とまのす

ちいさくゆっくり、民俗さんぽ

鴻池朋子「根源的暴力vol.2あたらしいほね」

ずいぶん経ってしまったが、
8月に鴻池朋子さんの展示を見に行った。
人の勧めで「絶対好きだと思うよ」と言われて行ったが、
あとで調べたら「焚書」↓書いた人だったのね。

焚書 World of Wonder

焚書 World of Wonder

 

 数年前、絵が気に入って買った絵本だったが、
あの時よりさらにパワーアップしてるというか
今回は「気に入った」でなく「揺さぶられる」感じがした。


*名前が付く前のカミサマ*
普段神社のことを書いていることがほとんどなので、
なんでいきなり美術展のブログになったんだ
(゚д゚)⁉
と思うかもしれないが…まぁまぁ。
普段管理人が考えていることとは関係あるのだ。

とりあえず今回、神社は出てこない。
なので神社好きで読んでくれていた方は…
次回以降また神社の話題に戻るのでお許しください!
|д゚)

あと、今回はいつにも増して長いです…。
*なぜ鴻池さんの作品に惹かれるのか*

鴻池さんの絵や立体作品を見る時、
管理人は その獣や山、雪、魚の持つ
「命」や「鼓動」もしくは「死」に圧倒される。
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古く、人は神話や民話の中で
猿や蛇や鬼の嫁となり、雪女や鶴や熊を娶ってきた。
また、川や山の声を聞くこともあった。
そしてその前後には、融和が見られることもあれば
知恵比べや取引、そして争いや破壊が発生することもある。


これらは「語り」の世界のことではあるが、
実際に自分でないもの(=自然、動物、異民族etc)との
コミュニケーションを図ってきた「経験」の記録でもある。
と、管理人は思っている。

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現代においては、
結構いろいろなものが調節・制御可能になってきて
環境や人でないものに「圧倒される」経験や
もしくは「取引をする」という感覚は
おそらく昔より薄れていると思う。

鴻池さんの描くものは何処となく
そうして普段忘れられている
かなわない存在からの圧力や、
その中で生きようとするもがき
みたいな「やりとり」を感じさせる。
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*カミサマとの距離感*

話は変わるが柳田国男
「カミの零落の三段階」という話を書いていた。
妖怪は神の零落した姿であるという考えを前提に、
神であったものがどのように妖怪化していくのか?
を整理した3段階である。

これを管理人なりに噛み砕くと

①人が畏れ遠ざける段階。
 触れなければ何事もないが不安も解消されない。

②人が畏れながらも近づいてゆく段階。
 内心まだ気味悪がっているが、
 その力を祀ったり試して防ぐ手段を探り始める。

③畏れを持たず滑稽なものとして扱う段階。
 笑い話や風刺画の題材などにもなり娯楽的になる。

…となるかな、と考えている。
河童などを想像してもらえばわかりやすいだろうが、
自然に関しても大体構造は同じで

①ただ災害を受け止め、起きないよう祈る段階

②災害を起こすもの(逆に恵みを与えるもの)
 に名前や形を与え、意思疎通を図る段階

③物語(民話、神話)が発達し、
 災害などへの対処の手段が語られる段階

という三段階があるような気がする。

※ただし③は必ずしも理論的な解決策でない。
 伝承には以下のように、経験をもとに推測して、
 「あの時と逆の対応をすれば被害に遭わない」
 と安心するための心理的解決(仮)も多い。

 ・災害前に、正体の分からない声に挑発的な応答をした。
  ex.1)やろか水の「やろうか」に「よこさばよこせ」と返す。
  →つまり、返事をしなければ災害は起こらない!
 
・被害者は悪い行いをしていたからこうなった。
  ex.1)狐を懲らしめたので一族に子が生まれなくなった
  →つまり自分はそうしなければ災害に遭わない!

