考え続けていると他のことが手に付かないので、ひとまず考えをまとめて日常に戻ろうシリーズ。一応、今回で一区切りします。今回は、要石(かなめいし)と「ダイジン」のことを考えていきます。
今回は、さすがにストーリーの内容に触れずに書くことはできなかったので多少のネタバレ含みます。
また、未鑑賞の方には分かりにくい部分もあると思うので 見たり読んだりした後で読んでいただくことをオススメいたします
m(_ _)m
要石とは
ググれば出てくることなので詳細の検索は皆さまに任せるとして、簡単に言うと、地震を抑えるとされた石のこと。かなり深く埋まっているので地表に出ているのはほんの一部で、これが揺るぐ大地を繋ぎとめるとも、地震の原因であるナマズや龍を突き刺し固定することで地震を抑えるとも言う。
日本書紀の頃から日本には「大海原を漂う島を今の場所に繋ぎとめている杭のような場所が数カ所ある」という考え方があったらしいが、これに関しては地震に特化して固定しているという意味合いは薄そうだ。
その時代から度重なる地震に見舞われる中で地震と関連深そうなものを祀ったり、それに関する和歌や絵を家に貼ることで地震除けとすることが流行ってだんだんと要石への信仰も集まってきたという部分もあると思う。
現在、実在する有名な要石と言えば鹿島神宮(茨城県)と香取神宮(千葉県)。ちなみに、今回のサムネイルには鹿島神宮の要石を使わせていただいた。しかし、作中での要石の位置を見ると茨城と千葉は関係ないっぽいので今回はあまりこちらには触れないこととする。
動く「要石」
「すずめの戸締り」に登場する要石は、時代によって位置が変わる。時の流れで地中にうごめく龍脈の経路も災害の形も変化するから、ずっと同じところに刺しておくのでは意味がないらしい。
草太の持っている古文書の中には、その位置を示した目録がある。小説版を読むと、初期の地図は「島のようなものの端と端に」剣が刺さっているらしいが、中世の地図には北海道が描かれていないであろうことを考えると端というのは東北と九州のどこかかもしれない。
時代を下り、もう一段階新しい地図では「さっきと少しずれた場所」に剣。そして、その次の時代には「東北の端と琵琶湖の下」となる。現代人として気になるのは、これが東日本大震災と阪神淡路大震災に対する要石なのかということだ。
もしそうであれば、その次のページに記された現存する要石の位置=東京と宮崎(すずめの地域に在ったもの)は未来の地震を表していることになる。そして、その位置から想像できるのが首都直下型地震と南海トラフ巨大地震ではないだろうか。
当事者ではない人々が東北大震災を忘れた今、南海トラフもしくは首都直下型地震を連想させて警鐘を鳴らすというのも新海監督の伝えたいことの一つかもしれない。
ただし、物語の中の要石が実際に大震災の震源を予想する物かと言えば少し疑問ではある。もしそうであれば最新の要石が明治時代に東京・宮崎に刺されたのに、なぜ東北が観測史上最大震度の被災をしてしまったのか。
もしかすると、作中の要石の位置は私たちに歴代の大震災を連想はさせるが、その位置は実際には震源とは関係がなくその時代時代の「ミミズの尾と頭」の位置に過ぎないのだろうか?
それとも(なぜ現代に東北に要石が無かったのかということは一旦置いておいて)今回のように大地震の前触れとして要石が抜けるのであれば、作中で現存する宮崎と東京の要石が記されたページは「明治34年」。それ以前の要石はその年より前に機能を果たさなくなったということになる。
もしかすると「東北の端と琵琶湖の下」の要石は現代の地震を予測するものではなく
・明治29年の明治三陸地震
・明治30年の宮城県沖地震
・明治32年の紀伊大和地震
の前に抜けてしまい、やっと明治34年に新たな要石を刺すことができた…のかもしれない。完全に妄想だけど。
まぁでもダイジンが「うしろどは またひらくよ」と言っていたように、地震は繰り返す。もし作中の要石がこれからの地震を予知する物でなく過去の地震に関する物だったとしても、またいつ起きても不思議ではないということに変わりはないだろう。
映画を見ているときも、そのメッセージが繰り返し、色々な言葉や方法で伝わってくるような気がするなと思っていた。
ダイジンのこと
管理人は、映画を見て数日はダイジンのことを思い出すたびに涙が出て「いじめられたのか」「大丈夫か」と心配される日々だった。いや、いじめられてないから…。
ダイジンは、宮崎ですずめが抜いてしまった要石が生物(仔猫)として顕現した姿。顕現とは、普段姿を見せず声も発しない神などが見える&やり取りできるような形態で人の前に姿を現すことだ。
そう考えると、要石(ダイジン)は神様なのだろうか。神様っぽいなという印象を受けたシーンは、すずめに必要とされれば全身がふっくらと生命力を帯びた姿になり、拒絶されればやせ細ったみすぼらしい子猫に戻ってしまうあたり。
