか。

如来さんたちについて*

ちなみに、以前の記事では
大日・阿閦・阿弥陀・宝生の4人を
「ニョライジャー・フォー」として紹介している。

金剛界五仏といえば、これに不空成就を合わせた5人だし、
知名度高い如来ベストスリーと言ったら
釈迦・阿弥陀と来て3番目は大日か薬師かというところか。

しかし高野山で焼失した仏像が阿閦だったか薬師だったか?
みたいな話からこの2仏が同一視されたり…。

いやはや如来のユニット事情も複雑ですな。

*石仏がいっぱい*

さて、
この地を見守る岩櫃山と、隣に居並ぶ観音山。
これらの山はともに修験道が盛んだったと言われている。
石仏の種類が豊富だったりするのはそんな文化のおかげなのか?
それとも、保存状態がいいというだけで
昔はどこの地域も御堂の周りはこうだったのだろうか。
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御堂の回りには石仏や石塔がずらり。
この石仏以外にも境内には双体道祖神もいくつかあり
石仏好きには楽しいハズである。

コチラを向いている石仏を見てみると、
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一番奥は立像で錫杖を持っているが
地蔵菩薩のように坊主頭ではないようだ。
…ということは十一面観音なのか?
でも頭の上に顔無いように見えるんだけど。
(錫杖を持っている仏さまが他に思いつかない)

その隣は頭が無くなってしまっているが坐像のようだ。

そしてその隣はリボンのような髪飾りで髪を結っ…
違う、なんか動物の頭↓乗ってる!?
目と口があるように見えるのは私だけか?
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馬か?でも馬頭観音ならもっと持物も多いし
正面で合わせた手は馬口(まこう)印では?
でもほかに動物の頭乗ってる仏像あったっけ…

そしてその隣は奪衣婆か姥神。
一番手前に立っているのが地蔵菩薩だろう。

一方、向かって右側は手前が地蔵菩薩
しかし次の厳しい顔の僧侶みたいのは…?
しかも、中学生くらいのリアルサイズで妙な存在感。
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石仏って、大体詳しい解説とかはどこにもなくて
知識があるか、その地域の信仰に詳しいか
石仏マニアで経験豊富でなければ正体もわからない。

でもそこが楽しい。分からなくても楽しい。
なんか、立派な金属や木造の仏像とかよりすごく
生活の場に近い気がして。
(まぁ、分かればもっと楽しいことに違いはないのだが)
たまに、何だこのビジュアル、みたいのもあって。

たとえば長野の布引観音の奪衣婆とか、
同行者曰く「漫☆画太郎」の絵みたいだったし。

ああ、長野の石仏と言えば
長野県千曲市の霊諍山いきたいなぁ。
明らかにかわいくない猫神様見てきたい。

ああ、長野の猫神様と言えば
もりわじん作の「猫薬師」様も見たいんだった。
伊那だったっけ…長野の引力底知れないなぁ。

最初に 有名=群馬じゃない みたいな発想やめてよ
って言ってみたけど
これが、信越と北関東の差…?
(まさかの地元ディスりで終わるな(;゚Д゚)!)

辰砂と熊とニシキトベ。

前回の記事で
主人公的なカムヤマトイワレビコと敵対し
日本書紀ではたった一言
「誅された(悪いやつなので討たれた)」
と、登場した瞬間に退場したような地元勢力がいた。
という話をした。

今回は、その関連神社などに行ったわけではなく
単なる妄想記録に留まるので…
まぁなんとか短めに終えようと思います。
(有言不実行フラグ)

皇軍の東征*
まずは、
このカムヤマトイワレビコ
なぜどんなふうに熊野の地まで来たのか?
というのを少しご紹介。


さて、最初にイワレビコがいたのは
九州の「高千穂」というところである。
今も神楽などが観光資源となっている、
神話の里らしい場所であるわけだ。

が、しかし、日本を治めようとするには
いささか端っこ過ぎたということだろうか。
塩土老翁シオツチノオジ)という
海流や塩作りに長けた おじいちゃん神様から
「大和っちゅうイイ場所があるぞ。先客の天津神がおるが」
という助言を受け、イワレビコは兄のイツセとともに
「大和を俺らのものにしてソコ本拠地にしよー!」
ということで東へ攻めていくことにした。

大和というのは今でゆう奈良あたり。
どうやって行くのかというと、
瀬戸内海を航行していく。

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分かりやすいように適当にラインを引いてみたが、
実際は瀬戸内海に面する色々な土地に立ちより
各地で歓迎を受けたりちょっと長居しつつ舟を進めた。
なので「こんな航路じゃないはずだぞ!」
というツッコミはナシでお願いします。すいません。

さて、そうこうして海を渡り終えた兄弟とその軍は
淀川をさかのぼる形で上陸することにした。
しかし、ちょっと遡上したあたりで
生駒の地元勢力ナガスネヒコ軍に迎え撃たれる。
そして、イワレビコの兄・イツセは
この戦いで敵軍の矢に当たり重傷を負ってしまう。

このナガスネヒコ
別に一匹狼の荒くれヤンキーではない。
ニギハヤヒという、
古事記にも日本書紀にも登場するカミサマに仕えていた。
シオツチおじいちゃんが「先客」と言っていたカミサマだ。
このニギハヤヒは、アメノホアカリと同一視されて
アマテラスの子孫だという説もあるカミサマ。
天磐舟(あまの-いわふね)に乗ってやってきたのだ。

…しかし、
この2人に深入りすると話題が完全にズレるので、
とりあえずスルーして東征の話に戻りましょう。
(´・ω・`)ソウシマショウ

さて、重傷を負ったイツセは
「俺らアマテラスの子孫なのに
 太陽に向かって戦ったのが悪かったかなぁ」
と考えて、
まさに今回管理人が乗った「くろしお号」の如く
紀伊半島をぐるっと迂回して大和を攻めることにした。

しかし、和歌山に入り
紀の川を渡るあたりでイツセは傷がもとで死亡。
さらに、そこからいくらも離れないうちに
イワレビコ軍は地元勢力・ナクサトベ軍と相見える

ココで少し「ナクサトベ」という名前に注目。
諏訪大社に祀られる
タケミナカタの妻・ヤサカトメは
諏訪の土地を治めた酋長。
アマテラスの岩戸隠れで
八咫鏡を作ったイシコリドメ
技術者集団のリーダーではないか?
と言われているカミサマであるが、
その2人の「トメ」とは女性リーダーのこと。
ならば、ナクサ「トベ」も女性と考えるのが自然だろう。

このナクサトベも、
日本書紀では簡単に殺されてしまう。
そして、カムヤマトイワレビコは彼女の亡骸を
頭・胴・脚の3つに分けて埋めたと言われている。
この3ヶ所の墓は今でも神社として残っているので、
次回和歌山へ行くときにはぜひ訪ねてみたい。

さて、日本書紀にはそんな記述が残る一方で

実は彼女とその軍が獅子奮迅したからこそ
イワレビコはさらに迂回せざるを得なくなったのでは?
つまりナクサトベは戦死したものの
軍としては負けなかったのでは?

