とまのす

ちいさくゆっくり、民俗さんぽ

遊郭しのぶ 吉原神社。

*吉原神社*

今週来てみたのは、東京都台東区の千束にある「吉原神社」。
小さいながらも、御朱印をもらう人などで賑わっている。
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狛犬↓は、どことなくエキゾチック(?)な面立ち。
ペルシア系というか、なんというかね。
※個人の感想です
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さて 吉原といえば遊郭だが、
ここ千束は特に「新吉原」と呼ばれた場所。
最初の吉原(元吉原)は人形町のあたりだったが、
後ほどこちらに移転したのだそうだ。

この吉原神社にはどんな神様がお住まいかというと、
おなじみ ウカノミタマノカミである。

吉原の出入口というのは非常に限られていたわけだが、
その出入口・大門付近に玄徳(よしとく)稲荷。
そして、敷地の四隅を囲むように
榎本・九郎助・明石・開運という4つの稲荷社があった。

そのためだろうか。
新年を迎える江戸の町では「獅子舞」が演じられたが
年末の吉原では獅子でなく 「狐舞」が行われたという。
御幣と鈴を持ち 狐の面をかぶって踊る姿は、
吉原の年の瀬の風物詩としていくつかの錦絵に残っている。

そういえば
女衒に買われた少女が勝気で美しい花魁になる姿を描く
「さくらん」安野モヨコ・作)でも、
年末の大掃除をする場面で狐舞が描かれていた。

必需品を堅実に売る商売ではないからこその
客足の流れの速さ 流行れば湯水のように湧く銭。
まさに御客様あっての「水」商売である。
お稲荷様は出世・繁盛が得意分野であるから
朝な夕なに手を合わせざるを得なかったことだろう。

そしてさらに、
妖狐・妲己の如く美貌で城も国も傾けるが傾城。
※傾城(ケイセイ)は遊女の異名
女郎は色恋を演じて狐の如く客を化かす。
狐と遊女にはそんなイメージのつながりも
もしかしたらあったのかもしれない。

そんなわけで花街をぐるりと囲んだ5つの稲荷社が、
明治に入って1つに集められ大門付近に合祀された。
そして吉原に隣接していた弁財天も同居することになり、
これが現在の吉原神社のモトとなったのである。
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↑拝殿の提灯には、ちゃんとすべての稲荷社・辨天様の名前が。

*お穴様*

さて、その拝殿の向かって右に
末社のような小さな社がある。
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説明書きを見ると「お穴様」と書かれていて、
なんでもカミサマは社の中ではなく
なんと地中にいらっしゃるのだとか。
祭神が何かなどは詳しく書かれていなかったのだが、
なんだか気になる神様である。

ちなみに 上野・穴稲荷も別名:お穴様と呼ばれているが
この吉原神社のお穴様との関連はハッキリしない。
ただ、その「御穴」という名称から穴稲荷は
性病予防の神として非常に信仰されていた!
と聞いたことがある。
だとすれば、こちら千束のお穴様も名称からして
同様の御利益が期待されたと考えても良いのだろうか?
(もしくは、上野から吉原へ御招きしたとか…)

御穴様のそばには天燈鬼・龍燈鬼↓。
この2人のファンとしては、
木造の精巧な像とはまた違う様子も可愛らしい。
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*弁天堂本宮*
さて、吉原神社から歩いて数分の場所に
現在吉原神社に分祀された弁天様の本宮がある。
管理人は個人的にはコチラの方が好き。

まず、ココが昔どういう場所だったかと言うと
吉原に接する「花園池」という池であったそうだ。
そして、その池に浮かぶ島に弁天堂があったという。

花園池の弁天堂なんて、花街らしいなぁ
と思うが、花街が花園なのは「男性にとって」である。

飢饉の絶えない雪深い田舎から買われてきたら
毎日綺麗な服を着て満足な食事なんて夢のようだろうが、
一方で年季が明けるまでは 辛くとも病になろうとも
身分のある人に見初められ請け出される他は、
死ななければ大門から出ることはできなかった。
そして、年季を待たずして亡くなれば無縁仏として
死体遺棄の如く寺に放り込まれたと言われている。

病気をもらいませんように。
客が付いてくれますように。
今日のお座敷も無事過ごせますように。

先に紹介した五稲荷をはじめ弁天様・お穴様にも
吉原の女性たちはどれほど願ったことだろうか。

そんな身の上を苦にした遊女たちの放火も度々あり、
また敷地内での火事が延焼することもあり、
この吉原では おおよそ20年に一度ほどの頻度で
「大火」と言うにふさわしい大火事が起きた。

その中でも最も大きな被害をもたらしたのは
関東大震災による火災ではないかと言われ、
本宮の境内中央には遊女の慰霊のため観音像↓が作られた。
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境内に入ってすぐ、敷地の真ん中に高い岩があり
周りは花や石仏で囲まれている。
そしてその岩の上に観音像が衣を靡かせ立っている。
写真を撮るとちょうど木々の間から光が差して
まるで観音様から後光が差しているようである!