信仰を得れば永らえ、信仰を失えば存在が危うくなる。神様は、人が思うほど永遠の存在ではなくて、むしろある意味ではただ役割も持たず必要とされずには存在し続けられないものかもしれないと思うことがある。
しかし、たしかに神のような力があることは確かなのだけれど、管理人はその姿の通り「まだ神としては子供」という印象を受けた。
例えば後に登場する「サダイジン」と比べれば体も小さく、常世に入って巨大化した際の大きさや大きくなっていられる時間も頼りない。なにより、サダイジン登場シーンではまさに子猫というかんじで首根っこをくわえられている。
おそらく、神的な者としてはサダイジンのほうが先輩なのだろう。名前から考えても、サダイジン=左大臣という前提で話を進めれば、それと対をなすダイジンは正式名称:ウダイジンの可能性もある。
いずれも昔の朝廷で最高機関の官職であったが、一般的には左大臣のほうが右大臣よりも年長者が務めることも多いらしく、実質的な太政官の最高位とされている。つまり、ダイジンが「ウダイジン」だったとしてもサダイジンよりは下の立場となる。
もしかすると、自らをウダイジンと名乗るシーンは無いので、ウダイジンとなるべく研鑽中の身なのかもしれない。
では、神になる前は何だったのか。いや、産まれたときから神で、しかし子供の神であるから研鑽中なのか?そう考えたときに手掛かりになりそうなのが草太の祖父の発言だ。
・これから何十年もかけ要石になっていく
・要石は神を宿している
・人の身には望み得ぬほどの誉れ
・最後に覚悟を示したか
つまり、要石は最初から神ではない。そして「神を宿」すということは、神自体ではなく依り代(よしりろ)ということだ。そして、祖父がその一連の話をしたときに複雑な感情はあっても「驚き」は感じなかった。つまり、人が要石になるのはあり得ることなのだろう。
ということは、もしかすると今の要石であるダイジンも人間だった可能性はある。証拠はないが、神戸のスナックでダイジンが座っている席を見て店員の女性が「物静かで品がある」「渋めで素敵」と言っているので…それが人だった時の姿なのかもしれない。
久々に常世から出て、現世の暮らしを満喫していたのだろうか。しかし、そうであればすずめの前での幼子のような純粋さは一体何なのだろうか。
草太の人としての意識がどこか深くへ沈んで凍ったようになってしまったのと同じく、元の人格や記憶は顕現しても復元されるとは限らず、神としての経験値だけが精神年齢に現れた状態なのだろうか。
そうであれば、本来果たすべきはずの要石としての役割に飽きた、もしくは寂しくなって自分を抜いてくれたすずめに懐くのも理解できる。まだ、神を宿すものとしての責任感は未熟なのかもしれない。
この場合、要石としての役割を失っても人には戻れない時点で、新たな存在意義を見つけなければ消えてしまったりするのだろうか。その新たな存在意義を与えたのが、すずめの「うちの子になる?」という言葉かもしれない。
奇しくも、これは彼女の叔母が災害で母を失った彼女に掛けた言葉と同じだった。幼い頃のすずめと今のダイジンが重なることで、今のすずめを連れ戻しに来た叔母が、ダイジンの首根っこをくわえるサダイジンと重なるような気もした。
では、叔母に溜まり溜まった悪い感情を吐き出させたのは、サダイジンの悪い作用というわけでなく「一旦そうした方が後の解決につながる」というサダイジンの判断だったのだろうか。
このあたりはちょっと分からないが、この感情は草太がミミズの説明に使った「ひずみが溜まれば噴き出す」という言葉を思わせる。それを抑え癒すのは、要石の本領なのかもしれない。
だんだん神様の話ではなくなってきたのでこのあたりで終わる。そういえば、管理人は草太の祖父の言葉や反応から「彼は要石を刺した側の人間なのかもしれない」と少し感じた。人だったものを、永遠に現世には戻れない場所に置き去りにすることだと分かっていながら刺す葛藤や、自分だけが人間として現世に戻ってくる辛さを知っているからこそ言葉の上ではすずめを称えた。ただ、自分の孫がその場所へ行ったのだという感情も相まって穏やかに伝えることはできなかったのでは、とか。とか。
ということで、見たけどよく分からなくてやっぱり気になっている方も、まだ見ていないのにうっかりこの記事を最後まで読んでしまった方も、是非映画館で。
※地震に関してはかなり頻繁に速報が鳴るシーンがあったり津波の後の町を思わせる常世の風景があったりするのでそのあたりは自分と震災の距離感によってかなりストレスに感じる方がいると思います。管理人は地震のとき東北に居た人間ではないけれど、それでも不安や怖さが沸き上がってきました。