と、日本書紀とは違った角度から彼女を見つめた
コチラ↓の本も、是非お手に取っていただきたい。

なんとあの最後の軍人・小野田寛郎さんもかかわった本だ。

名草戸畔 古代紀国の女王伝説〜増補改訂版〜

名草戸畔 古代紀国の女王伝説〜増補改訂版〜

 

 さあ、オモチロそうな本だが話を日本書紀に戻しますよー。
(/・ω・)/ハイハイ~モドロウネ~
さきのイワレビコは交戦の後、さらに先へ軍を進める。
すると紀伊半島の先端辺りで
また新たな女性酋長の軍が立ちはだかる。
彼女の名は「ニシキトベ」という。

*ニシキトベの「ニ」*
日本書紀では一言で「誅され」てしまうので
情報はかなり少ないのだが
地名やその名前などからちょっと妄想してみたい。

まず、先程のナクサトベと同じく
女性酋長であろうと思われる名前である。
(異説:トメ・トミ・ナガは蛇の意ともいうが)
ではニシキとは?やはり地名なのか?

色々な表記はあるようだが、
もっとも使われている「丹敷戸畔」を見ると
自然と「丹」という字に目が行く。
丹とは、深紅色の鉱石・辰砂(シンシャ)のこと。
水銀や、古来は漢方薬や顔料の材料でもあった。
高野山の丹生都比売(ニウツヒメ)神社など、
和歌山というのは「丹」の付く神社や地名が多く
産出地であった形跡と考える学者さんも多いそうだ。

なんの考察もなく一気に吹っ飛ぶが、
ニシキトベというのは個人の名前でなく
・丹(辰砂)を産出する土地
・辰砂を採掘する集団
の酋長のこと!というのは早計だろうか。

丹が産出された高野山三重県多気町より
ちょっと南過ぎるのが気になるトコロだが…。

*蜘蛛なのか熊なのか*
さて、これを読んでくれている方は、
神社や神話や歴史とか…
そういうモノが比較的好きな方だと思う。

なので土蜘蛛というのもご存知かもしれないが、
土蜘蛛とは天皇勢力に抗った土豪のこととされる。
(妖怪にも土蜘蛛というのはいるが、それは後発品)

奈良・一言主神社には土蜘蛛塚があることで有名だが、
これも神武天皇(つまり、イワレビコである)が
殺した土蜘蛛たちの怨念がよみがえることを恐れ
頭・胴・脚に分けて埋めた跡だという話だ。

場所的には、葛城山なので
まずイワレビコを迎え撃ったナガスネヒコの本拠地
生駒からそう遠くない山である(徒歩8時間程度はあるが)。

そして、埋められ方はナクサトベそっくりである。
古来 墓石は死者が蘇らないための重しだった説もあるが、
土蜘蛛の首長と交戦するたび3分割して埋めるとは。
イワレビコがいかに土蜘蛛を恐れていたか伝わってくる。
※ナクサトベの墓所は別にあるので、
 一言主神社に埋まっているのは彼女ではないと思われる。
 地理的にはナガスネヒコの本拠地に近いが、
 神話の中では一応 ナガスネヒコは戦死はしていない。
 ニギハヤヒイワレビコ服従するつもりなのに、
 仕えている彼が服従しようとしなかったので
 主君・ニギハヤヒの刃にかかって死んだのである。
 わざわざニギハヤヒが殺したナガスネヒコ

 イワレビコが3分割して埋めるだろうかと考えると、
 土蜘蛛塚に葬られたのは名の残っていない他の土蜘蛛か。

まぁ考えてもわからないことだらけだが、
もうひとつ土蜘蛛の語源というのもイマイチ不明だ。
今でも地面に穴を掘り指サック状の巣を作る
「地蜘蛛(ジグモ)」というクモは存在するが、
調べてみる限り土蜘蛛というのはクモの種類でなく
人間にしか使われない呼称のようだ。

以前の高幡不動尊の記事の中で、
高野山空海に触れたことがあった。
その時に
坑道で採掘し穴蔵に住まう様子から「土蜘蛛」と。
そうよばれているのでは?という話をしたのだが。

今回調べていたら、
騎馬民族は来なかった」の佐原眞先生が
「つちぐも」は土隠り(つちごもり)を語源とする
という説を出していたりもした。
なんだかそっちの方が納得できる気もする。
(佐原先生ファンだからか?)
蜘蛛という言葉と穴蔵というイメージは
自分の中ではあまりしっくりこなかった。
そうか、隠る(こもる)かぁ。

あとは「熊野=隈野」だった と聞いたことがある。
つまり、権力の届く範囲の「キワ」の土地という意味。
同じように考えると「土」にはそのままの意味だけでなく、
「人の住む(住める)土地」という意味もある。
もし土蜘蛛が「土隈(つちくま)」の転訛だとしたら、
人が(政府の決めた規律の中で)住む土地のフチ。
つまり政府の力が届く臨界点に居てまつろわぬ民が
土蜘蛛だったのではないか…なんて妄想したり。

あとは、「くま」と言えば古事記では
イワレビコが地元勢力に出会ったらしき場面は
「近くの草藪を熊が現れたり消えたりする」
という書き方をされている。
もしや土地の神かと殺すと、その悪神の吐く毒気で
兵は気を失いイワレビコまでも意識を失った。
(そしてそこにタカクラジが剣を持ってくる)