境内にはいくつかの新聞記事や写真が張ってあるので
是非訪れた際には見て読んでいただきたいのだが、
コチラ↓が関東大震災による火災の様子である。
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黒煙と炎の中で 逃げ惑う女性たちが描かれている。
この時、ここまでの大きな火災にもかかわらず
吉原では商品である遊女たちが逃げ出さないようにと
大門を閉めて閉じ込めたとも言われている。

そして、逃げ場を失いながらもどうにか助かろうと
池に飛び込んだ遊女たちは折り重なり
溺死した者もいれば圧死した者もいたのだそうだ。

当時どれくらいの規模の池で
吉原にはどれほどの女性がいたか分からないが
境内の写真を見る限りでは最早
池に水など溜まる余地もないほど人が折り重なっている。

逃げ場を失ったのは門が閉まったせいであり
つまりそれは火災ではなく人災ではないか…というところだが
こんな吉原未曽有の大災害であってもその死者の数は、
年季を待たずに亡くなり寺に投げ込まれた遊女の数には
遠く及ばないというのだから悲しい話だ。

現在は弁天堂を囲むほどの池は無く、
小さな池で所狭しと鯉が泳いでいる。
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新しくなった弁天堂に鮮やかな壁画を描いたのは
美大の学生さんやOBさんだという話だ。
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中を覗くと、中央には見慣れた姿の小さな弁天様。
江ノ島に祀られている「妙音弁財天」と同様、
一切の衣をお召しになっていないようだ。
そして、奥にどっしりと構えるのは八臂弁財天だろうか。
手の本数はよく見えないが、六臂は珍しいので八臂か…?
頭の上には宇賀神(ウガジン)も居るようだ。
じいさん顔の蛇で、微妙に気持ち悪いカミサマだったりする。
(ココのは髪を二つに結っているので女性かもしれない)
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吉原神社の方は「神社」なので合祀された弁天様も
「祭神:イチキシマヒメ」とされてしまっているが。
コチラの本宮では「宮」とはいうモノの
本来の仏教的なお姿を見ることができる。

水商売というのも、
昔よりは自由な働き方ができるようになっただろうが
昔と最も変わらない仕事かもしれないとよく思う。
知人がそういう世界で生きているので、
なんとなく管理人としては 
他人事とは思えないと言ったらおかしいが。
そんな感覚がある。

まぁ浅草という土地柄、
歌舞伎町のように夜のおねぇさんは多くないが
無念の遊女を弔うにとどまらず
現代のおねぇさんたちもお守りください。
と手を合わせる管理人だったとさ。

ちなみに、
この吉原神社の近所に浄閑寺という寺院がある。
近所と言っても少し歩くが、
そこが吉原の「投げ込み寺」であり今も慰霊塔がある。
時間と興味がある方は、
是非そちらにも寄ってみていただきたい。

神倉神社のゴトビキ岩。

*神倉神社と石たち*
前の記事に書いたが、クジラの町・太地には
あまり安く泊まれる普通のビジネスホテルがない。
なので、数駅離れた新宮で宿泊したわけだ。

最初は太地だけが目的地だったので
今回は熊野系には手を出すまいと思っていた。
(ゆっくり見るにはGWでは足りない気がした)

しかし、いつもはネットカフェに泊まっている管理人。
ビジネスホテルとはいえちゃんとしたベッドに寝たら
リラックスし過ぎて寝過ごしたわけですよ(笑)
大した寝坊ではないけれど、5時に起きるつもりが6時。

乗ろうと思った電車には間に合わず、
紀伊本線は本数が少ないので結構時間ができた。
そこで、出来心で行っちゃったんですね~。
神倉神社↓
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下調べ全くナシなので
「あれぇ、あんな山の中に鳥居みたいな色が見えるよ!」
※管理人はすこし視力が悪い
みたいな軽い気持ちで、神倉神社だとは思わずに…(オイ
まぁとりあえず吸い寄せられちゃったんです。鳥居見えたんで(笑)
こんな近くまで来て、神倉神社と気付かずに
電車まで時間があるから行ってみようなんてノリで…
もはや無茶をとおりこして無知!(ノД`)・゜・。
神社のブログを書いている人間とは思えない!
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遠くからは緑に埋もれた拝殿しか見えなかったが、
御膝元までくると立派な橋が現れた。
橋をわたると正面に
サルタヒコさんと三宝荒神さんの社がある。
三宝荒神さんについては「台所の三宝荒神さま。」に書いたので
細々したことについては省略。
特徴としては 明王様のような憤怒相で穢れを厭離し、
”仏法僧”=三宝を守る、荒々しいカミサマ=荒神
なぜサルタヒコさんと一緒に居るのかは調査中。

