今年は6月5日が「芒種(ぼうしゅ)」の訪れでした。
二十四節気の9番目。
芒(のぎ)のある作物の種を蒔く時期とされています。
ピンと来ない方もいると思いますが、芒とはイネやムギの殻のこと。
つまりイネ科の作物の種蒔きをする季節です。
(現在では、5月頃に種蒔きをすることが多いですが…)
そんなわけで、こんな本を読んでみたり。
- 作者: 坪井洋文
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 1982/11
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中学生の社会科を思い出すと、
もはや縄文時代にやっていた狩猟は安定性に欠けるし、
大陸の人が教えてくれた稲作ってヤツをみんなやろうよ!
弥生時代到来!日本全国で一気に稲作はじめました!
的な「すんなり感」があって、
列島に定住した狩猟民族が稲作の到来で生活様式を塗り替え
必然的に合理的な方向へ行ったみたいになってるけれど。
その実、本文によると以下のとおり。
これまで日本の歴史や文化について考えようとするとき、
日本人は稲作民族であるという前提に立つことが常識であった。
日本文化が単一の同系同質の稲作民族によって構成されているという前提には、
ふたつの立場があった。
(中略)
そのいずれにしても、
日本人の置かれている文化的不安定生を語っているにすぎぬわけで、
日本人自身の自己理解の問題の深刻さを示していたのである。
(中略)
日本文化を単なる「文化複合」として把らえているのではなく、
「種族文化複合」であるとし、
それは主体の移動と日本列島への渡来を前提にしているというのである。
〈p.59〜60 〉
つまり、人々に稲作という文化が流入したのではなく
稲を携えた農耕民族が狩猟民文化圏にやってきた。
でも、それにしたって
長細い日本列島の変化に富んだ気候を考えれば、
端から端まで稲作に向いた気候であるはずがない。
それなのに、端から端まで「稲の国」なわけです。
そこには、稲作を軸に据えた権力が働いている、と話は続きます。
つまり日本で稲を受容するということは、
単に主食として米を選ぶとか商売として米を売る以上の意味があるそうで。
各地に残る「モチなし正月」がその端的な例とか。
※モチなし正月:正月の祝いの席で餅が忌まれ他の穀類などを使用する。
例え稲を育てることに従事(=経済的には受容)したとしても、
ハレの場で忌避(=文化・宗教的には拒否)することは
権力の拒否をも意味することになる。
その「拒否する民がいた」ということが、
稲が権力者側から一方的に与えられたものだということの一番の証拠ではないか、と。
そういうことらしいです。
そんな象徴的な作物だからこそ、
稲を知った南西の人々は更なる繁栄を求めて
「日出ずる方角」東へ、東へと稲を手に移動し続けた。
そして、本来であれば水稲栽培に不向きなハズの寒冷な東北が
執念とも言える品種改良を経て、
日本一の米どころとなったというわけ。
らしいです。本書によると。
いま当然と思っているものを、なぜ当然と思っているのか。
合理的だと思い込んでいることが本当に合理的なのか。
非合理なことを、なぜそうしているのか。
ちょいちょい、立ち止まって考えられたらと思いますね。