この記述に関しても、
「熊をトーテムとする先住民だったのでは」とか、
辰砂から水銀を作る際に出る有害成分を含んだ蒸気を
敵軍に「浴びせる」という戦法を駆使していたのでは。
とかいろいろな説があるようだ。
ただ、水銀を錬成する際に出るガスの有害性を考えると
皇軍の「一度寝てしまうが目を覚ます」という効果は
何か疑問が残る。

どちらかというと、
丹(辰砂)自体にある「鎮静・催眠効果」のほうが
しっくりくると感じるのは管理人だけか。
ちなみにWikipedia先生に訊いてみると、
体内で溶け出さない形態である辰砂の粉末のほうが
気体や液体の状態より体への影響は少ないのだそうで。
丹を飲んでいるなんて中世の話かと思ったら、
現在でも中国では漢方として利用されているのだとか…。

まぁしかし妄想の域を出ないので
このあたりでやめておきましょうかね(笑)

*蛇足*
今回熊野に関して考えたのはこれくらいだけれど、
和歌山を歩いて気になることが出て来た。

今回、ヤマトイワレビコ神武天皇)に先立って
大和に天降っていたニギハヤヒノミコト
彼は書物によっては名前が非常に長く、
アマテルクニテル・アメノホアカリ・クシタマニギハヤヒ
という。別名を3つ並べたのでなく、これで1つだ。
天を照らし、国を照らす神。穂が明らむ(熟す)神。
なんとなく太陽信仰や農業神のにおいがする。
名前が共通するアマテラスや、
「ホツマツタエ」のアマテルとの関連も気になる。

そして、彼はナガスネヒコを従えているわけなのだが。
この、ナガスネというのは「足が長い」という意味だ。
(土蜘蛛の別名・八束脛(ヤツカハギ)も同様)
この名前が、テナガ・アシナガの「足長」を連想させる。
気がする。

手長足長は長野に多くの伝説が残り、
タケミナカタの家臣としてやってきたという話もあれば、
諏訪大社タケミナカタ服従した土着神ともされる。

しかし、もしナガスネヒコと足長が関係あるなら
足長はいつから諏訪に居たのだろう?

足長神社の祭神は、現在はアシナヅチ
「足無椎」とかいて、蛇形の神ではとも言われている。
そのアシナヅチだとすれば出雲のカミサマということになる。
九州から出雲を通り東へと逃げたタケミナカタ
出雲を通った際に付き従いやってきたというのが自然だろうか?

また、ニシキトベの話で異説として書いたが
トメ・トベ・トミ・ナガ・ナが蛇を表すとしたら、
「ナガ」スネヒコ・ナクサ「トベ」・ニシキ「トベ」は
蛇の形をした神またはそれを祖先とした氏族
ということになるのだろうか。
だとしたら、龍・大蛇の姿と言われるタケミナカタ
彼の兄であり、同じく蛇神とされるコトシロヌシ
その妻・ヤサカ「トメ」、そして
手長足長神社の祭神で夫婦とされるテナヅチアシナヅチ
同じ部族ということになったりするのだろうか。

そしてまた、ナガスネヒコニギハヤヒ(アマテルクニテル)
に仕えるが最終的に彼に殺され
ナクサトベ・ニシキトベはイワレビコに誅され
タケミナカタコトシロヌシは父・オオクニヌシもろとも
アマテラスの遣わせたタケミカヅチに降伏し国を譲った。
ことごとく、太陽に縁のあるカミサマにやられている。

その辺の関係が、もうちょっと整理したいなー
やっぱり民族間の闘争で
蛇を祖先(orトーテム)にする狩猟民族が
太陽を信仰する農耕民族に負けていった歴史を表しているの?

あぁ~。もっと勉強しないと何にもわからない!
(ノД`)・゜・。大反省!

 

*関連神社*

今回は、神社の話が少なかったので

自分用メモも兼ねて和歌山の関連神社。

☆ナクサトベの墓所

・頭:宇賀部神社(おこべさん)

・胴:杉尾神社(おはらさま)

・脚:千種神社(あしがみさま)

☆ニシキトベ関連

・墓:和歌山県串本町二色に石塔があるらしい

・神社:熊野三所大神社 摂社

 

神倉神社のゴトビキ岩。

*神倉神社と石たち*
前の記事に書いたが、クジラの町・太地には
あまり安く泊まれる普通のビジネスホテルがない。
なので、数駅離れた新宮で宿泊したわけだ。

最初は太地だけが目的地だったので
今回は熊野系には手を出すまいと思っていた。
(ゆっくり見るにはGWでは足りない気がした)

しかし、いつもはネットカフェに泊まっている管理人。
ビジネスホテルとはいえちゃんとしたベッドに寝たら
リラックスし過ぎて寝過ごしたわけですよ(笑)
大した寝坊ではないけれど、5時に起きるつもりが6時。

乗ろうと思った電車には間に合わず、
紀伊本線は本数が少ないので結構時間ができた。
そこで、出来心で行っちゃったんですね~。
神倉神社↓
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下調べ全くナシなので
「あれぇ、あんな山の中に鳥居みたいな色が見えるよ!」
※管理人はすこし視力が悪い
みたいな軽い気持ちで、神倉神社だとは思わずに…(オイ
まぁとりあえず吸い寄せられちゃったんです。鳥居見えたんで(笑)
こんな近くまで来て、神倉神社と気付かずに
電車まで時間があるから行ってみようなんてノリで…
もはや無茶をとおりこして無知!(ノД`)・゜・。
神社のブログを書いている人間とは思えない!
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遠くからは緑に埋もれた拝殿しか見えなかったが、
御膝元までくると立派な橋が現れた。
橋をわたると正面に
サルタヒコさんと三宝荒神さんの社がある。
三宝荒神さんについては「台所の三宝荒神さま。」に書いたので
細々したことについては省略。
特徴としては 明王様のような憤怒相で穢れを厭離し、
”仏法僧”=三宝を守る、荒々しいカミサマ=荒神
なぜサルタヒコさんと一緒に居るのかは調査中。

さて、それを横目に左折すると 立派な鳥居と
源頼朝が寄進したという石段がそびえ立つ。
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階段が「そびえ立つ」というのも おかしな表現だとは思うが
まさにそんな感じなのである。
あとで調べたら、階段は全部で538段あるらしい。
のぼれども、のぼれども、目前には段があるばかり。
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長野・布引観音の経験から
階段下にあった木の杖を迷いなく手に取ったが
やはりそうして正解だった…(´・ω・`)