さて、それを横目に左折すると 立派な鳥居と
源頼朝が寄進したという石段がそびえ立つ。
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階段が「そびえ立つ」というのも おかしな表現だとは思うが
まさにそんな感じなのである。
あとで調べたら、階段は全部で538段あるらしい。
のぼれども、のぼれども、目前には段があるばかり。
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長野・布引観音の経験から
階段下にあった木の杖を迷いなく手に取ったが
やはりそうして正解だった…(´・ω・`)

そして、やっと到着。
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朝早くから、観光している家族連れが2組いた。
しかし、管理人がゆっくり見ていると
家族連れは写真を撮ったりしてアッサリ去って行った。
こんなに気持ちがいい場所なのになぁ。

人の声がしない。風が吹いている。

ここの風に当たっていると
風が体に入ってきて渦を巻くような感じだ!
(/・ω・)/ウォオオオ!
…あ。管理人はオーラが見える人とかじゃないので、
単純に朝の澄んだ空気でテンションあがったダケっす。
騒いですいませんね。

でもなんというか、
神社とか神様のいる場所というのは
「なんかココ気持ちいいわ~」
「いいところだしカミサマにはここに住んで戴くべ」
みたいな感じで決まることも多いのではと思う。

もしくは、スサノヲのように神様自らが
「やべぇ、超すがすがしい!新居ココにするわ!」
という場合もあったりね。
※スサノヲとクシナダの新居・須賀神社の話。
 (正確には清々しかったのは気候でなく彼のキモチである)

勿論、危険や苦しみのある土地だからこそ
救いを求めてカミサマが作り出された!
というパターンもあるけれども…。

さておき、こちらが名物(?)
神倉神社の「ゴトビキ岩」である。
ゴトビキとは新宮の方言でヒキガエルのことだそうな。

あまり目立たないようにとっているが、
ゴトビキ岩のすぐ下でヨガだか座禅を組んでる
旅人っぽいお兄さんがいた。
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神倉神社の祭神は
アマテラスとタカクラジ(高倉下と書く)ではあるが、
このゴトビキ岩が「御神体」とされている。
そして、実際この岩の 周辺からは経塚の形跡や
さらに昔の銅鐸なども見つかっているのだそうだ。

なので、おそらくこの場所は
神社という人工的な形になる以前から
岩に対する信仰が盛んだったのだろう。
「神倉」は「高倉下」と関連して「倉」なのか?
と一瞬思ったが、
イワクラ(磐座)という言葉のことを考えると
カミクラ=神座 つまりカミサマのいるところ
というのがモトの意味なのかもなぁ…。

とも思った。
ちなみに磐座というのも
信仰対象となる石や岩のこと。
つまりカミサマだったり、そのいる場所。

 

*熊野・信仰レイヤー*

レイヤーってコスプレイヤーじゃなくて
あの写真加工ソフトとかで重ねていくヤツね。
下書きレイヤーとか、線画レイヤーとか。
(熊野信仰コスプレイヤー、ある意味気になるが)

この神倉神社とか
それに関する神様がイマイチつかめないのって、
おそらく熊野が聖地すぎて神道にも仏教にも
それどころかもっと原始的な宗教でまでも特別視されて
その結果、レイヤー重なり過ぎたせいだと感じるのだ。

いろんな口伝や書物とか、別のレイヤー上にあるものが
あれもこれも同一視されたりこじつけられた結果
「レイヤーがすべて統合」された状態かな。
と、管理人は思った。
…某ア〇ビのフォト〇ョuserでない方、
イメージ湧きませんよね…すいませんねホント。

どんな伝説や歴史にも
「実はこうだった説」とか
「地元ではこんな伝説も」的なのはある。
だが、熊野の場合どれもこれも大御所(?)過ぎて
どれが大モトだか見えづらい!
自分で調べていてそう思った。

たとえば、
神倉神社でいえば
原始信仰レイヤーでは信仰対象は岩。
しかし神道レイヤーではアマテラスとタカクラジ。

そして日本書紀レイヤーで
カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇である)
が登ったのが天磐盾という山であるが、
いつの間にかこれが
天磐盾=神倉山であるという話になっていた。

