とまのす

ちいさくゆっくり、民俗さんぽ

鼻節神社の三角扁額。

さて、前回までは石巻を巡る旅だったが、
もう少し北東・七ヶ浜に気になる神社を発見した。
というわけでちょっと足を延ばしてみようと思う!

が、調べてみると最寄り駅と呼べる駅が無い。
駅から歩くと数時間では済まないので半ば諦めていたが、
七ヶ浜町民バス ぐるりんこ]が近くまで通っているらしい!
バスは苦手だが背に腹は代えられまい。

てゆうか町民バスって他県民も乗ってOKなの?
いくつか系統があるけどよく分かんないよ。
間違ったのに乗っちゃったら近くの停留所通らない。

そんなことを考えていたら こともあろうに、
「乗ろうとした時間は平日のみ運行」というマヌケ事案が発生。
休日ダイヤのバスまで1時間休憩という強制イベントとなった。
…色々不安はあるが、本塩釜駅前から乗車。
車掌さんが聞いている地元のラジオを聴きながら
病院や学校前、仮設住宅前などを巡り約30分。
七ヶ浜町の先端「館下」に到着。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075315j:image
田んぼがあり あとは道路がどこかへつながっている。
そして開店前のようだが道の駅のようなモノが一軒ある。

道の駅(らしきもの)は
神社を見た後なら開いているだろう…
ということでまずは目的の神社へ行くことにする。
グーグルマップが無ければまず通らない、
ちょっと広めの私道のような道を通り神社に到着。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075320j:image
今回の目的地・鼻節神社である。
管理人的には、あまりに海に近く先端にあって
あとは名前が気になってアンテナに引っかかった。

ただ、バスに揺られ(そして酔い)ながら調べたところ
アニメ「かんなぎ」に出てくる神社のモデルと判明。
俗にいう”聖地”というヤツである。
鳥居の前に痛車が停まっていたのも納得…。

管理人はアニメ(むしろテレビ自体を)ほぼ見ないので
どんな感じで画面に登場しているかは分からない。
しかし、一応記事を書く前に漫画「かんなぎ」全12巻を読んでみた。
残念ながらナギちゃんは、水に関係あるカミサマではなかった。
※アニメを作るにあたり具体的なロケ地を、ということで選定されたので、
 漫画のキャラ設定に鼻節神社が関わってこないのは当然の話ではあるが。

かんなぎ聖地巡礼者じゃないので、
ファンの喜びそうなアングルとか分からないからね!
適当に撮っていくからね!(電池がもう無いし!)

*鼻節神社*
先程の赤い鳥居をくぐると道が2つに分かれている。
そして、どう考えても歩きやすそうな方をえらぶと
コチラの「裏参道」となる。
立派で表参道っぽいが、これが裏なのである。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075338j:image
階段がすべて苔むしているのか
最強に滑るのでご注意を(雨の後だったせいか?)
そして今年は、ココでもキノコが豊作。
タマゴタケっぽいキノコ↓などが出迎えてくれた。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075352j:image
f:id:ko9rino4ppo:20170924075411j:image

ツルツルの階段を上っていくと、
電話ボックスくらいの御堂的なモノが。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075429j:image
覗いて見たら、神馬舎でしたとさ。
なかなかリアルな造りで
特に耳の反り具合とか鼻先がイイ感じ。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075442j:image
その奥には、山神社・稲荷神社・天神社。
それぞれ、字山神・字三月田・字八ヶ森にあったものが
明治24年にコチラ鼻節神社に合祀されたと言われている。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075450j:image
そして不動明王の剣のようなものがある…
と思いながら歩みを進め、ふと狛犬を見てみると
なぜか大量のダンゴムシ?ワラジムシ?が付いていて
虫嫌いならば あわや悲鳴をあげそうなグロ画像に。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075504j:image
そして、千葉でのことを参考にすると
海に落ちていたものを誰かが拾った碇だろうか。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075511j:image
かなり無造作に置かれている。
碇自体が有り難いものと言うわけでなく、
海に落ちているとワダツミさんが怒るから拾ってきた。
という意味であれば丁寧に置く意味はないということだろうか…。
拝殿は小さいながらも新しく、綺麗になっている。
神社では鈴だけのことが多いが
お寺でよく見るような鰐口も設置されていた。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075522j:image
祭神はサルタヒコもとい岐(くなと)の神。
※加えて、アメノタヂカラオ または
 「鼻(=花)」の文字からコノハナサクヤヒメと言う異説も。

鎮守の森の木立のむこうには海が広がっている。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075850j:image
さて、拝殿周りをザッと見たところで
管理人的メインイベント「表参道の鳥居」を見に行く。
バスから降りて陸路でここまで来たのが裏参道だが、
表参道は陸でなく海からのアプローチとなっている。
勿論海が怖いので海のほうまではいかないが、
この表参道の鳥居が見たいのだ。

結構な高台だと思っていたが、
表参道への石段を下りていくと波音が近づいてくる。
そしてとっても虫が多い。ブンブン飛んでくる。
波音と蜂の恐怖に怯えながら、
石段横に生えているキノコを心の拠り所にして下っていく。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075920j:image
f:id:ko9rino4ppo:20170924075926j:image
そして、階段を下りきると
今朝まで降っていた雨の水が小川のように流れていた。
長靴持ってくればよかったー!(;゚Д゚)
f:id:ko9rino4ppo:20170924075935j:image
でもそれ以前に、もう波の音が結構そこまで近づいて…
ブログ的には「表参道から見える海!」とか撮りたいが
もはや、ここから先には一歩も進める気がしない。

*表参道の鳥居について*
いいんだ。私の目的は海ではなく
この鳥居なんだ…!
f:id:ko9rino4ppo:20170924075941j:image
皆さんが見慣れているのは
おそらく長方形の扁額だろうと思うが、
ココの扁額は三角形なのである。
f:id:ko9rino4ppo:20170924075956j:image
どうして三角形なのかはわからないが、
この後に寄った吉田神社も三角扁額のある神社。
(携帯の電池が限界を迎えたので写真はここまでだが…)

一般的に 水神である弁財天の神紋が
鱗や波を表す三角形であることを考えると、
やはり「水神信仰の場であるから」三角形なんだろうか。

海無し県の出身者にとって猿田彦といえば岐(くなと)。
つまり枝分かれや辻の守り神 ひいては道・案内の神。
しかし、彼を猿田神(さたのかみ)と呼ぶ土地もあり、
その「さた」とは岬と似たような意味だという説もある。
九州最南端の佐多岬・四国最西端の佐田岬など
「さた」と付く岬が多いのもそのためだろうか…。

ともかく、だとすれば猿田彦は 陸の道に限らず
海に突き出した土地から航行をも見守る神ということになる。
水神では無くとも、水の安全に関わる神という意味で
サルタヒコを祀る神社に水と繋がりそうな三角扁額があっても
まぁ不自然ではないと言ってよさそうだ。

*鼻節という名前について*
では祭神について少し考えたところで、
次に「鼻節神社」の名前の由来は?と調べてみると、
なんと「猿田彦神の鼻は長く、節があったため」と書かれている。
長い鼻に さらに節 ってどうゆうことやねん。
異様すぎるし、地形が由来かと思っていたので予想外すぎ!

とゆうのも、「鼻」は(主に西日本で)
岬を表す言葉として使われることがあるからだ。
ちなみに、鼻節神社付近に「花渕」という地区があり、
その土地を治めていたのは花淵家という地方豪族だったそうで。
とすれば、神社名も元はハナブシでなくハナブチだったかもしれない。
「淵・渕」は水を湛えた場所、
「縁」は境界または最も外側、という意味がある。
「海に突き出た土地のフチの部分」という意味の地名であれば
「鼻縁」が一番地形や立地にふさわしい表記だろうか。
地形が先か、権力者の名前が土地と神社に付いたのか。

あとは、もはや妄想だが
ハナプ(ブ)シ はアイヌ語地名だ!というのはどうだろう。
そうすれば
「朝廷が蝦夷平定の拠点とした宮城、
 それも鹽竈神社の摂社であるハナフシ神社が
 蝦夷の人々が使っているアイヌ語の名前ではうまくない」
という理由で無理な由来をこじつけてまで
大和民族風に漢字表記されたことも納得である。

猿田彦の鼻に節」は鼻節神社だけでなく
鹽竈神社の社伝にも同じような内容が書いてあるそうで。
陸奥の国一ノ宮の社伝にケチ付けたいわけじゃないんだけど。
いつもの妄想癖ですよ(*´з`)そんなこともあるかなーって。
まぁサルタヒコ自体がもはや鼻節神と呼ばれたりもしていて
調べれば調べるほどいよいよ分からなくなってきました…。


*大根神社について*
ところで、この神社の裏番長ではないかというのが
拝殿の脇にひっそり建つ小さい祠。
我々が普段見られるのは 小さい社だけだが、
なんと ココから7kmほど沖合にある岩礁の上
つまりは海中に本当の社殿があるのだという。
f:id:ko9rino4ppo:20171004070615j:image
双子のように社が並んでいるが、
実際の大根神社(というか奥宮という扱いらしい)も
東宮・西宮 2つの社殿があるという。
ちなみに松島湾七ヶ浜町東松島市に囲まれているが
この東宮と西宮は別の行政区に属しているそうだ。
Wikipedia先生によると、
東松島の宮戸島沖には現在も大根島が現存。
また、鼻節神社は垂水山という山に建っているが、
東松島には垂水鼻という岬があるそうだ。
海上にあった大根神社を中心に
地名なども対を成していたということだろうか。
ちなみに御祭神は住吉神・大海神・猿田彦らしい。
ああ、もしかして三角扁額も
住吉さんやワダツミさん関係なのか?

でも、近くにある吉田神社
祭神がアメノウズメだがやはり三角扁額がある。
(アメノウズメはサルタヒコ(鼻節神)の妻神)
もはや三角=海神関係という既成概念が間違ってるのか?
ちょっと三角扁額については情報が少なすぎて
もっといろんなところを回ってみたいところ。

余談だが今も大根海神社例祭は行われ、
例祭では海中の社殿付近からアワビを獲って
最も大きなものを神饌として供えるという。
また、干潮の時には実際に
社殿の一部が見えることもあるのだとか!