そして、やっと到着。
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朝早くから、観光している家族連れが2組いた。
しかし、管理人がゆっくり見ていると
家族連れは写真を撮ったりしてアッサリ去って行った。
こんなに気持ちがいい場所なのになぁ。

人の声がしない。風が吹いている。

ここの風に当たっていると
風が体に入ってきて渦を巻くような感じだ!
(/・ω・)/ウォオオオ!
…あ。管理人はオーラが見える人とかじゃないので、
単純に朝の澄んだ空気でテンションあがったダケっす。
騒いですいませんね。

でもなんというか、
神社とか神様のいる場所というのは
「なんかココ気持ちいいわ~」
「いいところだしカミサマにはここに住んで戴くべ」
みたいな感じで決まることも多いのではと思う。

もしくは、スサノヲのように神様自らが
「やべぇ、超すがすがしい!新居ココにするわ!」
という場合もあったりね。
※スサノヲとクシナダの新居・須賀神社の話。
 (正確には清々しかったのは気候でなく彼のキモチである)

勿論、危険や苦しみのある土地だからこそ
救いを求めてカミサマが作り出された!
というパターンもあるけれども…。

さておき、こちらが名物(?)
神倉神社の「ゴトビキ岩」である。
ゴトビキとは新宮の方言でヒキガエルのことだそうな。

あまり目立たないようにとっているが、
ゴトビキ岩のすぐ下でヨガだか座禅を組んでる
旅人っぽいお兄さんがいた。
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神倉神社の祭神は
アマテラスとタカクラジ(高倉下と書く)ではあるが、
このゴトビキ岩が「御神体」とされている。
そして、実際この岩の 周辺からは経塚の形跡や
さらに昔の銅鐸なども見つかっているのだそうだ。

なので、おそらくこの場所は
神社という人工的な形になる以前から
岩に対する信仰が盛んだったのだろう。
「神倉」は「高倉下」と関連して「倉」なのか?
と一瞬思ったが、
イワクラ(磐座)という言葉のことを考えると
カミクラ=神座 つまりカミサマのいるところ
というのがモトの意味なのかもなぁ…。

とも思った。
ちなみに磐座というのも
信仰対象となる石や岩のこと。
つまりカミサマだったり、そのいる場所。

 

*熊野・信仰レイヤー*

レイヤーってコスプレイヤーじゃなくて
あの写真加工ソフトとかで重ねていくヤツね。
下書きレイヤーとか、線画レイヤーとか。
(熊野信仰コスプレイヤー、ある意味気になるが)

この神倉神社とか
それに関する神様がイマイチつかめないのって、
おそらく熊野が聖地すぎて神道にも仏教にも
それどころかもっと原始的な宗教でまでも特別視されて
その結果、レイヤー重なり過ぎたせいだと感じるのだ。

いろんな口伝や書物とか、別のレイヤー上にあるものが
あれもこれも同一視されたりこじつけられた結果
「レイヤーがすべて統合」された状態かな。
と、管理人は思った。
…某ア〇ビのフォト〇ョuserでない方、
イメージ湧きませんよね…すいませんねホント。

どんな伝説や歴史にも
「実はこうだった説」とか
「地元ではこんな伝説も」的なのはある。
だが、熊野の場合どれもこれも大御所(?)過ぎて
どれが大モトだか見えづらい!
自分で調べていてそう思った。

たとえば、
神倉神社でいえば
原始信仰レイヤーでは信仰対象は岩。
しかし神道レイヤーではアマテラスとタカクラジ。

そして日本書紀レイヤーで
カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇である)
が登ったのが天磐盾という山であるが、
いつの間にかこれが
天磐盾=神倉山であるという話になっていた。

さらに、
日本書紀レイヤーでは東征の経路の一部
というだけだった天磐盾が
「それってリアルでいう神倉山よ」
ということになってしまったがために

熊野権現が最初に降臨した地=神倉山」
という熊野権現レイヤーが重なったとき
天磐盾=熊野信仰の聖地!
ということになったわけだ。

そのうえ、当の熊野権現
「本宮」「速玉大社」「那智大社
3柱の神を合わせて熊野権現と呼ぶよ!とか
本宮に居るケツミコ=阿弥陀如来
速玉大社のハヤタマオ=薬師如来
那智大社のフスビ=千手観音
それぞれの神様に対応する仏様がいるよ!とか
それ以前に那智大社って元々は
修験道の修行をする場所だったから
「3社」の仲間じゃなかったよ!
とかいろいろなことを言い始めるので
それは もう大混乱である。

やはり、
そのうち那智には行きたいが
さすがにその時はよく勉強していかねば…
と思う管理人でしたとさ。



*タカクラジって誰だ*

レイヤーはまぁいいけど、
それ以前にアマテラスと一緒にいるの誰よ?
という方もいらっしゃるはずだ。

タカクラジノミコト
というとカミサマっぽいのだが、
彼じつは一般男性(?)である。
日本書紀に登場するのだから
何かしらの身分はあるのかもしれないが、
それにしてもカミサマではない。

では一体何をした人かというと、
熊野にやってきたものの
地元勢力にてこずって遂には気を失った
カムヤマトイワレビコに剣を持ってきた人物。

この剣、ただの剣ではない。
タケミカヅチ紀伊を平定した時に使用したもの。
つまりプレミア付きである。
ではどうしてそんなスゴイものを
人間であるタカクラジが持っていたのだろうか?

