読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

とまのす

ちいさくゆっくり、民俗学。

「災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異」畑中章宏

柳田国男
「山の人生」「一つ目小僧その他」etc…を草鞋親に、
災害伝承の世界に分け入る一冊。

災害と妖怪――柳田国男と歩く日本の天変地異

災害と妖怪――柳田国男と歩く日本の天変地異

 

 この本も震災から一年になる今年発売されたわけで
だからこそ災害と妖怪の足跡を追うことに
今までより大きな意味を感じるというか。

自分自身のことをいえば 震災以降なんとなく、
「天変地異といえば地震津波
という頭になりがちで。
私だけでなく多くの関東以北の人はそうだと思う。
それはきっと自分が何か「大きな体験」をしたからで。


同じ時代に同じ世代であっても、
ある人にとってそれは土砂崩れのイメージであり
またある人にはそれは噴火のイメージかもしれない。

それと同じように
柳田先生にとっての一番「大きな体験」は、
飢饉だったのではないかとなんとなく思っている。

実際、本文の中でも柳田先生の著書の
飢饉を絶滅しなければならない
  という気持が私をこの学問に駆り立てて」
という部分が引用されているし、

だからこそ
柳田の残したものの中で最も人の間に染み渡ったのが
座敷童と河童だったのではとよく思う。

今回も河童や座敷童が登場するし、
私も河童が大好きだけれど。
(´・ω・)ガマン。

あんまりそこに執着せず、
気になった部分(と妄想)まとめ

 


■大きなものを飾る

本文の中にはアンバ様や鹿島様、
そして大草鞋などの写真が載せられている。
何度か写真を見たことはあり、
外から来るものを防ぐ!という役割から
今までは「全て一緒のカテゴリー」と考えていた。

が、今回読んでみれば

アンバ様は船を見守る大杉から
関東各地に飛来するため天狗となり
栃木など一部では巨大な藁の人形となり。

鹿島様といえば茨城では地震封じだけれど
所変わって秋田では巨大な神として村を疫病から守り、
虫送りと出会って疫病を背負って流される人形になり。

大わらじは
その大きさのみならず(編み)目の数で
一つ目の巨人を追い返し。


各々に違う道のりを歩んで今の形になったのだった。

■鹿島様とカズハゴンドウ
鹿島様といえば茨城県鹿嶋市鹿島神社が総本山。
その鹿島神社の近くの湾で東日本大震災以前に
カズハゴンドウの大量座礁があった。

カズハゴンドウは一群当たりの頭数が比較的多く、
また集団座礁も多い種ではあるらしい。

しかし、
そのカズハゴンドウが鹿島様の近くの湾に座礁したことや
それが地震の一週間ほど前だったことなどが重なって
カズハゴンドウたちが建御雷(タケミカヅチ)に
地震の到来を知らせに来たのだといわれた、という話。

イルカはかわいそうだけれど
いまでも人には 神様と物語を紡げる力がある
と感じてなんとなく嬉しかった一節。

■疫病除けの形
「海坊主がコレラ除けになるとされた」
とゆうのは全然知らなかったので気になった。
何か他にも資料や本を探して海坊主と疫病除けのこと、
もっと知りたい(=゚ω゚)!

読んでいて、
厄病を除ける方法は大体

①厄病の原因を特定してそれを解消する
②厄病に罹患する対象が居ないことを知らせる
の二系統なのかな という気がした。

①の中はさらに
・原因となる神を崇めて害を為されないようにする
・原因となる神や動物の天敵を信仰し追い払う
に分かれて、
それぞれ前者は牛頭天皇祇園祭だったり
後者は疫病は化け狐の仕業として狼を信仰したり。
海坊主はこちらにのうちだと後者に入るのかな…
(´・ω・`)


②に関して本文中では
「コノテノ コドモハ ルス」
の例が挙げられていたけれど、
探したらいろんなバリエーションがありそう。

そういえば、これは妄想だけれど
モトは姿のなかった天狗が
あのファッションに決まったのは山伏が混入したから。
じゃあ赤いのは?
と言ったら、赤は疫病除けの色だからではないのかなー。
なんて思ったりもしたけれど、
よく考えたら烏天狗赤くないし。
大天狗だけが厄病除けに使われたならあり得るけど、
知識不足で全然裏付けになるようなこと言えない!
(ノД`)・゜・。
やはり妄想どまりか?
しかし、赤べこやダルマとそっくりな感じの
ツルツルで真っ赤な天狗面。
絶対そんな意味もある気がして…
これはちゃんと裏を取るべし。

 

■水害と神々

甚大な被害をもたらすと同時に
肥えた土(エグミ)を運び込むという洪水の姿は、
そのまま日本の神様のようだった。
神様は救ってくれるだけではない。

話はズレるけれど、
津波被害に関してだったか
「我々はいつも海から貰っている。
  ならば時にはその逆で貰われることもある」
というような内容の漁師さんの話が載っていた本がある。

魚のとむらい―供養碑から読み解く人と魚のものがたり

魚のとむらい―供養碑から読み解く人と魚のものがたり

 

コレだったような気がする。
(違うかもしれないけれど…(;´・ω・))
まさに家族も仕事も被害に遭っただろうという人が言うからか
私はその言葉に妙に納得してしまった記憶がある。 

にしても、経験したこともないから
簡単に納得なんてできてしまうのかもしれないなぁ。

たとえば自分の集落が
大水のたびに死体の流れ着くような地理条件だったら。
またたびたび土砂崩れに襲われるような地域だとしたら。

そんな等価交換みたいな理論では納得できないかもなぁ。
文中にも「自分の生活の場に流れ着いた死体へのうしろめたさ」
という表現がある。

うしろめたさ、という感覚は「被災格差」とでも言おうか
生命の危機みたいのが少し遠ざかったころに現れて、
本書の冒頭でも紹介されたような
「幽霊を見たという被災者」が出るのかもしれない。