で、話がズレたが3段階説の話である。
ソレと美術展がどう関係あるんじゃい!というと
普段管理人が書いている神社の記事は
神様がどうとか〇〇信仰だとか
3段階で言う②から③の段階の話が多い。
つまり「どう扱うか」が決まった後のハナシだ。

でもこの美術展では冒頭で話したような
「まだ恐れられている状態」
「漠然とした自分以外の存在」
つまり①と②の間くらいの感覚を感じることができる。
…なので、たまにはそうゆうことも書いてみようかなと。


*生活者という巫女*

上の三段階説で
③の段階(orその先)に行ってしまった「現代人」たちを
①と②の狭間につなげてくれる鴻池さんは
ある意味で魔女的もしくは巫女的だと思う。

今でこそ巫女さんというのは
神社にいて赤い袴をはいて御守りとかを売っている!
…というイメージだが、
知っての通り彼女らは御守りの売り子さんではない。
舞を奉納したり 供物を上げたり
つまりカミサマに仕えている人なのだ。

私たちには見えない神様に 巫女さんが仕え
定期的に御供えを換えたり
また神事を執り行い舞を舞うことで、
私たちは神様がそこに居て
コレを食べたりアレを見たりしてるんだな…
と感じることができる。

また、神様の声が聞こえない我々一般ピープル
神様の声を通訳してくれるのも巫女さんだった。
神がかりとなり、神の信託を聞いた卑弥呼などが
そういう意味での巫女としてイメージしやすいだろうか。

あとは、亡くなった人の口寄せを行い
民俗行事にも関わるイタコさんたちも巫女と言っていいと思う。
また、宮古島や沖縄のユタやノロも
古い巫女さんの形を残している文化だと思う。
つまり、巫女さんは神様と我々をつなぐ人なのだ。

自然側の 波のような霧のような声をキャッチして、
ちょっと鈍くなってしまった現代人に
わかりやすいチャンネルに変換して発信するのが巫女。
そう考えると、鴻池さんもそんな存在な気がした。

彼女を巫女と呼ぶとすれば、
使っているのは古代の女性たちと同じ力かもしれない。
混然とした自然の中に存在している 有用植物を集め
食事を作り、糸を紡ぎ、布を織った女性たちのことだ。

彼女らもまた自然の中で生きる「生活者」であり
だからこそ自然に耳を傾けその変化や性質を知る必要があり
巫女的な存在であることができたと思う。

しかし、今となっては神道の巫女さんは
なんとなくスピリチュアルというか神事・祭事寄りで、
日常的な生活とは縁遠いかんじがしてしまう。

それが悪いわけではないが、
そうすると神様や祭(祀り)というのは
どんどん生活から離れてプワプワ浮いてしまう。

一方、この美術展では
日常と離れた精神的芸術性でなく
自然の中で生き抜いていく「生活者」的な魅力を感じた。

それはきっと鴻池さん自身が
作品制作だけでなく服などを「作る」ことも等しく
「自然の領域に踏み込んで 切り取ってくること」だ
と考えて制作しているからだろうという気がする。
(想像でなく、この認識については対談で言っていたことだ)
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その服について、そして女性の使う魔法について、
作品中で語られている部分があるので見てみる。
ココでは「ある女性の語り」として
「白鳥の王子」の刺草(イラクサ)のシャツ
「シンデレラ」の灰まみれの服
などを例に語られている。

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彼女にとっての本当の衣装は舞踏会のドレスではなくて、
この灰まみれの服こそが大事な花嫁衣裳なんですよ。
私が魔法という超自然的な救いの手を差し伸べるのは、
彼女が灰をまとってから。

そういう変身の道具が、動物の皮や刺草や灰だったり、
私のこの魔法の杖が木の枝だったりするように、
文化から離れて、より自然なものに近づくのは、
おとぎ話の「魔法」っていうものが、
自然の力によって起こっているからなんですね。
人間が古来より抱いてきた自然への驚異の念、
それの名残なんですよ。