実は難航しているイワレビコを見て
アマテラスがタケミカヅチに言ったのだ。
「アンタか治めたあの辺、また騒がしいわよ」
「行って何とかしてしなさいよ」
それにこたえてタケミカヅチが言うことには
「俺が行くまでもねぇ。平定に使った剣でも落としとくわ」

そして、はたして
なぜかタケミカヅチは剣を落とす場所に
タカクラジのうちの倉庫を選んだのである。
タケミカヅチ
「お前んとこの倉庫に俺の剣落とすから、
 それイワレビコに持ってってやってくれよ」
といった夢を見たタカクラジは夢告の通りに動き
イワレビコの窮地を救ったわけである。

こう書くとイワレビコは主人公なので
冒険を繰り広げるヒーローのようだが、
地元からしたら攻めて来たヨソモノである。

某海賊王になる漫画で
「正義が勝つのではない、勝ったものが正義なのだ」
というようなセリフがあるのだが、
これもまさにそうだという気がする。

イワレビコが勝ち進んだので正義になっただけの話。
そのために日本書紀古事記では
地元民がよく分からない部族や動物のように描かれ
簡単に殺されたりしてしまう。
さらに、古くから信仰対象になっていた岩の横に
敵であるイワレビコの祖先であるアマテラスと
彼を助けたタカクラジが祀られている始末である。

気持ちのいい場所なのはサイコーだが、
たった一言「誅された(=悪人を討った)」
とゆう表現で登場するのみの地元勢力
実際どんな存在だったのだろう。
と風の中で考える管理人でしたとさ。

次回はちょっとそんなことも話をしたいなぁ
(*'ω'*)

太地にのこる 捕鯨の足跡。

*クジラの町*
先日の記事ではとりあえず
飛鳥神社と恵比須ノ宮だけに触れたわけだが。
今回はもう少し「人-神」の形跡でなく
「人-鯨」の足跡を辿る内容を書いていこうと思う。

そんな管理人をまず迎えてくれたのは
親子のクジラ像である。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194231j:image
今まで、大きなクジラ像と言えば
上野の東京科学博物館にあるやつしか見たことが無かった。
しかし、前回も書いたように管理人は海が怖いのだ。
少し坂の横を覗けばすぐ 港や 波立つ海があって、
丘にいても色々な方向から波音が聞こえてくる太地。
地面に立っていても大海の真ん中に立たされているような
空恐ろしい気分になるわけである。

海に慣れ親しんだ人は「こわがりすぎ」と笑うだろうが、
その恐怖の中でこの巨大な像と
あろうことか目が合ってしまったのである。
魚とは違う、こちらの心の中まで見えていそうな目である。

像ですらこの有様であるから、
幼少期に渡嘉敷島あたりを船で通ったとき
船からザトウクジラの尾が見えた時は何とも言えず
眩暈がするような気分だった。
(人様はお金まで払っても見たがる光景なのだが)

まぁ、もはやこうなると
すべてからクジラ圧力(?)を感じ
こんな平面に書かれた絵ですら
「トンネルに入ると周りをクジラに囲まれるのでは」
という謎の発想に至るようになる。(クジラ恐怖症か)
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*クジラを供養する*
そんな謎の恐怖症に震えていた管理人だが、
昨日の記事に書いた「てつめん餅」を食べて
少し元気を取り戻した。

そして、その亀八屋さんから少し歩くと
コチラの東明寺さん↓に到着。
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海に面した街の神社仏閣は高台にあることが多いが、
東明寺さんも道から幾分階段を上って本堂という立地。
津波が意識されているだろうという気はする。

階段を上がるとすぐ、
植込みの中に魚籃観音様らしき像があった。
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魚籃観音というのは、
魚の入ったカゴを持っているのが特徴で
魚売りの美しい娘の姿で漁村に現れた観音様だ。
日本では、千手観音や十一面観音に比べると
だいぶマイナーな観音様ではあるが…
こうした漁業の盛んな港町などでたまに見かけたり
刺青として背中に彫ってある人も見かける。

そして、こちら↓が
お目当ての「鯨供養碑」である。
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説明を読むと、
捕鯨に携わっていた浜八兵衛さんが建てたそうで
「鯨の殺生の罪が許されるよう皆で法華経を唱えた」
というようなことが書いてあるのだそうだ。

日本には色々な供養塔があるが、
このように文が書かれているとは限らない。
単に「〇〇供養」と書かれた石碑から、
人がどのような気持ちで建てたのかというのは
なかなか見えづらい。

なので「鯨の冥福を祈って」的な建前でなく
「自分たちの罪が許されるよう」という
本心に近い言葉が明記された この供養碑は貴重だ。
動物を殺さざるを得ない生業の人が感じた
「恐怖」「うしろめたさ」がよく表れた文だと思う。

*日本の供養・インドの供養*

突然だが、
管理人は「日本の信仰の特徴は?」と聞かれたら
なんとなくこの「供養」という概念が
その答えの1つではと思っている。

いつかの記事で もしかしたら書いたかもしれないが、
供養という言葉自体はサンスクリット語を意訳したものだ。
しかし、ヒンドゥー教での「供養(プージャー)」と
日本の「供養」というものは考え方が少し違うと思う。

そもそも対象からして「プージャー」は
神様や力を持った霊に向けられていることが多い。
そして、それは
神や霊に香や食物を「供え」て
その力を「養う」という意味合いが強い。

一方で日本の「供養」の対象は
亡くなった人、狩った動物、食べた魚介
使い古した道具にまで至る。
しかし神様がその対象になることは少ない。
それは、どこか大事に手を合わせ「弔う」と同時に
どこか「憐れむ」ような「償う」ような…
そしてその殺生を「許されたい」というような。
そんな気持ちが底の方に流れているからなのかもしれない。

*大背美流れ*

しかし うしろめたさ、とは書いたが
何も人が一方的に強い立場からクジラの命を奪って
自分たちは良い思いばかりをしていたというわけではない。
というのはこちらの碑の謂れからもわかる。
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こちらは「漂流人記念碑」。
記念碑というと、どうしても良いことのようだが…
コレは古式捕鯨で100人ほどの漁師が一度に犠牲になった
「背美流れ」を後世に伝えるため建てられた碑である。

日本で起きた海難事故の中でも最も大規模な部類
といわれるこの「背美流れ」は明治11年の年末のこと。
不漁続きで逼迫した状況だった太地で鯨発見が知らされた。
それは非常に大きい上に子連れのセミクジラだったという。
古くから太地では「親子の背美は夢にも見るな」と言われ、
通常であれば捕鯨の対象にすることはなかったはずだった。

しかし、もはやなんとしても鯨を獲らねば
村は年も越せないような状況だったということだろうか。
太地の鯨方は午後に漁へ出て、普段は獲らない母鯨を捕えた。
しかし、その時点で既に翌朝になっていた上に
西 つまり沖の方への風が強く、
いつにもまして大きな鯨をつないだ舟は沖へと流された。
そのうえ寒さの冴える年末のことである。