例祭気になるなぁ。7月かぁ。
来るのは大変だけど是非見たいなぁ。

そんなこんなで携帯の電池が切れてしまったので
今回はこの辺で。
この後、ちゃんと道の駅に寄って
土地のモノをいろいろ買いましたとさ。

モチロンお土産だけでなく自分にも。
f:id:ko9rino4ppo:20170924080004j:image
「招福 ネコの手マドレーヌ」
朝から何も食べていなかったので超おいしくいただきました
(*´ω`*)

盆に、もう一度 産まれる。(牡鹿半島編)

前回の石巻市街から、バスで約1時間。
絶え間ない霧雨の中、牡鹿半島の中ほど・荻浜に到着。
半島の先端エリアにも見たい展示は多かったが、
神社にも時間を使いたいので中部エリアだけにしておく。
このアートフェスのポスターにも使われている名和晃平の作品。

結構メインの展示っぽいから混むんだろうか、
海辺だけれど何時に行くのが綺麗に見えるんだろうか、
とかいろいろ考えてみたがイマイチ海辺の風景のことは分からない。
山で湖を撮る時は、朝霧があったり あまり日が高くない時間が綺麗だ。
ということで一番先にココを目指してみた。
f:id:ko9rino4ppo:20170909091544j:image
この地域では震災以前から牡蠣の養殖が盛んであり、
被災後も徐々に復興して 現在は養殖が再開されている。
県道から「牡蠣剥き場」を通り抜け、灯台へ向かう径。
昨日から降り続く雨で、浜への道はぬかるんでいる。
そして、あんまり人はいない。

今回は「有名だからとりあえずコレを見よう」というわけではなく、
名和晃平の作品との出会いは2009年「VOCA展」。
チラシに写真が載っていたから目玉作品の1つだったんだろう。
ビー玉のような透明な球で覆われた 鹿だったと思う。
その時は これってどんな意味かなぁ。とボンヤリ思っていたが
それから度々名和さんの作品に出会うにつれ、
雪とか 鍾乳洞とか 雲とか そういう自然しか作れない美しさを
ポッと会場に出現させる”魔法”のような印象を受けるようになった。

その名和さんが牡鹿半島に展示した「White Deer(Oshika)」
f:id:ko9rino4ppo:20170909091801j:image
この日のシカさんは 霧雨の中、
多くを奪い 多くを与えてきた海をジッと見ていた。
本当に鹿の角は 生命力あふれる夏の森のようで美しい。
f:id:ko9rino4ppo:20170909091810j:image

そのほか、この周辺には鈴木康弘さんの「ファスナーの船」↓もある。
f:id:ko9rino4ppo:20170909091824j:image
浮いているだけでもカワイイのだが、
これが動くと水に広がるV字の軌跡が まるで
見えないファスナーを開いたように見えるという作品だ。

そして県道まで戻ると「はまさいさい」という食堂があるわけだが、
その脇に急な参道が続いている。
震災前(つまり管理人が大学生だったころ)来たことがあったので、
それ以降どうなっているのか気にはなって居たのだが…
結局、福島や岩手に行くことが多く今回まで来られていなかった。

注連縄を見ていただいてもわかるように風が強く、
強風×霧雨のタッグを前に 管理人の傘など何の効力も示さなくなっていた。
f:id:ko9rino4ppo:20170913204825j:image
この神社は「羽山姫神社」と呼ばれる。
読みがどこにも書いていないが、ここの住所が「葉山」なので
ハネヤマヒメでなくハヤマヒメなんだろう。
宮城県神社庁の神社検索では「葉山神社」として登録されている。
境内でキノコの大群(?)発見。大きさもなかなかのモノ。
f:id:ko9rino4ppo:20170913204911j:image
なんとなく、今年は宮城にかかわらずキノコが多い印象がある。
梅雨が明けてからの長雨のせいか?
さておき、この神社は大漁・水難除け・家内安全の神様だそうだが、
境内には案内板は無いように見える。
神社庁の登録では祭神は「羽山姫」ではなく「羽山津見」。

ハヤマツミはカグツチの死体から成った神とされている。
「成った」ってどういうこと?というと…

男神と女神から「産まれる」のでなく何かの拍子に、
例えばイザナギが黄泉の国から帰還し川で身を清めたときに
左右の目からアマテラスとツクヨミ
鼻からスサノオが発生(?)したというパターンだ。

そのイザナギは黄泉の国へ行く前、
カグツチ出産により妻が命を失ったという
怒りと悲しみから我が子・カグツチを斬り殺した。

そのカグツチの「手」から生まれたのがハヤマツミ。
同時に、山の神の代表格・オオヤマツミなども生まれている。
(この時カグツチから生まれたのは山の神ばかりである)
たくさん生まれた山の神だが、その中でハヤマツミは何の神か
というと勿論「ハヤマ」のカミということになる。
枕草子などで「山の端(やまのは)」といえば
山と空が接する場所。つまり山の輪郭のことだが、
逆にハヤマは「端山」または「麓」と表記されて
山の「麓(ふもと)」という意味となるらしい。
つまり、大勢いる山祇の中では里に近い山祇ともいえる。

想像の域を出ないが、
この荻浜のように沿岸で牡蠣の養殖をしたり
逆に津波の被害を受けたりする場所では
海を見渡すことが出来 すぐ避難場所となる「ふもと」は
「てっぺん」より大きな意味を持っているのかもしれない。
f:id:ko9rino4ppo:20170913204925j:image
以前 例祭は9月上旬に行われ、神輿が出ていた。
住宅地だけでなく湾内も巡行していた記憶がある。
後で調べたら 3.11当時、
祭に使う神輿もこの高台に保管されていたため無事だそうだ。
震災後に例祭を撮影した写真もネット上で何枚か発見。
地元ではないが少しホッとした。

そして、ここの狛犬も洋風というか
なんとなくガーゴイルを思わせる顔立ちをしている。
体もスラッとして、小顔である。
f:id:ko9rino4ppo:20170913204941j:image

そこからバスで少々移動すると荻浜小学校に着く。
やや高台にある校舎のため震災自体での被害は少なかったが、
学区内の住人が移転し児童数は一桁となってしまったため休校中だ。
移転した住人が戻るメドは立たず、
このアートフェスが終わったら閉校となる可能性もある。

この会場では、地元に根付いた作家さんの展示が多いということだ。
コチラの教室にはクジラの骨などを使った作品。
f:id:ko9rino4ppo:20170913205007j:image

音楽室。
母校ではないが、きっと誰もが懐かしいと感じる雰囲気。
ココには毎日朝を撮り続けた静かな藍色の写真が並ぶ。
f:id:ko9rino4ppo:20170913205032j:imagef:id:ko9rino4ppo:20170913205046j:image
まだ「一日が始まった」という明るさに満ちていない
夜の寒さが横たわった朝だ。
海や、草や、石、人の作ったモノ。
いろんなものが藍色に包まれている。

そして図書室。
そういえば管理人は非常に本を読むのは好きだったが
小学校の図書室に居る時間は短く、
いつも借りては下校の道すがら歩きながら読んでいた覚えがある。
グンマーの歩道に人が少ないから成せる業かもしれない…。
f:id:ko9rino4ppo:20170913205101j:image

屋上に出ると、磯の香り。
タコなどが干してあり漁師さんの写真が展示されている。
f:id:ko9rino4ppo:20170913205115j:image
以前の荻浜小学校は、
小規模校ながら地元の産業や文化とつながりの深い
地域密着型の教育が特色だったと聞く。
この学校らしい展示なのかもしれない。
f:id:ko9rino4ppo:20170913205134j:image
猟師さんとは話したことがあるが、
漁師さんは直接会ったこともほとんどないなぁ。
小学生だった管理人に沖縄の浜辺で
巨大なタカラガイをくれたオジサンは漁師さんだっただろうか。
とか、なんだかいろんなことが思い出される。

そして敷地内には、近くで採集した枝でできた動物たち。
f:id:ko9rino4ppo:20170913205153j:image
やはり鹿なんだな。
上空(写真では校舎2階と3階の境目)には鳥もいる。
校舎内でも、いたるところに小さな鹿などがいた。

すごくリアルに作られているわけではないが、
雨の中 誰もいない中庭で対峙した鹿は
その大きさや存在感がどことなくホンモノっぽく感じた。

そのまま体育館へ行くと
パルコキノシタさんの「幽霊でもいいから」が展示されている。
2012年に都心のほうで同名の個展があったが、
そこで見た時よりも現実的に感じた。
被災地で見るからだろうか。海のそばで見るからだろうか。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211342j:image
作家さんにとってカテゴライズというのは失礼なのかもしれないが、
ポップな絵で シビアだけれどどこか人間を抱きしめたくなる
管理人の中では今日マチ子さん↓と似た色合いを感じる作家さんだ。

みつあみの神様

みつあみの神様

 
いちご戦争

いちご戦争

 

さておき、
「幽霊でもいいから」というタイトルには
大事な人であれば たとえどんな形でも戻ってきてほしい
と そう思うのではないかという想いが込められているそうだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211357j:image
外にあったモノも家にあったモノも
全てがひと固まりのガレキの山になってしまった、
きっと あの光景を見たからこそ生まれた この感じ。

一方のこちらは
人の作ったものは皆無な海と山の世界に
制服姿の女子学生が描かれている。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211414j:image
遠くに大きな水の壁。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211425j:image
絵は全体的に水色が多く陰影がはっきりしている。
勿論水を扱った作品だからということもあるが、
2012年の個展の時にこんな説明だか記事を読んだ。
「色覚障害を持つ人にもバリアのない絵を」
どういうことかと言うと 色覚障害を持つ多くの人は
赤と緑の差が分かりづらい。
色覚異常の種類にもよるが)

普通に見えている人にとっては
いわゆる「反対色」である2色の違いが分からない
というのはどう見えているのか分かりづらいかもしれないが…
たとえば翡翠と桜貝の色を想像してほしい。
つまり彩度や明度が同じくらいの赤系統・緑系統の色が並ぶと
そこから赤と緑の色味の情報だけが抜けてしまうので、
おなじような黄味がかった灰色に見えるという。

どうもうまく想像できないな…という方には、
色覚異常の状態をシュミレート出来るスマホアプリもある。
コレでその辺の風景を見ると、
抜け落ちている色が多いので違和感を感じると思うが
このパルコキノシタさんの「幽霊でもいいから」の絵を見ると
違和感が少なく見えるはずだ。

さて、話がズレてしまったが、この荻浜小学校の中に
もう1つ同作者の作品がある。
「います」という作品で、会期中も作者が仏像を彫り続けている。
ので、本人に会えるチャンスもあったようだ。
残念ながら管理人は本人には会えなかったのだが…。

この作品は 円空が作ったような素朴で小ぶりな仏像を3978体。
つまり東日本大震災における石巻の死者・行方不明者の数だけ作る。
というものである。
ネット上では「インスタ映えする」みたいな記事も多かったが、
管理人はなんとなく写真を撮れなかった。
岩手の遠野伝承館にある「オシラ堂」を思い出したからかもしれない。

岩手の民間信仰である「オシラサマ」。
馬と娘 または男女の2柱1組とされることが多く、
昔は各家に一組ずつ 遠野の多くの家に祀られたという。
それがここ最近では
「古民家や神事を維持し続けられない」という人もいて
このオシラ堂にある千体のオシラサマの中には
そうした家から引き取ってきた物もあるということだが。
霊感とか何にもない管理人と言えども
2柱で一族を守れるほどのカミサマが一堂に千体集まっている
その光景には眩暈のようなものを感じた覚えがある。

その感覚と、少し似ていた。
でもそれよりは少し暖かく、
本当はそれぞれに家があり家族がある この人たちを
家族に訊きもせず撮って良いだろうか?
という不思議な遠慮という感じだった気がする。

でも、その光景は圧巻だったので
行けなかった方は是非 ネット上にたくさん写真があると思うので
いろいろ見ていただきたいとは思う。

3978という数字で済まされず重みを感じてほしいから
本来漫画家だった作者は「立体」を作ったそうだが、
もう1つ 海の力で起きた災いを 「山の力」で取り戻せるだろうか、
という気持ちから仏像の材料には 石巻の木が使われているそうだ。

誰も来ない 雨の中。
しばらく木仏と向かい合ってボンヤリする ステキな時間だった。
余談だけど、この方は学校教諭だった時期もあるので
そういう意味でも小学校ってゆう展示スペースと親和性高い人かもな
と考えたりもした。