*見るということ*

見る、ということに関して
管理人はあまり意識していないのかもしれない。
それは反対に「見るな」という禁忌も
あまり気にしていないというか、
だからこそいつも拝殿の中を覗いては
写真まで撮っていたりもするわけなのだが。

日本にとどまらず世界中の民間伝承において
「見るなのタブー」
の威力(?)はすごいと思う。

国内では「鶴女房」「浦島太郎」が有名だと思うが、
それ以前に黄泉の国のイザナミ
妻のモモソヒメと蛇神・オオモノヌシ
トヨタマビメの出産etc…
日本神話だけでも見るなのタブー山盛りである。
外国のものでは「パンドラの箱」「青髭
あたりが身近だろうか。

見るという行為自体はある意味能動的なのだが、
禁止されていたり隠されていたりするものを見るには
結構な決心と行動力が必要となる。

しかし、どの民間伝承・童話でも
その禁止された真実を見る勇気や行動力は
評価を受けることは少ない。
だいたいは、禁忌を破ったことで真実を知り
多くのケースでは夫婦でいられなくなったり
生命が危機にさらされる。

それでも、ひとりとして
カリギュラ効果に抗い抜いた主人公はいない。
今回の展示でも、たびたび「見ている」顔が
作品の中に登場する。
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解説はついていないので本当の意味は分からないが、
それは大体のぞき込むような場所に作られていて
鑑賞者は「なんだろう?」と近づいていくと
急にその大きな目と目が合ってハッとする。
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それは、のぞき込む私たちに対し
ただ見られるに任せる風景でなく
意思をもって覗き返す自然なのかもしれないし

考え方によっては
その視線に出会ってハッとしている
私たち自身の表情なのかもしれない。
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おそらく
祖母の布団に居るオオカミを見た赤ずきん
ジル・ド・レの部屋を覗いてしまった少女も
オオモノヌシの正体を見たモモソヒメも
こんな顔だっただろうと思いながら見ていた。

その「目」に加えて印象的なのは
小さく開かれた口。
これもまた巨大な本の中で言及されていて、
口は「食べものを取り込む」
つまりは他の生き物だった命と一体化する器官であり
また「外界の物が出入りする危うい場所」とも書かれている。
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その危うい場所が、
新たなものを見て場合によっては警戒すべき
というような表情の中にあって
あろうことか「閉ざされ用心する」のでなく
ガードせず「開かれている」のだ。

実際びっくりすれば口は開いてしまうものかもしれないが、
それはある意味
自分にとって未知の物や脅威となり得るものも
拒否せず自分の中に取り込んでいる表情なのかもしれない。

…話題が「口」に移ってしまったが、
「見る」ということに話を戻す。
これについても鴻池さんは文章で書いてくれている。
(先ほどの魔法と自然の次のページだと思う)

同じおとぎ話であっても
結末にはバリエーションがあることについて、
「おとぎ話では結末が必ずしも大事ではない」
「それよりも「見る」ってことのほうが大事」と。
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最後の段落だけ文字に起こすと、

赤ずきんも森で寄り道をして、
初めて見る美しい草花に心奪われ、
狼と出会ってしまいますよね。
そうしたら赤ずきんがもと来た道を、
何ごともなかったかのように帰って行くっていうのは、
やはりあり得ない。
何かを見てしまうことで、赤ずきん自身
これまでとは違うものになってしまったわけですから。
たとえ命が助かったとしても、
もはや、同じものではいられないんです。

と書かれている。
見ることで、相手の関係だとかよりも
自分自身が同じものではいられない。
これは結構インパクトがあった。

そうして、これを読んでから
もう一度ここまでで見た展示を思い出す。
そうすると、何となく思うのは

ああ、自分もここの入り口を入ってから
いろんなものを見た。
もう入る前の自分と同じものではいられないのか。
ということ。

*駆け引きと信仰*

さて、見るという人間寄りの話をしたけれど
また話は自然との関係に戻る。
現代では感じることの少ない感覚かもしれないが
生きることは環境(自然)への間借りである。
衣食住という基本だけ考えても
着るものの毛皮や布は動植物の命に踏み込んで戴くのだし、
食べるものも同じく、自分以外の命を取ってきて自分が永らえる。
住む場所も 自分が住む間はほかの動植物を制限することになる。