そこまでが今でいうクリスマス。12/25のこと。
船団の中には沖に米と水を届けてもらう必要があるため
一端村に戻って状況を報告したものが居たそうで、
この時点ではまだ漁が続けられる可能性があったようだ。

しかし、いよいよ26日ごろには村も大騒ぎになり始めた。
そして、沖では一度捉えた鯨を手放し
帰港を優先せざるを得ないという判断が成された。
泣く泣く鯨の綱を切り 舟同士を綱でくくって漕ぐが、
食料も尽き 体温も奪われ 体力も残り少ない状況。
一向に浜に近づくことはできず
ついには舟同士の綱も切って何艘かでも帰港を試みた。
しかし結局は風で運よく陸に打ち上げられた三艘程度が
マグロ船に助けられて生還したのみであった。

というのが「背美流れ」の大筋である。
この鯨方は全盛期1000人ほどで構成されていたとはいうが、
洋式捕鯨への転換期には構成員も多少減っていたはずだ。
そのうえ不漁で逼迫した最中100人もの働き手が亡くなる
というのは鯨方が壊滅状態になるには十分だっただろう。

しかし、それ以降も洋式捕鯨の導入などはありつつも
現在まで捕鯨の町として名を残している。

*燈明崎*
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さて、そんな漂流人記念碑を通り過ぎ
しばらく歩くと「燈明崎(とうみょうざき)」に着く。
先程の背美流れでも「鯨発見の知らせがあった」と書いたが、
古式捕鯨では高台から海を見張り、
鯨を見つけると狼煙を上げて海上の鯨方に知らせたそうだ。
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「燈明崎」の石碑の手前に
お地蔵さまと神道っぽいカミサマがいた。

「古式捕鯨支度部屋跡」↓は今はただの空き地。
高台の見張り場(山見)で働いた人たちが
休息や食事をとる場所が「支度部屋」である。
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そして、山見台の正面(?)には小さめの神様。
鳥居は大きめでしっかりしている。
地図などにはあまり社名は乗っていないが、
どうやら御崎神社というらしい。
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おおきくはないが、恵比須ノ宮と同じくらいだろうか。
放置されてボロくなっているという印象は無く、
お賽銭箱なども比較的最近新調してもらったようだ。
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位置関係としては、こんな感じ。
写真左側から歩いてきたわけだ。
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そして、これが山見台跡。
ここで夜明けくらいから海を見張り鯨を探していたわけか。
先程の案内図が無ければここが先端かと思ってしまうが、
この山見台の先に「燈明崎」の名前の所以たる燈明台がある。

その燈明台がこちら↓だ。役目としては「灯台」。
夜間に通る舟に場所を知らせるための灯りである。
現在は使用されておらず、
山見台も燈明台も資料を基に復元されたもの。
つかわれていたころは鯨油を燃料としていて、
一晩灯すのに3~4合は必要だったようだと書かれている。
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ちなみに、さきほど御崎神社の写真を見ていただくと
背景に石垣が写っているのが見える。
説明板によれば、これは燈明台を管理していた
新宮藩士の住居跡ではないかとのことだった。

海が怖いという割に、そこら辺に登るのは好きなので
この写真の後ろに写っている柵の二段目くらいに登って
海の写真を撮ってきた(/・ω・)/
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そして、いったん引き返して
もう一つの山見・梶取崎へ向かう。
燈明崎から梶取崎へは遊歩道でつながっているが、
燈明崎から引き返し遊歩道の方へ曲がる分かれ道に
コチラ金刀比羅神社↓がある。
注連縄ではなくロープっぽい綱がカワイイ(?)。
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拝殿は瓦葺き。壁や柱は簡素な感じがした。
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金毘羅(こんぴら)宮ではなく
金刀比羅(ことひら)神社という名前から、
ああ、ここにも神仏分離令の形跡が…。
と考えながら本殿を見に拝殿裏へ。
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…!?
覆殿?覆殿なの?
何この珍しい形状…。

この中の本殿がどんな感じなのか気になったが、
雨が降る中ガッツリした覆殿に囲まれて暗くて見えなかった。
この辺の神社はこんな感じなのか?と思ったが、
別に飛鳥神社はこういう感じじゃなかったよな…。

ちなみに燈明崎から梶取崎への遊歩道には、
数メートルおきにこのような↓
鯨図鑑のようなパネルが立っている。
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これは「背美流れ」の時に現れたセミクジラである。


文字が小さい上にはがれてしまっているのが残念だが
名前の由来や生態、見た目の特徴など細かく解説してあって
読んでいると なかなか楽しい。

雨の中、花も瑞々しく綺麗!
(雨女なので雨はあまり気にしていない)
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木の根元に、小さめのカニも見つけたが
写真を撮る前にどこかへ逃げてしまった…(´・ω・`)

さて、数十分歩くと梶取崎に到着。
東明寺さんのものほど古くはないが、
古式捕鯨船の上の鯨が乗ったデザインの鯨供養碑がある。
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ここには、先ほどの燈明台よりだいぶ近代的な灯台があるが
その最上部についているのは風見鶏ならぬ風見クジラ。
かわいいぞ!(*‘ω‘ *)
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この灯台の脇から、古式捕鯨に使われた「狼煙場跡」に行けるのだが…
先端へと歩いていくと、
先ほどの燈明崎よりも海に突き出ている形状なのか
両脇が波の音に囲まれているのにまだ先へと道が伸びている。
え?なに?怖いんですけど。どこまでつづいてんの?
こんな細いとこがそんな先まで伸びてて大丈夫なん?
と頑張ってはみたが…

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結局この↑狼煙場跡を写真に撮るや否や
逃げるように灯台まで走って戻った。
無理。海、無理。
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そして、もう海沿いは嫌なので
内陸を突っ切って「くじら博物館」へ向かう。

途中、抱壷庵さんという陶芸工房を見つけて
「たまにはお土産でも買ってみるか」と覗いたものの
奥の方に人の気配はあるが店には一向にだれも出てこない。
鍵が開いているので勝手にドアを開けて
しばらく商品を見てのんびりしていたが人は来ない。
選んでも店員さんがいないので買えないと悟り、退散。
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この鯨のレリーフ?も売っているようだ。かわいい。
そして、さらに歩いて博物館到着。
結論から言うと、抱壷庵の方はどうやら
博物館で絵付け体験コーナーをやっていたようだ。
それならそうと「博物館でやってます」という張り紙がほしい。
ちなみに商品は、博物館のお土産売り場で買うことができた。