さらにそこから歩いて数分。
檀家のほとんどが被災し地域の家屋も津波に遭い
本堂も流されてしまったという洞仙寺さんがある。

そんな被災状況にも関わらず 寺にあった聖観音像は、
本堂が流された際にその瓦礫の上に無傷で残っていた!
というから驚きだ。
その観音様を祀る「みまもり観音堂」ができたということで、
今回はその真新しい御堂も拝んできた。
観音様の足元には 震災の犠牲者の数とほぼ同じ
約2万個の石が 写経をして納められているという。

そんな洞仙寺さんの敷地内に
管理人の好きなChim↑Pom(チン↑ポム)の作品がある。
学生のころから「何なんだコノ人たちのめちゃくちゃなエネルギー!」
と思って その動画や作品を見てきたのだけれど。
そんな彼らが 福島第一原発の事故後まもなく、
渋谷駅構内に展示されている岡本太郎「明日への希望」の
第五福竜丸の下に なんと煙を上げる第一原発を描き足した(貼った)。
日本の被爆の系譜をたどる超有名な絵と
展示場所の都合で不自然に欠けたスペースを生かした
イムリーなその反応に大興奮したのを覚えている。

そのChim↑Pomが今回「ひとかけら」と題して出展。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211439j:image
突如、地下へ続いていく入口登場。
階段を下りていくと、冷凍の食品庫のような分厚いビニルカーテン。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211452j:image
「手放しで安心して見られるような作品じゃないだろう」
という変な期待から チラッとカーテンを捲ってみる。
冷気!圧倒的冷気! よく見たら、カーテンの裾には霜。
入り口に防寒着があるが、とりあえず着ないで入ってみる。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211505j:image
コレ↑は写真なので明度を調整できるが、
真っ暗い中で宝石ケースのようなものだけが眩く光っている状態。
このケースの中で、遺族たちの涙が 凍らせてある。
そういう作品である。

作品の見た目だけで言えば
おそらく「凍らせて」も「乾燥させて」も
あまり変わらないと言ってしまえるかもしれない。
涙は水ではないので 乾燥させても結晶が残る。

それでも敢えて
涙の展示ケースの中だけを冷やすのでなく
この寒いコンテナの中で 真っ暗な中で観るようになっている。
なにか、意味はあるのかもしれないと思った。

例えば、防護も無く長時間留まると命にかかわること。
例えば、単純に寒さと暗さに晒されること。
例えば、こんなにも大掛かりに守ろうとしないと消えてしまうこと。

見る人によって 感じ方も感想も大きく分かれそうだが
管理人はそんなことを考えた。

さぁ、皆様お忘れかもしれないが
管理人は霧雨×横風によりずぶぬれなのである。
それがヒョイと冷凍コンテナに入ったので
それはもう服が凍りそうな寒さでしたとさ…。

そしてずぶ濡れな上に冷え切ったまま バスを待つこと数十分。
やっと石巻駅行きのバスが。
寒さにボンヤリしたまま 牡鹿半島脱出。渡波駅ちかくで下車。
少し歩くと、伊去波夜和気命(いこはやわけのみこと)神社がある。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211518j:image
この神社津波の被害を受けた神社であり、
地震で崩れた鳥居は今も参道脇に寄せられ
土台からは残った鳥居の足元部分だけが立っている。f:id:ko9rino4ppo:20170913211724j:image
イコハヤワケというのは単体の神様の名前でなく

・サルタヒコ
タケミカヅチ
・フツヌシ
・アマテラス
・トヨウケ(クライナタマ)

の5柱のユニット名らしい。
前回の記事でも紹介した通りタケミカヅチとフツヌシは
東北を平定したと言われるカミサマたち。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211627j:image
サルタヒコは地祇(クニツカミ)でありながら
アマテラスから遣わされた天津神を案内したという特徴から、
塩土老翁シオツチノオジ)と同一視されることも多い。
シオツチノオジ(=塩竃明神)は
陸奥国一ノ宮・鹽竈神社の祭神であり宮城にとって大事な神様。
タケミカヅチ・フツヌシが東北を平定し去った後も
宮城に残り漁業や塩作りを教えた神とされている。

太陽の女神・アマテラスと穀物神・トヨウケは
それぞれ かの伊勢神宮の 内宮と外宮におわすカミサマ。

そんな感じで、天津国寄りのメンバーになっております。

境内には可愛らしい色の絵馬が奉納された絵馬堂や
結構堂々たる大きさの道祖神さんが。金精さまと言うべきか。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211538j:image

境内の掲示板には津波襲来後の写真。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211553j:image
鎮守の森があったために瓦礫が堰き止められて
拝殿・本殿は何とか倒壊せず。
拝殿に逃げ込んだ周辺の住人も助かったという。

そしてここの狛犬も…
全く狛犬らしくない。
なんかやっぱりガーゴイル風とでも言おうか…。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211559j:image
実は狛「犬」じゃなくてこの辺の神社には
犬じゃないやつがいるとか…(それはないか)
と考えていると、なんかちょっと見慣れた感じの狛犬発見。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211612j:image
…なんか口が真正面過ぎる気もするけど…

あと、この辺の祠はちゃんとカーテン(?)があって
中が見えないようになっているものが多かった。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211638j:image
確かに 大きい神社の神事とかでは
御神体が見えないように白い布で覆って遷座したりするのに、
一般的な祠はオープンな感じで落ち着かなそうだ。
これなら神様たちも安心(?)だろう。
今度行くことがあったら、
どの辺までが祠に布をかける文化圏か見てきたいところ。

ちなみに、境内の奥のほうには
2013年にライオンズクラブの寄進により完成した祖霊社がある。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211710j:image
なんといってもインパクトがあったのは、
この現代風というかレゲエ的色彩のイザナギイザナミ夫婦。
※個人の感想です
f:id:ko9rino4ppo:20170913211648j:image
f:id:ko9rino4ppo:20170913211657j:image
なんというか、
今まで見た日本神話の神様の絵の中で
おそらく一番パワーを感じた。

このあとは渡波駅から終点・女川まで電車の旅。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211801j:image
駅前にはいくつが店が並び
地元の美味しそうなものも色々売っていて、
なんと新生・女川駅には温泉ができていた。
しかしいつものことながら弾丸ツアーなので、
ここでは低血糖を起こさない程度に美味しいものをつまむ。
駅前のほんの数十mは店が並んでいるが、
その先には未だ復興を待つ土地があった。
f:id:ko9rino4ppo:20170913211750j:image
もうだいぶ長くなってしまったところで、
牡鹿半島からは出たことだし
ココらで一度切ろうと思う。
この日に寄った鼻節神社については次回別記事で。

今回の宮城旅行では、
仙台に転勤した大学の友人に会うこともでき
宿まで提供してくれた。
いやぁ日々ふらついている野良管理人を泊めてくれる
皆皆様に感謝ですなー。
(*´ω`*)

盆に、もう一度 産まれる。(石巻市街 編)

盆も、もう過ぎちゃいましたねー。
しばらく記事を書くのをサボっていたが、
神社へはちゃんと行ってたよ(=゚ω゚)ノ!
しかし、今回は神社少なめ記事。

今年の盆は石巻へ行っていたので
「何の祭に行ったの?」
と友人たちに訊かれた。

ご期待に沿えなくて申し訳ないが、
今回の目的は日本的な祭でなく芸術祭だったのだ。

「Reborn-Art Festival 2017」。

3.11の被災地でもある石巻市街と牡鹿半島
アート作品や音楽・料理などの展示・提供が行われている。
地域と運営者や作者、そして訪れた人たちで
地域が前に進む力を「生み出す」とともに、
Art(語源は「生きる術」という意味のArs)を「再生」するイベント。
(あくまでこれは管理人の理解で、正しい原文はイベントHPを読んでいただきたい)

単に芸術作品で人集めをして被災地を元気に!
というだけでなく、
生きる術という意味でのアートを再興する。
というのは なるほどフムフムと納得。

とはいえ折角石巻まで来たので
地元の神社にもいくつか行ったわけで…
なんか石巻にはこういう↓体型(?)の狛犬が多い。
犬やライオンのようにどっかり座る!というよりは、
猫のように狭い範囲にシュッと座っているような。
f:id:ko9rino4ppo:20170815214851j:image
そして、かたやシュッとしていない狐。
これは別に石巻全域の狐がこうというわけではなく、
市街にある「鹿島御子神社」の境内に居た狐だ。
f:id:ko9rino4ppo:20170815214903j:imagef:id:ko9rino4ppo:20170815214914j:image
何みたいとも言い難いが、初めて見る雰囲気の狐である。
ポケモンのスリーパー系(?)
なんでこんなにホリが深い しかめっ面なんだ…。

さておき、この鹿島御子神社にいるカミサマについてだが、
「鹿島」といえば鹿島神宮などに祀られるタケミカヅチ
地震除けの神としても名高いが、もとは武神である。
管理人が大好きな諏訪大社におわすタケミナカタは、
このタケミカヅチとの力比べに負けたため諏訪に逃げ込んだという。

鹿島御子、ということは そのタケミカヅチのお子さん!
という意味であるが、残念ながら 父ほどのエピソードが残っていない。
天足別(アマノタリワケ)という名前だとは伝わっていて、
父のタケミカヅチやフツヌシ親子とともに東北平定を行ったという。

東北へ遠征してきた彼らの船は 現在の石巻周辺に停泊。
一説には、その碇(いかり)が海底の石を巻き上げたので
その土地に「石巻」という名が付いたとも言われている。

そのためか宮城には アマノタリワケの名を頂く神社が多く
鹿島天足別神社・鹿島天足和氣神社などがある。
(いずれも、読みは「かしま-あまたらしわけ」・祭神はタケミカヅチ
また、福島・南相馬市にも 同名の「鹿島御子神社」がある。

東北を平定した後、タケミカヅチたちは地元に帰ったが
アマノタリワケはこの地にとどまり治安を守ったともいう。

その位置や伝承の内容から、これらの神社群は
大和民族の東北平定・開拓の拠点となった場所か?
と考えることもできなくはない。
現に、石巻から電車で数十分で「多賀城駅」だが、
歴史の授業で出てきた通り多賀柵は「対蝦夷」の軍事拠点。
その近くの塩竃神社周辺は「塩竃丘陵」と呼ばれる地形であり、
かつては勢力の境界だったと伝わっている。

宮城県伊達政宗推しのため 多賀柵は観光資源としてイマイチだが…
今やアラサーとなった管理人もかつては
胆沢城と多賀城の位置がどうしても覚えらえない中学生であった。
ので、厄介なコイツ(多賀城)のことはよく覚えている。

まぁ話がズレた上にいつも通り神社の話ばかりしているが、
宮城がかつてそうした土地であったということを踏まえると
神社におわす神様がどのような立場で鎮座しているのか分かりやすい。

ちなみに、鹿島御子神社拝殿のすぐ隣には道真公が祭られていて
その社は「日和山天満宮」という。
銚子の長九郎稲荷の記事にも「日和山」という地名が登場したが、
沿岸の港町にはよく同じ名前の山がある。
漁師さんたちが天候を予測するため海や空の様子を見た場所だろう。
この神社があるのも日和山という山であり、
このように↓河口や海の様子がよく見える。
f:id:ko9rino4ppo:20170815214951j:image
ちなみに御覧のとおり日和は最悪である。
すいませんねぇ皆さん、連休なのに 雨女が来たせいでねぇ…。

しかし、そんな雨のなか参道にはヒマワリが咲いている。
f:id:ko9rino4ppo:20170815215003j:image
管理人は、花のつぼみ
とくに、柔らかく優しげなのではなく
こうやって中身を守ろうとするアーマーのようなのが好きだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170815215023j:image
実は、このヒマワリを植える活動を引っ張っているのは
フラワーアクティビスト・志穂美悦子さん。
若い人は知らないかもしれないがアクション女優であり
あの長渕剛の妻でもある!