日本の地名というか土地の形状(?)を表す言葉として
「岬」という言葉があるけれど、それ以外の意味では
(文中の言葉を借りれば)
ミサキとは元来目に見えず、
触れれば害を為す変死人の亡霊のこと をさす言葉。
(七人みさき、とかもソレですね)

どちらが先にできた言葉か
もしくは別に語源があるかもしれないけれど、
昔の地名というのは人の恐怖や自然の様子が
とても素直に隠されず表現されている(気がする)ので、
岬というのは人々が「ミサキ」が居そうだと感じた場所…
故人のことや、大量に人が亡くなったことを思い出し、
いま生きている人が繰り返し
うしろめたさを感じた場所なのかもしれないなぁ。

本題ではない本を紹介ついでにもう一冊、
文中にも「物言う魚」が紹介されているけれど

「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話

「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話

 

 こちらも難しくなく読めていろんな例が挙げられているので
小学生並みの感想だけれど「楽しく読める」。
嗚呼、まさに「こなみかん」ではないか…(*_*;

にしても、なんだか
人の言葉をしゃべる魚と津波 というと
ジブリ映画「崖の上のポニョ」で
多くのおばあさんがポニョを可愛いという中
「人面魚だ、津波が来る」
的なことを言ったおばあちゃんが居たのを思い出す。
もののけ姫網野善彦色全開なように、
ポニョの時も宮崎さんは
民俗学津波に関する本何冊も読んだのかも。

■蛇と道祖神

土砂崩れを、地域によっては蛇崩や蛇通しと呼んだりする。
見えない蛇が 山を開拓した人間を祟って崩すという意味か、
あたりを流れる濁流が蛇のようだからなのか。

普通に考えても蛇は水神であり山の神でもある。
ので、洪水にも土砂崩れにも関係深くはあるが。

今回本文の中にせっかく道祖神も登場したので、
道祖神と洪水と蛇についての妄想。

本文で紹介されたのは兄妹婚姻と洪水のこと。
そこでは結婚した2人が兄妹だったため、
悪しきことであるとして大洪水が起きた!
とされた。

でもなんとなく、
日本神話を見ても兄妹婚三昧だよね?
いつからそんなに悪いってことになったの?
という気がして。

もとは、道祖神と洪水は
罪と罰という関係じゃなかったのではなかろうか?
そもそもこの伝承。ルーツはどこなのか?
と考えてみた。

・2人でピッタリ寄り添っている
・兄妹である
・洪水と関連深い
という点から、中国の女媧・伏義伝説
あたりがルーツかなーと勝手に考えている。

女媧と伏義は中国で「人類の始祖」とされ、
兄妹神とされる場合が多い(単に夫婦とする地域あり)。
その姿は上半身が人、下半身が蛇で
その蛇の部分は螺旋状に絡み合った様子で描かれる。

「注連縄は蛇の交尾の様子を模している」
という説もある通り
螺旋状に絡む蛇は男女和合や子孫繁栄の象徴。
日本の道祖神にも餅つき道祖神や接吻道祖神など
性的なものが多いのもその名残かもしれない。

本当に道祖神のルーツが女媧・伏義なら、
洪水伝承の大モトは
「女媧・伏義が雷神を助けたお礼に苗をもらった。」
という話ということになる。


それによると、
その苗が大きくなるとひょうたんになり、
大雨ですべてが押し流されたときには
二人はひょうたんに入っていて助かったらしい。

そう考えると、もともとは
2人はただ単に洪水に遭って
しかし雷神への善行の見返りに助かった。
という話なのである。
※兄妹婚をするのはその後の話

日本で地震封じ・洪水封じの力があると言われた
「ひょうたん」が
ここでも登場するのも興味引かれる(*'▽')

にしても
下半身蛇の兄弟が洪水被害者であるのを見ると、
中国ではあまり蛇=水神のイメージは少ないのかな…

あれ…本文から遠ざかってきて
全然読書記録じゃなくなってる…(今更)
(´・ω・`)ショボン

■死者に関する思いを整理する

最終章の最後は、
一つ目の巨人でなく供養絵額について書かれている。
私は死者の幸福な様子を描く絵馬といえば、
夭折した未婚者の架空の結婚の様子を描く
「ムカサリ絵馬」しか知らなかった。
しかしここでは老人なども描かれている。

この絵馬の意義について本文では
「死者についての記憶を新たにする」
という表現が為されている。

この供養絵額は、
3.11の津波でだいぶ流されてしまったそうだ。
が、それと入れ替わるように冒頭で書かれたような
「故人が見えてしまう」という現象が現れた。

どちらも、この世に残っている人が
別離を自分の心の中だけで処理しがたいがために
見えてしまうのだし、描いたのだと私は思っている。

そうしたいわゆるストレス障害状態の人に
住職さんなど宗教関係者の果たす役割は
被災したことのない人が考える以上に大きいらしい。

それとおなじように、供養絵額なども
「祈ったりすることしかできなかった時代の風習」
という古臭いものを見る目ではなく

近しい人の死 突然の別離etc…
というものを人はどう乗り越えたかという
いまでも使える「ケアの一手段」として
見直してみてもいいのかもしれないと感じた。

 絵額のように絵師が書くのもいいけれど、
実際の故人を知る一人一人が供養絵額を描く
アートセラピーみたいな感じもアリなのかもしれない。