展示は古式捕鯨の様子のジオラマ↓や
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ほぼ実物大と思われる、
天井から吊られた鯨と捕鯨船の模型↓など
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昔のクジラ漁の様子が具体的に分かるものが多かった。
コチラ↓は鯨銛の種類の解説。
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壁いっぱいに貼られた捕鯨船のデザイン画も
シャープで素敵である。

そして、こちら↓が実物の1/10の模型。
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コレを見ていた女性が
「え?コレのたった10倍て、小さない?小さいやろ!」
とずっと言っていたが、たしかに。
鯨というから大きな「船」で獲るかと思いきや
木の葉のような「舟」である。

一隻で引っ張ってくるのでなく、
「勢子舟で追って 網舟が張っている網に追い込む」
という方式ではあるがなんとすごいのだろう。

そんな歴史的・文化的展示がある一方で
あちらの柱には実物大のオスの性器の模型が。
そして、向かい側の柱にはメスの性器模型が。
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2階にもまた別のオスの性器の模型が飾られているが
これまた「ミサイルか」という大きさであり
地元の「珍宝館」(一般的に言う宝物館)を思い出した。
そのほか、内臓や噴気孔、そしてイルカの胎児などの
ホルマリン漬けコーナーなどもあり
充実しているがおなか一杯感もある博物館だった。

ちなみに、そう巨大な博物館ではないが
鯨オンリーに関する博物館では世界最大級らしい。

さて、今回は
和歌山に来ておきながら熊野古道には行けなかったが
次の記事では宿泊した新宮にある
熊野にまつわる社について書く予定ですー。
(*'▽')

*おまけ*
紀伊本線は、ターコイズブルー
可愛いワンマン列車でした(*´ω`*)
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恵比須ノ宮の鯨鳥居(+α 飛鳥神社)

*電車の中で一苦労(雑談です)*
そんなこんなで、
大阪で見た雪鯨橋がこれから行く太地と深い関係にあった!
とゆう事実に御縁を感じながら電車に揺られること約4時間。
遠い。遠いぞ。
しかも後ろの席の女の子はテンションが上がってしまい、
アナ雪のLet it goを熱唱している。
車内で"ありのままの"元気を振りまかないでくれ…
と思いながらイヤホンで本家の歌声を聴いていたが、
幸い 女の子は和歌山あたりで降りた。

今回はそう長い滞在ではないので、
静かになったところで回る優先順位を決めるため情報収集。
いつも準備万端なほうではないので土壇場まで何か調べている…
(;´Д`A

そして悟った。これは、1日の滞在では足りない。
そして、太地にはあまり泊まるところがないことに気づき
特急のデッキで新宮のビジネスホテルに
片っ端から電話をかけまくる。
ゴールデンウィークに当日予約。
我ながら行き当たりばったりすぎるぞ!

しかも、やっと空いていそうなホテルがあったものの
名字を聞き取ってもらえない。
「それでは、ーーー様、1名様で本日ご宿泊ですね」
どうもさっきから砺波(となみ)と言われている気がする。
そして、念のため言い直すも
「あ、泊(とまり)様ですか!」
「ん…タミル、様ですか?」
おい、だんだん日本人じゃなくなってきているぞ⁉︎
中央アジア系?
特急からかけているから電波が悪いか?
いや、私の滑舌が悪いのかもしれない。
相手のせいにしてはいけない。
相手もあまりの聞き取れなさに動揺しているんだ。
「うーん、ミヤコにマルで、トマル、です」
「港に丸ですね?」
「ええと、東京都の都、に、牛若丸の丸、です」
「うしわかまる…」
「あー、えーと、数字の九に一本足したやつです」
こちらもあまりの伝わらなさに動揺しているのか
牛若丸とか九に一本たすとか、
全然わかりやすくない例しか出てこない。
丸ノ内とか、日の丸とか、他にもっとあっただろ!

*太地に到着*
まぁ紆余曲折を経て無事本名で予約ができ一件落着。
ちなみに、砺波は富山 泊は沖縄でよくそう間違われる。
そんな事件はあったが、無事 太地に到着。
タクシーなどは見当たらない、
駅前も特にコンビニもない、
特急が止まるのが不思議なような駅である。
しかも、予報は晴れだと友人たちが言っていたのに
私の雨女の力が予報を上回り まごうことなき雨である。
仕方なくフードをかぶって出発。

駅から少し歩くと、もう海である。
そしてそのまま
まずは、午前に売り切れてしまうこともあるという
太地名物・てつめん餅を求めて亀八屋さんへ。
住宅地、と言ってもかなり趣のある
撮影に使えそうな感じの場所にある。
看板は出ているが、
商品を見えるところに並べて売っているわけではないので
ウッカリ通り過ぎるところだった。

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私の前に買っていったおじさんは地元の人っぽいが、
どこかへ手土産にするのか10個くらい買っていった。
対して私は消極的に1個。
今日1日これしか食べない予定なので、
白と緑(よもぎ?)1つづつ買っても良かった気もした。
が…持って歩く間に雨でビチョビチョになるのは目に見えていた。
1ヶ110円なり。お安い。
あんこは管理人の好きな水分少なめ、こしあん。
まわりのモチはたよりない程に柔らかい。
うまし(*´ω`*)
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食べる前は
「名物ってクジラ肉とかじゃないの?」と思っていたが、
これは名物と呼ばれてしかるべき。

*薄命美男子とサビサビの剣*
なんとなくライトノベルの題名風だな…。
(´д` ;
なんというか雨の中傘もささずに
餅をかじりながら歩くというワイルド状態ではあるが
次の目的地「飛鳥神社」に到着。f:id:ko9rino4ppo:20170506145356j:image
詳しい説明版などはないが、
熊野信仰において重要な土地である「阿須賀神社」と
名前の音だけでなく祭神も同じようだ。
(その阿須賀神社についてはまたの機会に書くとして…)
祭神・コトサカノミコトは一般的に
縁切りの神として知られている。
一体何との縁を切る神社として建ったのだろう?