もちろん、彼女だけが中心となって植えたのではなく、
地元の方や 被災した鹿島御子神社の再建を望む方など
いろんな人の協力の賜物だ。

今回の芸術祭とは直接関係はないようだが、
ヒマワリで被災地を元気づけようとゆう考えのもと
海が見える参道の石段に1000粒の種が蒔かれたそうだ。

なんとなくだが「海が見える参道」と考えたときに、
私たち「コチラ側」から海がみえて その場所にヒマワリ。
というだけでなく海の彼方に行ってしまった人たちの
「アチラ側」からも ちゃんと見える場所かもしれないと感じた。
もちろん、体が海の奥へ行ってしまった人たちも
もう気持ちは家族の近くに戻っている!と考える人も多いと思う。
だから、これは管理人がふと「海からでも見えるね」と思った。
というだけの話だ。

市街地側から神社までは店があり住宅があり
そこには「暮らし」を感じるのだけれど。
その石段を下りて鬱蒼とした樹の中を抜けていくと、
その先は本当に何とも言えなかった。
f:id:ko9rino4ppo:20170815215036j:image
春に行った福島では神社参道に
津波到達地点」という石碑が多かったように思うが、
こう「襲来の地」と書かれると痛みが増す感じがする。

そして 芸術祭に行ったにもかかわらず、
ここに作品があるとは全然知らなかったのだが…
f:id:ko9rino4ppo:20170815215049j:image
増田セバスチャンさんのNew Generation Plant #2。
透明なキノコのような植物の中身は
この人の作品らしい極彩色だ。

もっといい表現があるのかもしれないが、
管理人の目にはいささかビビッドすぎる。
初めて他の作品を東京で見たとき
きゃりーぱみゅぱみゅかよ!圧が強いよ!」
と思ったら、きゃりーの美術演出自体 この人だったという…。

しかし、重要なのはその色使いだけではなかった。
というのを知ったのはCINRA.NETに掲載されたインタビュー記事。

https://www.cinra.net/interview/201704-masudasebastian

このキノコの中身は彼と共同で制作した美大生たちが集めたものであり、
この集めるということによって
美術畑にいた美大生たちは社会の中のアートの位置を知り
作品には若者のエネルギーが詰まっていったという。
是非興味がある方は読んでみてほしい。

このキノコ的なもののすぐそばには
震災後に作られた可愛らしいお地蔵さまがあるが、
周りは建物がほぼ無い。更地にただただ草が生えている。

信号機は一方が赤、もう一方が黄色の点滅。
車両はトラックがほとんどだった気がする。
f:id:ko9rino4ppo:20170815215104j:image
f:id:ko9rino4ppo:20170815215135j:image
ただただ、日本製紙石巻工場へ続いていくまっすぐな砂利道。
こんな店も無い道を身長150cmの管理人が歩いていると
車両の誘導をしている警備員さん的な人が 
「子供が迷ったか?なんだろう?」
というような顔で見ていた(ような気がする)。

ここを少し進んで海側へ曲がると間もなく
草だらけになった土地に小さな稲荷神社がある。
「善海田(ぜんかいだ)稲荷」という少し変わった名前だ。
実は震災後、ココのご神体は 先ほどの鹿島御子神社に移された。
津波で 社殿が基礎部分のみを残して押し流されたからだ。

製紙工場を背景に、
ティム・バートンの絵本のような独特な木が印象的だ。

f:id:ko9rino4ppo:20170815215157j:image
一度は土台だけになり、周りは瓦礫だらけだったそうだが
小さな石の祠にはキレイに御札が納められ 狐の姿も見える。
大事にしてもらっているようだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170815215210j:image
神社としては1000年以上の歴史があったらしく、
古くは「川口與志宇美明神」と呼ばれていたそうだ。
なので元は「ゼンカイ」でなく「よしうみ」だったことがわかる。
また、川口というのは(まぁ地名かもしれないが)
近海でなく河口での漁を見守っていた明神様ということかもしれない。

以前の例祭の様子などを写真で見ると
ずいぶんにぎやかな様子だったのが窺える。
こうやって伝統は少しずつ形を変えていくんだろうか。
形は変わってもいいから10年、20年経ったときに
「平成の震災以前は例祭が賑やかに行われていた」
という文字だけの姿になってしまわないよう
鹿島御子神社の祭としてでも何とか続いてくれたらと思う。

そして、コチラの善海田稲荷の本拠地(祠)も
善海明神の歴史と震災の碑として、
(社殿がこの場所に再び建つことは無くとも)
ずっと地域の人に大事にして行ってもらえたらいいな。
しかし 今は「ココに住んでいて被災した人たち」に守られているが、
月日が経って「ココで育った人」が居なくなったら?
それとも、その頃にはまたここにも人が住むだろうか?

そういえばメディアや書籍で、
「震災後に幽霊の目撃談が多数報告されている」
という内容をよく見かけるが
この地区は津波の被害が大きく度々その記事の舞台となる。

色々な本や記事を読んでみるが、
その体験談の1つ1つが「恐がらせようとしている」のでなく
見えないのに確かに「かつて そばに居た人を感じる」話だからこそ、
それはただの怪談でなく 人と人の物語になり
災害や死というモノの受け止めかたの形を教えてくれる。

今まで読んだ中で一番印象的だったのは
「死者が生きている者をケアする」という一文。

災害に遭ったり身近な人を亡くした人が
どのように考え、苦しんだり乗り越えていくかというのは
どちらかと言うと民俗学より心理学の範疇かもしれない。
が、この話が個人の体験から語りになり集まることで
この類の話は今後 民俗みを帯びていくような気がする。

あまり専門書寄りにならず、
町の書店さんでも置いてありそうなのはこのへんか。

呼び覚まされる 霊性の震災学

呼び覚まされる 霊性の震災学

 
魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

魂でもいいから、そばにいて ─3・11後の霊体験を聞く─

 

「霊性の震災学」は、「学」と付いているだけあって
客観的・分析的な空気を少し感じる。
「魂でもいいから、そばにいて」は
電車で読むと多分泣くので一人で部屋で読もう。
(´・ω・`)←電車で読んで鼻垂らしてた張本人 


畑中先生が「蚕」の出版記念イベントで言った
「タクシーに幽霊じゃなく河童が乗ったら精神的復興のしるし」
というような言葉をふと思い出した。

大切な人を失った人たちが その見えない姿を語り、
その語りが降り積もって いつかその集合体が
ある人と その大切な人の話から 災害と 人と 奪われた人と
というボンヤリした輪郭で描かれるようになったとき。
それが、幽霊が妖怪に姿を変える時なのかもしれない。

そんなことを考えながら、また人里に戻ってきた。
先程の善海田稲荷さんが守っていたであろう「川口」。
旧北上川の河口である。
f:id:ko9rino4ppo:20170815215234j:image
河口の中州に作られた「中瀬公園」。
宇宙船のような独特な形の建物は石ノ森萬画館
何をかくそう宮城は、漫画家・石ノ森章太郎の故郷である。
彼の出身は登米市石森町であるが石巻は第二の故郷とも言われ、
石巻駅や市街のいたるところに
サイボーグ009仮面ライダーの像や装飾がある。

ここも震災、というか津波でだいぶ被害を受けたが
震災の翌年末には営業を再開したと聞いている。
残念ながら、管理人は石ノ森章太郎の漫画を読んだことが無い。
ので、あまりグッと来なかったわけだが
道行くオジサンたちが少年のように写真を撮りまくるのを見て
ああ、さすが巨匠なのだなぁと勝手にしみじみしていた。

さて、この中瀬には作品を見に来たわけだが
レーザーによる作品なので暗くなってからでないと見られない。
なので、先に腹ごしらえとする。
朝から何も食べておらず管理人の血糖値はもはや低血糖寸前である。
毎度被災地周辺に来たら
なるべく全国チェーンでなく地元のモノを買おうと思っている。
でももうフラフラなのであまり歩きたくない。
ので、すぐそこにある「いしのまき元気いちば」へ。

2階には何やら温かい食べ物もあるようだが、
疲れているのでそんなに食べられる気がしない。
というわけで、1階の販売コーナーでかりんとうとブッセを購入。
f:id:ko9rino4ppo:20170815215250j:image
普段あまり好んで洋菓子は食べないが、
ずんだなら食べてみてもいいかもしれない…。
ということで、店の外にあるベンチで大きなリュックを下ろし
ずんだブッセを食べましたとさ。やわらかい味で うまし。
空腹で大してパッケージを見ずに買ってしまったが、
かりんとう酒粕味だった。これも優しい味。
酒粕味ってあんま粕漬けとかのイメージしかないけど、
甘酒的な感じで甘いお菓子にも合うのね。

そんなこんなで、
出入り口すぐのベンチで遠慮なくモグモグし
あまつさえ居眠りなどしていたら暗くなってきた。
ので、もう一度 中津へ。
中津の先の方に展示があるため、
海が苦手な管理人にとっては結構な恐怖である。
小さな中津は先に行くほど両わきから水の音がする。
川なのに、もう すぐそこが海のせいで
流れるのでなく打ち寄せる音がする。

もともと自由の女神があった所より さらに先。
(…と言っても地元の人しか分からないか)
近づくとだんだん見えてくる光。
カールステン・ニコライ「石巻のためのstring(糸)」。
f:id:ko9rino4ppo:20170815215329j:image
ただまっすぐ上へ伸びる光線。
私は、震災で親しい人をだれも亡くさなかった。
だから、そういう人たちがこれを見てどう感じるか分からない。
ただ、いくら心の中で「空の上に居る」と考えても
届かない誰かの存在を描き切れないこともあると思う。

そんな時、雲のむこうと 自分の建つ地面が
一本の糸で繋がっているのが本当に見えたら。
思い描くのと何か違う 確かなつながりを感じるかもしれない。

震災と津波で、本当にたくさんの
モノや人が目の前から消えてしまった。
そのあとで、見えないものの存在や力を感じる一方
見えるもの 触れられるもののチカラってすごかったと思う。
…そんなことを少し考えた。

もう1つ印象的だったのが雨。
管理人は雨女なので、もちろん着いた時から降り続いていた。
昼間は何とも思わなかったが、
この光の糸が地上から雲の上に向いているのを見て
ああ、それとは反対に、空から地面に雨が降っている。と思った。