そういう関係の中で、
必ず「駆け引き」が存在する。

勿論それは物理的な意味でも
狩ろうと近づけばケガを負うこともあったり
漁場や狩場に近い集落は津波や山崩れに遭いやすい。

しかし、それとは別に
自然災害など 何かどうしようもない事態になった時や
命を奪うことへのうしろめたさを感じた時にも
人は「駆け引き」を持ち出してくる。

無論、これは人が自然を擬人化することで生まれる
架空の駆け引きで
実際効果の程は微妙なものだが。

人は相手が「意思」や「声」を持っていると考えることで
相手が人間でなくとも
自分と相手を同じように尊重する能力を持っている。

たとえば、あまりに幼い子は
「自分がこれをやられたら痛いだろう」とは考えないが、
少し成長すれば
相手が「痛い!」と言わないヌイグルミだとしても
大切に抱っこしたりすることができる。

これは、身近に世話してくれている人との関わりなどから
「他者も自分と似た痛覚や感情を持っている」と学習したり
「実際反応を見聞きせずとも相手に自分を投影し想像する力」
が発達してくるためだ。

と同時に、人の心理には
自分の力でどうにもならないものへの
理不尽さや恐怖を克服するためのステップがある。

例えばキュブラー・ロスの「5段階モデル」。
これは死を宣告された人が受容するまでの精神の動きを、
以下の5段階に分類したものだ。

①否認(事実なのか、どうゆうことなんだ)
②怒り(不幸にも選ばれた。なぜ自分なのか)
③取引(条件を提示し回避しようとする)
抑鬱(回避できないと悟る。対処できない絶望)
⑤受容(自分なりの意味を見出したり納得する)

この「③取引」の部分だ。
上段で書いた「相手に自分を投影する能力」と
「取引を持ち出して状況を打開しようとする心理」。
これが、自然を擬人化して
コミュニケーション可能な存在とみなし
祀ることで災害等を回避しようという発想の下地な気がする。

上記はモトが「死の受容モデル」だから例が微妙だが、
どうすることもできない自然災害についても同じく
「アレが悪かったなら改めますから」
「コチラはこれを差し出すので助けて」
と言った心理的な駆け引きが発生するし、
また狩猟の対象となった動物などに対しても
「この部位は人間がもらい、こちらは山の神に」
「一年に一度弔う(祀る)日をもうけよう」
といった具合に神との分配・祭祀等が行われる。
そうした恐怖心・うしろめたさへの対処の過程で
カミサマや信仰というものが生まれるのだろうと思う。

作品展の中では、
先ほどの魔法と自然や
「見る」ことについてなど
たびたび大きな本が展示されていて
以下のページには人と道具について書いてある。
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「ヒトと道具のはじまりを考えたとき、
 道具とは人が自然に対して働きかけるためのもの、
 人と自然をつなぐためにあるものだと思うんですね。」

と書かれている。
この「道具」という言葉をそのまま「信仰」に書き換えると、
そのまま人とカミサマ(自然)の関係になると思う。

つまり、信仰も道具であった。
人が自然に働きかけるため、つながるための。
という具合に。

歴史を重ねるにつれて信仰というものは
人を集団としてまとめ上げるために利用されたり、
贅を尽くしても許される権力顕示の場となったり、
人から人に向けられるものになってしまった気がする。

しかし本来、人と自然のつながりを考えずには
語れないはずということは忘れないでおきたい。

なんだか内容が固いし
エラく抽象的な話になってしまったが、
そうゆうことを考えさせられた展示だったとさ
(/・ω・)/♪

↓今回の展示で最大の作品。
  縫い合わされた皮に海から頭を出した火山や
 冬眠しているような様子の動物などが描かれている。
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