いや、単に
お隣・那智勝浦でブイブイいわしてる神様を
土地の守り神様として勧請したのか?
なぜコトサカノミコトかはわからないが、
捕鯨の町の氏神様なので絵馬は鯨である。
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ちなみに管理人には
「絵馬があったら片っ端から人の願いを読む」
という悪趣味な習慣があるが、
この神社にあった絵馬は たった1つ。
なかなか切実で具体性のある願いで、個人的にはいい。
そして、自分のある性格を変えたいという願いだった。
つまり、考えようによっては現在の自分の一部との縁切りだ。
叶うといいなあ。神様ではないながらに応援してます。

さて、この神社は御神体に少し特徴がある。
まぁ端的にいえば古い剣なのだが、
海に落ちていて漁師の網にかかったものなので
塩水でひどく錆びているという。
では誰が海に剣を落としてしまったのかというと、
平維盛(たいらのこれもり)という人物である。
源平好き(?)もしくは中世好きであればご存知かもしれないが、
平清盛の孫である。

早くに父を失い立場が微妙であったことなどから
度々周囲とぶつかっては止められ、戦の成績もふるわず、
二十代にして敗走の末に亡くなったという不遇な人物である。
しかし、美人薄命とでもいうのか
容姿は光源氏の再来と言われるほど端麗で、
初めて大将となった際の鎧兜姿は なんと周囲の男どもをして
「絵にも描けぬほど美しい」とさえ言わしむる程だったそうだ。
それは相当だな。

そんな彼が最後どのように亡くなったかには諸説あるわけだが、
一説には補陀落渡海(ふだらく-とかい)したと言われている。
つまり、入水自殺である。
補陀落とは観音様が住む山の名前(ポータラカの音写)。
そこに海を越え旅立つということなのだろう。
中世、那智では比較的盛んに補陀落渡海が行われたそうだが
一般的には高僧などが行うことが多かったようだ。
維盛も、落ち延びてから出家して熊野三山へ詣でた後に
那智の海岸から沖へ漕ぎ出したといわれている。

既に出家してこれから死のうという人間が
剣を帯びていただろうかという疑問もなくはないが、
僧が行う補陀落渡海でも決して浮き上がれぬよう
体に108の石を縛り付けたりすることがあるらしいので
もてる武具をすべて身に着けていた可能性もなくはない、か?
ちょっと細かい状況はわからないが、
ともかくその際に彼が落としたといわれている剣が
この飛鳥神社の御神体とされている。
もちろん、実物を見ることはできないわけだが。

*鯨鳥居と対面*
さて、この飛鳥神社の近くに
管理人がかねてよりお目にかかりたかった
小さな御宮「恵比須ノ宮」がある。f:id:ko9rino4ppo:20170506145605j:image
お宮自体は小さなものであるが、
鯨の肋骨で作った「鯨鳥居」ゆえに知る人ぞ知る神社である。
クジラとえびすと障害者 - とまのすを書いた頃だが、
管理人は「障害者と信仰」という視点で
一時期エビス(ヒルコ)にハマっていたことがある。
そのときに先の雪鯨橋と鯨鳥居を知った。



国内に現存する鯨鳥居は2つしか無いと言われ、
1つがこの和歌山・恵比寿ノ宮。
もう1つは長崎・海童神社のものである。
昔は日本統治時代の台湾や、色丹などにも数個あったらしいが。
そちらもきっと政治的な意味でも
神社ごとなくなっていたりするのかなぁ。

現在は、まだ一部の捕鯨が許可されているため
まぁなんとか劣化しても新調可能だ。が。
今後もし捕鯨が全面禁止になるか鯨が絶滅してしまえば
鯨鳥居は作れないということになる。

風雨による浸食ならば
コーティングか何がで防げそうなものだが、
万一 戦火や震災、津波で突然失われてしまえば
まぁおそらく守りようもない。

神社が昔の姿であり続けられるのは、
人の世が平穏なだけでなく生きものも豊かであり
その恵まれた状態であっても人が神様を重んじて
その住まいを保つことを忘れない。
という案外難しい条件が揃っているときなのだ。
そういう意味でも、
今や2つしかないが今後も鯨鳥居がずっとあってほしい
と思う管理人だったとさ。

管理人のたそがれは置いといて、
この恵比須ノ宮は小さいながら歴史はそこそこ古く
あの井原西鶴の「日本永代蔵」にもその様子が記されている。
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本当に大きさで言えば
どこかの末社かと思ってしまうような小ささなのだが
井原西鶴の文章を読むと、
そのころ既に盛んに信仰されていたようだ。
もしかしたら、昔はもう少し大きかったのかもしれない。

そもそも西鶴さんがどうしてこの土地を訪れたかというと、
「横手節」という小唄を聞いたからである。
まぁ江戸ではなく大阪の人とはいえ、
今でも4時間かかるのに当時は何日かかったのだろう。
だというのに、
「面白い小唄があったからその発祥の地を訪ねてみよう」
という軽い動機で すごいバイタリティだな…。

そしてちなみに
「日本永代蔵」というのはどういう本かといえば、
町人物といわれる庶民の生活を扱ったジャンルであり
裕福なやつはどうやって裕福になったかとゆうのがテーマ。
この本の2巻目に太地の鯨獲りの名手の話が出てくるわけだが、
その名手が盛んに拝んでいたというのがこの恵比須ノ宮である。
現代語訳しか読んだことがないのだが、
そこでは「鯨恵比須」と書かれていたような気がする。
そして、当時の様子では「高さは3丈ばかりもある」と。
つまり9~10メートルくらいということか。
まぁ読み物なのでもしかしたら誇張はあるかもしれないが
今よりもずいぶん立派なものであったらしい。
また文中で名手「天狗源内」が
例年より参るのが遅くなってしまい慌てて行くが
もう自分よりほかに参る人もいないようで
神楽を奉納したいと言うも遅い時間なので適当に済まされた…
というエピソードが書かれている、
なので、日中は参る人が多く
神楽も舞われるような宮だったのだろう。

*おまけ*
恵比須ノ宮の正面に
対面するようにこの石がある。
石棒や金精様というには少し前のめりで
ねずみ男のような親しみを覚えるのだが…。
これは一体なんだったんだ。
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そんなこんなで、
この後はくじら博物館や鯨供養碑
そして古式捕鯨の形跡をめぐって歩きました。
そちらはまた次の記事で書きます~。
相変わらずまとめるのが遅い管理人ですいません。