この糸が 地面に残った人たちが空へ向ける気持ちなら、
この雨は 遠くへ行った人たちが地上へ向ける気持ちだろう。
いや、むしろ 盆だから
想いとか気持ちとかじゃなくて 本人たち”そのもの”かもしれない。
そんな気持ちになった。
f:id:ko9rino4ppo:20170815220949j:image
私も神式葬儀経験者ではないので正確な所までは分からないが、
神道の弔い」というのは仏教とずいぶん違う。
日本の仏教では、
死後・葬式後も亡くなった方は「個人」として三途の川を渡り
裁判(?)や刑を受けたり、阿弥陀様のもとで説法を聞いたりする。
そして葬儀や法事というのは、
地獄での刑が軽くなり早く浄土に行けるようエールを送ること。
(というイメージを勝手に持っている。)
エールと言うと語弊かもしれないが、
①いいところに行くには 故人の生前の善行が足りない
②お経をあげたりして徳や行を補充してあげる
③合格ラインまで押し上げてあげよう!というイメージか。

一方、神道の葬儀はというと
それは、故人が「人」だったころにくっついた汚れを落とす
いわば「ピーリング作業」ではないか?と管理人は認識している。
そしてツルツルの綺麗な状態になったら、
すでに他界したご先祖様のカタマリみたいなものの一部になる。
そのカタマリが、カミサマ的に この世の生活をサポートしている…
というようなイメージを持っている。
「ご先祖様のカタマリってなんやねん!」
と言いたい方もいそうなので その場合は、
カミサマの国に行くのに相応しくなるよう
けがれを落とす「お風呂」が葬儀であるとでも言おうか。

ここでいう神様というのはあくまでも
仰々しく国家や勢力を感じる(アマテラス的な)神様でなく、
ご先祖様たちが みんなでその家系の末裔を見守るというような
素朴な 国家レベルでの記録には残らないくらいのカミサマである。

何が言いたかったか分からなくなってきたが、
盆というモノを仏式に考えれば
「家の門で迎え火を焚いて先祖をお迎え」
というよくある盆の風景になる。
でも(盆自体仏教行事だが)神式に考えたら、
「ご先祖様のカタマリが 地域に帰ってくる」
という状態になるんだろうか。
この雨みたいに、どんどん空から降ってきて
田んぼや 建物や 人に沁みこんでいくんだろうか。

そんな風に考えれば、
盆に1日中 雨に降られるのも悪くないと思った。
次回は、やはり雨の中 牡鹿半島に行ってきた記録の予定です。
(=゚ω゚)ノ!

遊郭しのぶ 吉原神社。

*吉原神社*

今週来てみたのは、東京都台東区の千束にある「吉原神社」。
小さいながらも、御朱印をもらう人などで賑わっている。
f:id:ko9rino4ppo:20170611215245j:image
狛犬↓は、どことなくエキゾチック(?)な面立ち。
ペルシア系というか、なんというかね。
※個人の感想です
f:id:ko9rino4ppo:20170611215359j:image

さて 吉原といえば遊郭だが、
ここ千束は特に「新吉原」と呼ばれた場所。
最初の吉原(元吉原)は人形町のあたりだったが、
後ほどこちらに移転したのだそうだ。

この吉原神社にはどんな神様がお住まいかというと、
おなじみ ウカノミタマノカミである。

吉原の出入口というのは非常に限られていたわけだが、
その出入口・大門付近に玄徳(よしとく)稲荷。
そして、敷地の四隅を囲むように
榎本・九郎助・明石・開運という4つの稲荷社があった。

そのためだろうか。
新年を迎える江戸の町では「獅子舞」が演じられたが
年末の吉原では獅子でなく 「狐舞」が行われたという。
御幣と鈴を持ち 狐の面をかぶって踊る姿は、
吉原の年の瀬の風物詩としていくつかの錦絵に残っている。

そういえば
女衒に買われた少女が勝気で美しい花魁になる姿を描く
「さくらん」安野モヨコ・作)でも、
年末の大掃除をする場面で狐舞が描かれていた。

必需品を堅実に売る商売ではないからこその
客足の流れの速さ 流行れば湯水のように湧く銭。
まさに御客様あっての「水」商売である。
お稲荷様は出世・繁盛が得意分野であるから
朝な夕なに手を合わせざるを得なかったことだろう。

そしてさらに、
妖狐・妲己の如く美貌で城も国も傾けるが傾城。
※傾城(ケイセイ)は遊女の異名
女郎は色恋を演じて狐の如く客を化かす。
狐と遊女にはそんなイメージのつながりも
もしかしたらあったのかもしれない。

そんなわけで花街をぐるりと囲んだ5つの稲荷社が、
明治に入って1つに集められ大門付近に合祀された。
そして吉原に隣接していた弁財天も同居することになり、
これが現在の吉原神社のモトとなったのである。
f:id:ko9rino4ppo:20170611215316j:image
↑拝殿の提灯には、ちゃんとすべての稲荷社・辨天様の名前が。

*お穴様*

さて、その拝殿の向かって右に
末社のような小さな社がある。
f:id:ko9rino4ppo:20170611215409j:image
説明書きを見ると「お穴様」と書かれていて、
なんでもカミサマは社の中ではなく
なんと地中にいらっしゃるのだとか。
祭神が何かなどは詳しく書かれていなかったのだが、
なんだか気になる神様である。

ちなみに 上野・穴稲荷も別名:お穴様と呼ばれているが
この吉原神社のお穴様との関連はハッキリしない。
ただ、その「御穴」という名称から穴稲荷は
性病予防の神として非常に信仰されていた!
と聞いたことがある。
だとすれば、こちら千束のお穴様も名称からして
同様の御利益が期待されたと考えても良いのだろうか?
(もしくは、上野から吉原へ御招きしたとか…)

御穴様のそばには天燈鬼・龍燈鬼↓。
この2人のファンとしては、
木造の精巧な像とはまた違う様子も可愛らしい。
f:id:ko9rino4ppo:20170611215420j:image

*弁天堂本宮*
さて、吉原神社から歩いて数分の場所に
現在吉原神社に分祀された弁天様の本宮がある。
管理人は個人的にはコチラの方が好き。

まず、ココが昔どういう場所だったかと言うと
吉原に接する「花園池」という池であったそうだ。
そして、その池に浮かぶ島に弁天堂があったという。

花園池の弁天堂なんて、花街らしいなぁ
と思うが、花街が花園なのは「男性にとって」である。

飢饉の絶えない雪深い田舎から買われてきたら
毎日綺麗な服を着て満足な食事なんて夢のようだろうが、
一方で年季が明けるまでは 辛くとも病になろうとも
身分のある人に見初められ請け出される他は、
死ななければ大門から出ることはできなかった。
そして、年季を待たずして亡くなれば無縁仏として
死体遺棄の如く寺に放り込まれたと言われている。

病気をもらいませんように。
客が付いてくれますように。
今日のお座敷も無事過ごせますように。

先に紹介した五稲荷をはじめ弁天様・お穴様にも
吉原の女性たちはどれほど願ったことだろうか。

そんな身の上を苦にした遊女たちの放火も度々あり、
また敷地内での火事が延焼することもあり、
この吉原では おおよそ20年に一度ほどの頻度で
「大火」と言うにふさわしい大火事が起きた。

その中でも最も大きな被害をもたらしたのは
関東大震災による火災ではないかと言われ、
本宮の境内中央には遊女の慰霊のため観音像↓が作られた。
f:id:ko9rino4ppo:20170611220126j:image
境内に入ってすぐ、敷地の真ん中に高い岩があり
周りは花や石仏で囲まれている。
そしてその岩の上に観音像が衣を靡かせ立っている。
写真を撮るとちょうど木々の間から光が差して
まるで観音様から後光が差しているようである!

境内にはいくつかの新聞記事や写真が張ってあるので
是非訪れた際には見て読んでいただきたいのだが、
コチラ↓が関東大震災による火災の様子である。
f:id:ko9rino4ppo:20170611220431j:image
黒煙と炎の中で 逃げ惑う女性たちが描かれている。
この時、ここまでの大きな火災にもかかわらず
吉原では商品である遊女たちが逃げ出さないようにと
大門を閉めて閉じ込めたとも言われている。

そして、逃げ場を失いながらもどうにか助かろうと
池に飛び込んだ遊女たちは折り重なり
溺死した者もいれば圧死した者もいたのだそうだ。

当時どれくらいの規模の池で
吉原にはどれほどの女性がいたか分からないが
境内の写真を見る限りでは最早
池に水など溜まる余地もないほど人が折り重なっている。

逃げ場を失ったのは門が閉まったせいであり
つまりそれは火災ではなく人災ではないか…というところだが
こんな吉原未曽有の大災害であってもその死者の数は、
年季を待たずに亡くなり寺に投げ込まれた遊女の数には
遠く及ばないというのだから悲しい話だ。

現在は弁天堂を囲むほどの池は無く、
小さな池で所狭しと鯉が泳いでいる。
f:id:ko9rino4ppo:20170611220140j:image
新しくなった弁天堂に鮮やかな壁画を描いたのは
美大の学生さんやOBさんだという話だ。
f:id:ko9rino4ppo:20170611220205j:image
f:id:ko9rino4ppo:20170611220214j:image
中を覗くと、中央には見慣れた姿の小さな弁天様。
江ノ島に祀られている「妙音弁財天」と同様、
一切の衣をお召しになっていないようだ。
そして、奥にどっしりと構えるのは八臂弁財天だろうか。
手の本数はよく見えないが、六臂は珍しいので八臂か…?
頭の上には宇賀神(ウガジン)も居るようだ。
じいさん顔の蛇で、微妙に気持ち悪いカミサマだったりする。
(ココのは髪を二つに結っているので女性かもしれない)
f:id:ko9rino4ppo:20170611220230j:image
吉原神社の方は「神社」なので合祀された弁天様も
「祭神:イチキシマヒメ」とされてしまっているが。
コチラの本宮では「宮」とはいうモノの
本来の仏教的なお姿を見ることができる。

水商売というのも、
昔よりは自由な働き方ができるようになっただろうが
昔と最も変わらない仕事かもしれないとよく思う。
知人がそういう世界で生きているので、
なんとなく管理人としては 
他人事とは思えないと言ったらおかしいが。
そんな感覚がある。

まぁ浅草という土地柄、
歌舞伎町のように夜のおねぇさんは多くないが
無念の遊女を弔うにとどまらず
現代のおねぇさんたちもお守りください。
と手を合わせる管理人だったとさ。

ちなみに、
この吉原神社の近所に浄閑寺という寺院がある。
近所と言っても少し歩くが、
そこが吉原の「投げ込み寺」であり今も慰霊塔がある。
時間と興味がある方は、
是非そちらにも寄ってみていただきたい。

神倉神社のゴトビキ岩。

*神倉神社と石たち*
前の記事に書いたが、クジラの町・太地には
あまり安く泊まれる普通のビジネスホテルがない。
なので、数駅離れた新宮で宿泊したわけだ。

最初は太地だけが目的地だったので
今回は熊野系には手を出すまいと思っていた。
(ゆっくり見るにはGWでは足りない気がした)

しかし、いつもはネットカフェに泊まっている管理人。
ビジネスホテルとはいえちゃんとしたベッドに寝たら
リラックスし過ぎて寝過ごしたわけですよ(笑)
大した寝坊ではないけれど、5時に起きるつもりが6時。

乗ろうと思った電車には間に合わず、
紀伊本線は本数が少ないので結構時間ができた。
そこで、出来心で行っちゃったんですね~。
神倉神社↓
f:id:ko9rino4ppo:20170524224213j:image
下調べ全くナシなので
「あれぇ、あんな山の中に鳥居みたいな色が見えるよ!」
※管理人はすこし視力が悪い
みたいな軽い気持ちで、神倉神社だとは思わずに…(オイ
まぁとりあえず吸い寄せられちゃったんです。鳥居見えたんで(笑)
こんな近くまで来て、神倉神社と気付かずに
電車まで時間があるから行ってみようなんてノリで…
もはや無茶をとおりこして無知!(ノД`)・゜・。
神社のブログを書いている人間とは思えない!
f:id:ko9rino4ppo:20170514213222j:image
遠くからは緑に埋もれた拝殿しか見えなかったが、
御膝元までくると立派な橋が現れた。
橋をわたると正面に
サルタヒコさんと三宝荒神さんの社がある。
三宝荒神さんについては「台所の三宝荒神さま。」に書いたので
細々したことについては省略。
特徴としては 明王様のような憤怒相で穢れを厭離し、
”仏法僧”=三宝を守る、荒々しいカミサマ=荒神
なぜサルタヒコさんと一緒に居るのかは調査中。

さて、それを横目に左折すると 立派な鳥居と
源頼朝が寄進したという石段がそびえ立つ。
f:id:ko9rino4ppo:20170514213248j:image
階段が「そびえ立つ」というのも おかしな表現だとは思うが
まさにそんな感じなのである。
あとで調べたら、階段は全部で538段あるらしい。
のぼれども、のぼれども、目前には段があるばかり。
f:id:ko9rino4ppo:20170516220237j:image
長野・布引観音の経験から
階段下にあった木の杖を迷いなく手に取ったが
やはりそうして正解だった…(´・ω・`)

そして、やっと到着。
f:id:ko9rino4ppo:20170514213328j:image
朝早くから、観光している家族連れが2組いた。
しかし、管理人がゆっくり見ていると
家族連れは写真を撮ったりしてアッサリ去って行った。
こんなに気持ちがいい場所なのになぁ。

人の声がしない。風が吹いている。

ここの風に当たっていると
風が体に入ってきて渦を巻くような感じだ!
(/・ω・)/ウォオオオ!
…あ。管理人はオーラが見える人とかじゃないので、
単純に朝の澄んだ空気でテンションあがったダケっす。
騒いですいませんね。

でもなんというか、
神社とか神様のいる場所というのは
「なんかココ気持ちいいわ~」
「いいところだしカミサマにはここに住んで戴くべ」
みたいな感じで決まることも多いのではと思う。

もしくは、スサノヲのように神様自らが
「やべぇ、超すがすがしい!新居ココにするわ!」
という場合もあったりね。
※スサノヲとクシナダの新居・須賀神社の話。
 (正確には清々しかったのは気候でなく彼のキモチである)

勿論、危険や苦しみのある土地だからこそ
救いを求めてカミサマが作り出された!
というパターンもあるけれども…。

さておき、こちらが名物(?)
神倉神社の「ゴトビキ岩」である。
ゴトビキとは新宮の方言でヒキガエルのことだそうな。

あまり目立たないようにとっているが、
ゴトビキ岩のすぐ下でヨガだか座禅を組んでる
旅人っぽいお兄さんがいた。
f:id:ko9rino4ppo:20170514213343j:image
神倉神社の祭神は
アマテラスとタカクラジ(高倉下と書く)ではあるが、
このゴトビキ岩が「御神体」とされている。
そして、実際この岩の 周辺からは経塚の形跡や
さらに昔の銅鐸なども見つかっているのだそうだ。

なので、おそらくこの場所は
神社という人工的な形になる以前から
岩に対する信仰が盛んだったのだろう。
「神倉」は「高倉下」と関連して「倉」なのか?
と一瞬思ったが、
イワクラ(磐座)という言葉のことを考えると
カミクラ=神座 つまりカミサマのいるところ
というのがモトの意味なのかもなぁ…。

とも思った。
ちなみに磐座というのも
信仰対象となる石や岩のこと。
つまりカミサマだったり、そのいる場所。

 

*熊野・信仰レイヤー*

レイヤーってコスプレイヤーじゃなくて
あの写真加工ソフトとかで重ねていくヤツね。
下書きレイヤーとか、線画レイヤーとか。
(熊野信仰コスプレイヤー、ある意味気になるが)

この神倉神社とか
それに関する神様がイマイチつかめないのって、
おそらく熊野が聖地すぎて神道にも仏教にも
それどころかもっと原始的な宗教でまでも特別視されて
その結果、レイヤー重なり過ぎたせいだと感じるのだ。

いろんな口伝や書物とか、別のレイヤー上にあるものが
あれもこれも同一視されたりこじつけられた結果
「レイヤーがすべて統合」された状態かな。
と、管理人は思った。
…某ア〇ビのフォト〇ョuserでない方、
イメージ湧きませんよね…すいませんねホント。

どんな伝説や歴史にも
「実はこうだった説」とか
「地元ではこんな伝説も」的なのはある。
だが、熊野の場合どれもこれも大御所(?)過ぎて
どれが大モトだか見えづらい!
自分で調べていてそう思った。

たとえば、
神倉神社でいえば
原始信仰レイヤーでは信仰対象は岩。
しかし神道レイヤーではアマテラスとタカクラジ。

そして日本書紀レイヤーで
カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇である)
が登ったのが天磐盾という山であるが、
いつの間にかこれが
天磐盾=神倉山であるという話になっていた。

さらに、
日本書紀レイヤーでは東征の経路の一部
というだけだった天磐盾が
「それってリアルでいう神倉山よ」
ということになってしまったがために

熊野権現が最初に降臨した地=神倉山」
という熊野権現レイヤーが重なったとき
天磐盾=熊野信仰の聖地!
ということになったわけだ。

そのうえ、当の熊野権現
「本宮」「速玉大社」「那智大社
3柱の神を合わせて熊野権現と呼ぶよ!とか
本宮に居るケツミコ=阿弥陀如来
速玉大社のハヤタマオ=薬師如来
那智大社のフスビ=千手観音
それぞれの神様に対応する仏様がいるよ!とか
それ以前に那智大社って元々は
修験道の修行をする場所だったから
「3社」の仲間じゃなかったよ!
とかいろいろなことを言い始めるので
それは もう大混乱である。

やはり、
そのうち那智には行きたいが
さすがにその時はよく勉強していかねば…
と思う管理人でしたとさ。



*タカクラジって誰だ*

レイヤーはまぁいいけど、
それ以前にアマテラスと一緒にいるの誰よ?
という方もいらっしゃるはずだ。

タカクラジノミコト
というとカミサマっぽいのだが、
彼じつは一般男性(?)である。
日本書紀に登場するのだから
何かしらの身分はあるのかもしれないが、
それにしてもカミサマではない。

では一体何をした人かというと、
熊野にやってきたものの
地元勢力にてこずって遂には気を失った
カムヤマトイワレビコに剣を持ってきた人物。

この剣、ただの剣ではない。
タケミカヅチ紀伊を平定した時に使用したもの。
つまりプレミア付きである。
ではどうしてそんなスゴイものを
人間であるタカクラジが持っていたのだろうか?

実は難航しているイワレビコを見て
アマテラスがタケミカヅチに言ったのだ。
「アンタか治めたあの辺、また騒がしいわよ」
「行って何とかしてしなさいよ」
それにこたえてタケミカヅチが言うことには
「俺が行くまでもねぇ。平定に使った剣でも落としとくわ」

そして、はたして
なぜかタケミカヅチは剣を落とす場所に
タカクラジのうちの倉庫を選んだのである。
タケミカヅチ
「お前んとこの倉庫に俺の剣落とすから、
 それイワレビコに持ってってやってくれよ」
といった夢を見たタカクラジは夢告の通りに動き
イワレビコの窮地を救ったわけである。

こう書くとイワレビコは主人公なので
冒険を繰り広げるヒーローのようだが、
地元からしたら攻めて来たヨソモノである。

某海賊王になる漫画で
「正義が勝つのではない、勝ったものが正義なのだ」
というようなセリフがあるのだが、
これもまさにそうだという気がする。

イワレビコが勝ち進んだので正義になっただけの話。
そのために日本書紀古事記では
地元民がよく分からない部族や動物のように描かれ
簡単に殺されたりしてしまう。
さらに、古くから信仰対象になっていた岩の横に
敵であるイワレビコの祖先であるアマテラスと
彼を助けたタカクラジが祀られている始末である。

気持ちのいい場所なのはサイコーだが、
たった一言「誅された(=悪人を討った)」
とゆう表現で登場するのみの地元勢力は
実際どんな存在だったのだろう。
と風の中で考える管理人でしたとさ。

次回はちょっとそんなことも話をしたいなぁ
(*'ω'*)

太地にのこる 捕鯨の足跡。

*クジラの町*
先日の記事ではとりあえず
飛鳥神社と恵比須ノ宮だけに触れたわけだが。
今回はもう少し「人-神」の形跡でなく
「人-鯨」の足跡を辿る内容を書いていこうと思う。

そんな管理人をまず迎えてくれたのは
親子のクジラ像である。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194231j:image
今まで、大きなクジラ像と言えば
上野の東京科学博物館にあるやつしか見たことが無かった。
しかし、前回も書いたように管理人は海が怖いのだ。
少し坂の横を覗けばすぐ 港や 波立つ海があって、
丘にいても色々な方向から波音が聞こえてくる太地。
地面に立っていても大海の真ん中に立たされているような
空恐ろしい気分になるわけである。

海に慣れ親しんだ人は「こわがりすぎ」と笑うだろうが、
その恐怖の中でこの巨大な像と
あろうことか目が合ってしまったのである。
魚とは違う、こちらの心の中まで見えていそうな目である。

像ですらこの有様であるから、
幼少期に渡嘉敷島あたりを船で通ったとき
船からザトウクジラの尾が見えた時は何とも言えず
眩暈がするような気分だった。
(人様はお金まで払っても見たがる光景なのだが)

まぁ、もはやこうなると
すべてからクジラ圧力(?)を感じ
こんな平面に書かれた絵ですら
「トンネルに入ると周りをクジラに囲まれるのでは」
という謎の発想に至るようになる。(クジラ恐怖症か)
f:id:ko9rino4ppo:20170508194247j:image

*クジラを供養する*
そんな謎の恐怖症に震えていた管理人だが、
昨日の記事に書いた「てつめん餅」を食べて
少し元気を取り戻した。

そして、その亀八屋さんから少し歩くと
コチラの東明寺さん↓に到着。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194328j:image
海に面した街の神社仏閣は高台にあることが多いが、
東明寺さんも道から幾分階段を上って本堂という立地。
津波が意識されているだろうという気はする。

階段を上がるとすぐ、
植込みの中に魚籃観音様らしき像があった。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194413j:image
魚籃観音というのは、
魚の入ったカゴを持っているのが特徴で
魚売りの美しい娘の姿で漁村に現れた観音様だ。
日本では、千手観音や十一面観音に比べると
だいぶマイナーな観音様ではあるが…
こうした漁業の盛んな港町などでたまに見かけたり
刺青として背中に彫ってある人も見かける。

そして、こちら↓が
お目当ての「鯨供養碑」である。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194425j:image
説明を読むと、
捕鯨に携わっていた浜八兵衛さんが建てたそうで
「鯨の殺生の罪が許されるよう皆で法華経を唱えた」
というようなことが書いてあるのだそうだ。

日本には色々な供養塔があるが、
このように文が書かれているとは限らない。
単に「〇〇供養」と書かれた石碑から、
人がどのような気持ちで建てたのかというのは
なかなか見えづらい。

なので「鯨の冥福を祈って」的な建前でなく
「自分たちの罪が許されるよう」という
本心に近い言葉が明記された この供養碑は貴重だ。
動物を殺さざるを得ない生業の人が感じた
「恐怖」「うしろめたさ」がよく表れた文だと思う。

*日本の供養・インドの供養*

突然だが、
管理人は「日本の信仰の特徴は?」と聞かれたら
なんとなくこの「供養」という概念が
その答えの1つではと思っている。

いつかの記事で もしかしたら書いたかもしれないが、
供養という言葉自体はサンスクリット語を意訳したものだ。
しかし、ヒンドゥー教での「供養(プージャー)」と
日本の「供養」というものは考え方が少し違うと思う。

そもそも対象からして「プージャー」は
神様や力を持った霊に向けられていることが多い。
そして、それは
神や霊に香や食物を「供え」て
その力を「養う」という意味合いが強い。

一方で日本の「供養」の対象は
亡くなった人、狩った動物、食べた魚介
使い古した道具にまで至る。
しかし神様がその対象になることは少ない。
それは、どこか大事に手を合わせ「弔う」と同時に
どこか「憐れむ」ような「償う」ような…
そしてその殺生を「許されたい」というような。
そんな気持ちが底の方に流れているからなのかもしれない。

*大背美流れ*

しかし うしろめたさ、とは書いたが
何も人が一方的に強い立場からクジラの命を奪って
自分たちは良い思いばかりをしていたというわけではない。
というのはこちらの碑の謂れからもわかる。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194517j:image
こちらは「漂流人記念碑」。
記念碑というと、どうしても良いことのようだが…
コレは古式捕鯨で100人ほどの漁師が一度に犠牲になった
「背美流れ」を後世に伝えるため建てられた碑である。

日本で起きた海難事故の中でも最も大規模な部類
といわれるこの「背美流れ」は明治11年の年末のこと。
不漁続きで逼迫した状況だった太地で鯨発見が知らされた。
それは非常に大きい上に子連れのセミクジラだったという。
古くから太地では「親子の背美は夢にも見るな」と言われ、
通常であれば捕鯨の対象にすることはなかったはずだった。

しかし、もはやなんとしても鯨を獲らねば
村は年も越せないような状況だったということだろうか。
太地の鯨方は午後に漁へ出て、普段は獲らない母鯨を捕えた。
しかし、その時点で既に翌朝になっていた上に
西 つまり沖の方への風が強く、
いつにもまして大きな鯨をつないだ舟は沖へと流された。
そのうえ寒さの冴える年末のことである。

そこまでが今でいうクリスマス。12/25のこと。
船団の中には沖に米と水を届けてもらう必要があるため
一端村に戻って状況を報告したものが居たそうで、
この時点ではまだ漁が続けられる可能性があったようだ。

しかし、いよいよ26日ごろには村も大騒ぎになり始めた。
そして、沖では一度捉えた鯨を手放し
帰港を優先せざるを得ないという判断が成された。
泣く泣く鯨の綱を切り 舟同士を綱でくくって漕ぐが、
食料も尽き 体温も奪われ 体力も残り少ない状況。
一向に浜に近づくことはできず
ついには舟同士の綱も切って何艘かでも帰港を試みた。
しかし結局は風で運よく陸に打ち上げられた三艘程度が
マグロ船に助けられて生還したのみであった。

というのが「背美流れ」の大筋である。
この鯨方は全盛期1000人ほどで構成されていたとはいうが、
洋式捕鯨への転換期には構成員も多少減っていたはずだ。
そのうえ不漁で逼迫した最中100人もの働き手が亡くなる
というのは鯨方が壊滅状態になるには十分だっただろう。

しかし、それ以降も洋式捕鯨の導入などはありつつも
現在まで捕鯨の町として名を残している。

*燈明崎*
f:id:ko9rino4ppo:20170508194606j:image
さて、そんな漂流人記念碑を通り過ぎ
しばらく歩くと「燈明崎(とうみょうざき)」に着く。
先程の背美流れでも「鯨発見の知らせがあった」と書いたが、
古式捕鯨では高台から海を見張り、
鯨を見つけると狼煙を上げて海上の鯨方に知らせたそうだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194615j:imagef:id:ko9rino4ppo:20170508194626j:image
「燈明崎」の石碑の手前に
お地蔵さまと神道っぽいカミサマがいた。

「古式捕鯨支度部屋跡」↓は今はただの空き地。
高台の見張り場(山見)で働いた人たちが
休息や食事をとる場所が「支度部屋」である。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194726j:image

そして、山見台の正面(?)には小さめの神様。
鳥居は大きめでしっかりしている。
地図などにはあまり社名は乗っていないが、
どうやら御崎神社というらしい。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194750j:image
おおきくはないが、恵比須ノ宮と同じくらいだろうか。
放置されてボロくなっているという印象は無く、
お賽銭箱なども比較的最近新調してもらったようだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194803j:image

位置関係としては、こんな感じ。
写真左側から歩いてきたわけだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194831j:image
f:id:ko9rino4ppo:20170508194846j:image
そして、これが山見台跡。
ここで夜明けくらいから海を見張り鯨を探していたわけか。
先程の案内図が無ければここが先端かと思ってしまうが、
この山見台の先に「燈明崎」の名前の所以たる燈明台がある。

その燈明台がこちら↓だ。役目としては「灯台」。
夜間に通る舟に場所を知らせるための灯りである。
現在は使用されておらず、
山見台も燈明台も資料を基に復元されたもの。
つかわれていたころは鯨油を燃料としていて、
一晩灯すのに3~4合は必要だったようだと書かれている。
f:id:ko9rino4ppo:20170508194947j:image
ちなみに、さきほど御崎神社の写真を見ていただくと
背景に石垣が写っているのが見える。
説明板によれば、これは燈明台を管理していた
新宮藩士の住居跡ではないかとのことだった。

海が怖いという割に、そこら辺に登るのは好きなので
この写真の後ろに写っている柵の二段目くらいに登って
海の写真を撮ってきた(/・ω・)/
f:id:ko9rino4ppo:20170513092047j:image

そして、いったん引き返して
もう一つの山見・梶取崎へ向かう。
燈明崎から梶取崎へは遊歩道でつながっているが、
燈明崎から引き返し遊歩道の方へ曲がる分かれ道に
コチラ金刀比羅神社↓がある。
注連縄ではなくロープっぽい綱がカワイイ(?)。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195024j:image
拝殿は瓦葺き。壁や柱は簡素な感じがした。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195034j:image
金毘羅(こんぴら)宮ではなく
金刀比羅(ことひら)神社という名前から、
ああ、ここにも神仏分離令の形跡が…。
と考えながら本殿を見に拝殿裏へ。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195044j:image
…!?
覆殿?覆殿なの?
何この珍しい形状…。

この中の本殿がどんな感じなのか気になったが、
雨が降る中ガッツリした覆殿に囲まれて暗くて見えなかった。
この辺の神社はこんな感じなのか?と思ったが、
別に飛鳥神社はこういう感じじゃなかったよな…。

ちなみに燈明崎から梶取崎への遊歩道には、
数メートルおきにこのような↓
鯨図鑑のようなパネルが立っている。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195012j:image
これは「背美流れ」の時に現れたセミクジラである。


文字が小さい上にはがれてしまっているのが残念だが
名前の由来や生態、見た目の特徴など細かく解説してあって
読んでいると なかなか楽しい。

雨の中、花も瑞々しく綺麗!
(雨女なので雨はあまり気にしていない)
f:id:ko9rino4ppo:20170508195110j:image
木の根元に、小さめのカニも見つけたが
写真を撮る前にどこかへ逃げてしまった…(´・ω・`)

さて、数十分歩くと梶取崎に到着。
東明寺さんのものほど古くはないが、
古式捕鯨船の上の鯨が乗ったデザインの鯨供養碑がある。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195132j:image
ここには、先ほどの燈明台よりだいぶ近代的な灯台があるが
その最上部についているのは風見鶏ならぬ風見クジラ。
かわいいぞ!(*‘ω‘ *)
f:id:ko9rino4ppo:20170508195142j:image
この灯台の脇から、古式捕鯨に使われた「狼煙場跡」に行けるのだが…
先端へと歩いていくと、
先ほどの燈明崎よりも海に突き出ている形状なのか
両脇が波の音に囲まれているのにまだ先へと道が伸びている。
え?なに?怖いんですけど。どこまでつづいてんの?
こんな細いとこがそんな先まで伸びてて大丈夫なん?
と頑張ってはみたが…

f:id:ko9rino4ppo:20170513092227j:image
結局この↑狼煙場跡を写真に撮るや否や
逃げるように灯台まで走って戻った。
無理。海、無理。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195216j:image
そして、もう海沿いは嫌なので
内陸を突っ切って「くじら博物館」へ向かう。

途中、抱壷庵さんという陶芸工房を見つけて
「たまにはお土産でも買ってみるか」と覗いたものの
奥の方に人の気配はあるが店には一向にだれも出てこない。
鍵が開いているので勝手にドアを開けて
しばらく商品を見てのんびりしていたが人は来ない。
選んでも店員さんがいないので買えないと悟り、退散。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195608j:image
この鯨のレリーフ?も売っているようだ。かわいい。
そして、さらに歩いて博物館到着。
結論から言うと、抱壷庵の方はどうやら
博物館で絵付け体験コーナーをやっていたようだ。
それならそうと「博物館でやってます」という張り紙がほしい。
ちなみに商品は、博物館のお土産売り場で買うことができた。

展示は古式捕鯨の様子のジオラマ↓や
f:id:ko9rino4ppo:20170508195304j:image
ほぼ実物大と思われる、
天井から吊られた鯨と捕鯨船の模型↓など
f:id:ko9rino4ppo:20170508195342j:image
昔のクジラ漁の様子が具体的に分かるものが多かった。
コチラ↓は鯨銛の種類の解説。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195417j:imagef:id:ko9rino4ppo:20170508195435j:image
壁いっぱいに貼られた捕鯨船のデザイン画も
シャープで素敵である。

そして、こちら↓が実物の1/10の模型。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195425j:image
コレを見ていた女性が
「え?コレのたった10倍て、小さない?小さいやろ!」
とずっと言っていたが、たしかに。
鯨というから大きな「船」で獲るかと思いきや
木の葉のような「舟」である。

一隻で引っ張ってくるのでなく、
「勢子舟で追って 網舟が張っている網に追い込む」
という方式ではあるがなんとすごいのだろう。

そんな歴史的・文化的展示がある一方で
あちらの柱には実物大のオスの性器の模型が。
そして、向かい側の柱にはメスの性器模型が。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195327j:image
2階にもまた別のオスの性器の模型が飾られているが
これまた「ミサイルか」という大きさであり
地元の「珍宝館」(一般的に言う宝物館)を思い出した。
そのほか、内臓や噴気孔、そしてイルカの胎児などの
ホルマリン漬けコーナーなどもあり
充実しているがおなか一杯感もある博物館だった。

ちなみに、そう巨大な博物館ではないが
鯨オンリーに関する博物館では世界最大級らしい。

さて、今回は
和歌山に来ておきながら熊野古道には行けなかったが
次の記事では宿泊した新宮にある
熊野にまつわる社について書く予定ですー。
(*'▽')

*おまけ*
紀伊本線は、ターコイズブルー
可愛いワンマン列車でした(*´ω`*)
f:id:ko9rino4ppo:20170508195854j:image

恵比須ノ宮の鯨鳥居(+α 飛鳥神社)

*電車の中で一苦労(雑談です)*
そんなこんなで、
大阪で見た雪鯨橋がこれから行く太地と深い関係にあった!
とゆう事実に御縁を感じながら電車に揺られること約4時間。
遠い。遠いぞ。
しかも後ろの席の女の子はテンションが上がってしまい、
アナ雪のLet it goを熱唱している。
車内で"ありのままの"元気を振りまかないでくれ…
と思いながらイヤホンで本家の歌声を聴いていたが、
幸い 女の子は和歌山あたりで降りた。

今回はそう長い滞在ではないので、
静かになったところで回る優先順位を決めるため情報収集。
いつも準備万端なほうではないので土壇場まで何か調べている…
(;´Д`A

そして悟った。これは、1日の滞在では足りない。
そして、太地にはあまり泊まるところがないことに気づき
特急のデッキで新宮のビジネスホテルに
片っ端から電話をかけまくる。
ゴールデンウィークに当日予約。
我ながら行き当たりばったりすぎるぞ!

しかも、やっと空いていそうなホテルがあったものの
名字を聞き取ってもらえない。
「それでは、ーーー様、1名様で本日ご宿泊ですね」
どうもさっきから砺波(となみ)と言われている気がする。
そして、念のため言い直すも
「あ、泊(とまり)様ですか!」
「ん…タミル、様ですか?」
おい、だんだん日本人じゃなくなってきているぞ⁉︎
中央アジア系?
特急からかけているから電波が悪いか?
いや、私の滑舌が悪いのかもしれない。
相手のせいにしてはいけない。
相手もあまりの聞き取れなさに動揺しているんだ。
「うーん、ミヤコにマルで、トマル、です」
「港に丸ですね?」
「ええと、東京都の都、に、牛若丸の丸、です」
「うしわかまる…」
「あー、えーと、数字の九に一本足したやつです」
こちらもあまりの伝わらなさに動揺しているのか
牛若丸とか九に一本たすとか、
全然わかりやすくない例しか出てこない。
丸ノ内とか、日の丸とか、他にもっとあっただろ!

*太地に到着*
まぁ紆余曲折を経て無事本名で予約ができ一件落着。
ちなみに、砺波は富山 泊は沖縄でよくそう間違われる。
そんな事件はあったが、無事 太地に到着。
タクシーなどは見当たらない、
駅前も特にコンビニもない、
特急が止まるのが不思議なような駅である。
しかも、予報は晴れだと友人たちが言っていたのに
私の雨女の力が予報を上回り まごうことなき雨である。
仕方なくフードをかぶって出発。

駅から少し歩くと、もう海である。
そしてそのまま
まずは、午前に売り切れてしまうこともあるという
太地名物・てつめん餅を求めて亀八屋さんへ。
住宅地、と言ってもかなり趣のある
撮影に使えそうな感じの場所にある。
看板は出ているが、
商品を見えるところに並べて売っているわけではないので
ウッカリ通り過ぎるところだった。

f:id:ko9rino4ppo:20170506145131j:image
私の前に買っていったおじさんは地元の人っぽいが、
どこかへ手土産にするのか10個くらい買っていった。
対して私は消極的に1個。
今日1日これしか食べない予定なので、
白と緑(よもぎ?)1つづつ買っても良かった気もした。
が…持って歩く間に雨でビチョビチョになるのは目に見えていた。
1ヶ110円なり。お安い。
あんこは管理人の好きな水分少なめ、こしあん。
まわりのモチはたよりない程に柔らかい。
うまし(*´ω`*)
f:id:ko9rino4ppo:20170506145220j:image
食べる前は
「名物ってクジラ肉とかじゃないの?」と思っていたが、
これは名物と呼ばれてしかるべき。

*薄命美男子とサビサビの剣*
なんとなくライトノベルの題名風だな…。
(´д` ;
なんというか雨の中傘もささずに
餅をかじりながら歩くというワイルド状態ではあるが
次の目的地「飛鳥神社」に到着。f:id:ko9rino4ppo:20170506145356j:image
詳しい説明版などはないが、
熊野信仰において重要な土地である「阿須賀神社」と
名前の音だけでなく祭神も同じようだ。
(その阿須賀神社についてはまたの機会に書くとして…)
祭神・コトサカノミコトは一般的に
縁切りの神として知られている。
一体何との縁を切る神社として建ったのだろう?

いや、単に
お隣・那智勝浦でブイブイいわしてる神様を
土地の守り神様として勧請したのか?
なぜコトサカノミコトかはわからないが、
捕鯨の町の氏神様なので絵馬は鯨である。
f:id:ko9rino4ppo:20170506145420j:image
ちなみに管理人には
「絵馬があったら片っ端から人の願いを読む」
という悪趣味な習慣があるが、
この神社にあった絵馬は たった1つ。
なかなか切実で具体性のある願いで、個人的にはいい。
そして、自分のある性格を変えたいという願いだった。
つまり、考えようによっては現在の自分の一部との縁切りだ。
叶うといいなあ。神様ではないながらに応援してます。

さて、この神社は御神体に少し特徴がある。
まぁ端的にいえば古い剣なのだが、
海に落ちていて漁師の網にかかったものなので
塩水でひどく錆びているという。
では誰が海に剣を落としてしまったのかというと、
平維盛(たいらのこれもり)という人物である。
源平好き(?)もしくは中世好きであればご存知かもしれないが、
平清盛の孫である。

早くに父を失い立場が微妙であったことなどから
度々周囲とぶつかっては止められ、戦の成績もふるわず、
二十代にして敗走の末に亡くなったという不遇な人物である。
しかし、美人薄命とでもいうのか
容姿は光源氏の再来と言われるほど端麗で、
初めて大将となった際の鎧兜姿は なんと周囲の男どもをして
「絵にも描けぬほど美しい」とさえ言わしむる程だったそうだ。
それは相当だな。

そんな彼が最後どのように亡くなったかには諸説あるわけだが、
一説には補陀落渡海(ふだらく-とかい)したと言われている。
つまり、入水自殺である。
補陀落とは観音様が住む山の名前(ポータラカの音写)。
そこに海を越え旅立つということなのだろう。
中世、那智では比較的盛んに補陀落渡海が行われたそうだが
一般的には高僧などが行うことが多かったようだ。
維盛も、落ち延びてから出家して熊野三山へ詣でた後に
那智の海岸から沖へ漕ぎ出したといわれている。

既に出家してこれから死のうという人間が
剣を帯びていただろうかという疑問もなくはないが、
僧が行う補陀落渡海でも決して浮き上がれぬよう
体に108の石を縛り付けたりすることがあるらしいので
もてる武具をすべて身に着けていた可能性もなくはない、か?
ちょっと細かい状況はわからないが、
ともかくその際に彼が落としたといわれている剣が
この飛鳥神社の御神体とされている。
もちろん、実物を見ることはできないわけだが。

*鯨鳥居と対面*
さて、この飛鳥神社の近くに
管理人がかねてよりお目にかかりたかった
小さな御宮「恵比須ノ宮」がある。f:id:ko9rino4ppo:20170506145605j:image
お宮自体は小さなものであるが、
鯨の肋骨で作った「鯨鳥居」ゆえに知る人ぞ知る神社である。
クジラとえびすと障害者 - とまのすを書いた頃だが、
管理人は「障害者と信仰」という視点で
一時期エビス(ヒルコ)にハマっていたことがある。
そのときに先の雪鯨橋と鯨鳥居を知った。



国内に現存する鯨鳥居は2つしか無いと言われ、
1つがこの和歌山・恵比寿ノ宮。
もう1つは長崎・海童神社のものである。
昔は日本統治時代の台湾や、色丹などにも数個あったらしいが。
そちらもきっと政治的な意味でも
神社ごとなくなっていたりするのかなぁ。

現在は、まだ一部の捕鯨が許可されているため
まぁなんとか劣化しても新調可能だ。が。
今後もし捕鯨が全面禁止になるか鯨が絶滅してしまえば
鯨鳥居は作れないということになる。

風雨による浸食ならば
コーティングか何がで防げそうなものだが、
万一 戦火や震災、津波で突然失われてしまえば
まぁおそらく守りようもない。

神社が昔の姿であり続けられるのは、
人の世が平穏なだけでなく生きものも豊かであり
その恵まれた状態であっても人が神様を重んじて
その住まいを保つことを忘れない。
という案外難しい条件が揃っているときなのだ。
そういう意味でも、
今や2つしかないが今後も鯨鳥居がずっとあってほしい
と思う管理人だったとさ。

管理人のたそがれは置いといて、
この恵比須ノ宮は小さいながら歴史はそこそこ古く
あの井原西鶴の「日本永代蔵」にもその様子が記されている。
f:id:ko9rino4ppo:20170506145643j:image
本当に大きさで言えば
どこかの末社かと思ってしまうような小ささなのだが
井原西鶴の文章を読むと、
そのころ既に盛んに信仰されていたようだ。
もしかしたら、昔はもう少し大きかったのかもしれない。

そもそも西鶴さんがどうしてこの土地を訪れたかというと、
「横手節」という小唄を聞いたからである。
まぁ江戸ではなく大阪の人とはいえ、
今でも4時間かかるのに当時は何日かかったのだろう。
だというのに、
「面白い小唄があったからその発祥の地を訪ねてみよう」
という軽い動機で すごいバイタリティだな…。

そしてちなみに
「日本永代蔵」というのはどういう本かといえば、
町人物といわれる庶民の生活を扱ったジャンルであり
裕福なやつはどうやって裕福になったかとゆうのがテーマ。
この本の2巻目に太地の鯨獲りの名手の話が出てくるわけだが、
その名手が盛んに拝んでいたというのがこの恵比須ノ宮である。
現代語訳しか読んだことがないのだが、
そこでは「鯨恵比須」と書かれていたような気がする。
そして、当時の様子では「高さは3丈ばかりもある」と。
つまり9~10メートルくらいということか。
まぁ読み物なのでもしかしたら誇張はあるかもしれないが
今よりもずいぶん立派なものであったらしい。
また文中で名手「天狗源内」が
例年より参るのが遅くなってしまい慌てて行くが
もう自分よりほかに参る人もいないようで
神楽を奉納したいと言うも遅い時間なので適当に済まされた…
というエピソードが書かれている、
なので、日中は参る人が多く
神楽も舞われるような宮だったのだろう。

*おまけ*
恵比須ノ宮の正面に
対面するようにこの石がある。
石棒や金精様というには少し前のめりで
ねずみ男のような親しみを覚えるのだが…。
これは一体なんだったんだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170506145731j:image
そんなこんなで、
この後はくじら博物館や鯨供養碑
そして古式捕鯨の形跡をめぐって歩きました。
そちらはまた次の記事で書きます~。
相変わらずまとめるのが遅い管理人ですいません。