さらに、
日本書紀レイヤーでは東征の経路の一部
というだけだった天磐盾が
「それってリアルでいう神倉山よ」
ということになってしまったがために

熊野権現が最初に降臨した地=神倉山」
という熊野権現レイヤーが重なったとき
天磐盾=熊野信仰の聖地!
ということになったわけだ。

そのうえ、当の熊野権現
「本宮」「速玉大社」「那智大社
3柱の神を合わせて熊野権現と呼ぶよ!とか
本宮に居るケツミコ=阿弥陀如来
速玉大社のハヤタマオ=薬師如来
那智大社のフスビ=千手観音
それぞれの神様に対応する仏様がいるよ!とか
それ以前に那智大社って元々は
修験道の修行をする場所だったから
「3社」の仲間じゃなかったよ!
とかいろいろなことを言い始めるので
それは もう大混乱である。

やはり、
そのうち那智には行きたいが
さすがにその時はよく勉強していかねば…
と思う管理人でしたとさ。



*タカクラジって誰だ*

レイヤーはまぁいいけど、
それ以前にアマテラスと一緒にいるの誰よ?
という方もいらっしゃるはずだ。

タカクラジノミコト
というとカミサマっぽいのだが、
彼じつは一般男性(?)である。
日本書紀に登場するのだから
何かしらの身分はあるのかもしれないが、
それにしてもカミサマではない。

では一体何をした人かというと、
熊野にやってきたものの
地元勢力にてこずって遂には気を失った
カムヤマトイワレビコに剣を持ってきた人物。

この剣、ただの剣ではない。
タケミカヅチ紀伊を平定した時に使用したもの。
つまりプレミア付きである。
ではどうしてそんなスゴイものを
人間であるタカクラジが持っていたのだろうか?

実は難航しているイワレビコを見て
アマテラスがタケミカヅチに言ったのだ。
「アンタか治めたあの辺、また騒がしいわよ」
「行って何とかしてしなさいよ」
それにこたえてタケミカヅチが言うことには
「俺が行くまでもねぇ。平定に使った剣でも落としとくわ」

そして、はたして
なぜかタケミカヅチは剣を落とす場所に
タカクラジのうちの倉庫を選んだのである。
タケミカヅチ
「お前んとこの倉庫に俺の剣落とすから、
 それイワレビコに持ってってやってくれよ」
といった夢を見たタカクラジは夢告の通りに動き
イワレビコの窮地を救ったわけである。

こう書くとイワレビコは主人公なので
冒険を繰り広げるヒーローのようだが、
地元からしたら攻めて来たヨソモノである。

某海賊王になる漫画で
「正義が勝つのではない、勝ったものが正義なのだ」
というようなセリフがあるのだが、
これもまさにそうだという気がする。

イワレビコが勝ち進んだので正義になっただけの話。
そのために日本書紀古事記では
地元民がよく分からない部族や動物のように描かれ
簡単に殺されたりしてしまう。
さらに、古くから信仰対象になっていた岩の横に
敵であるイワレビコの祖先であるアマテラスと
彼を助けたタカクラジが祀られている始末である。

気持ちのいい場所なのはサイコーだが、
たった一言「誅された(=悪人を討った)」
とゆう表現で登場するのみの地元勢力は
実際どんな存在だったのだろう。
と風の中で考える管理人でしたとさ。

次回はちょっとそんなことも話をしたいなぁ
(*'ω'*)

太地にのこる 捕鯨の足跡。

*クジラの町*
先日の記事ではとりあえず
飛鳥神社と恵比須ノ宮だけに触れたわけだが。
今回はもう少し「人-神」の形跡でなく
「人-鯨」の足跡を辿る内容を書いていこうと思う。

そんな管理人をまず迎えてくれたのは
親子のクジラ像である。
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今まで、大きなクジラ像と言えば
上野の東京科学博物館にあるやつしか見たことが無かった。
しかし、前回も書いたように管理人は海が怖いのだ。
少し坂の横を覗けばすぐ 港や 波立つ海があって、
丘にいても色々な方向から波音が聞こえてくる太地。
地面に立っていても大海の真ん中に立たされているような
空恐ろしい気分になるわけである。

海に慣れ親しんだ人は「こわがりすぎ」と笑うだろうが、
その恐怖の中でこの巨大な像と
あろうことか目が合ってしまったのである。
魚とは違う、こちらの心の中まで見えていそうな目である。

像ですらこの有様であるから、
幼少期に渡嘉敷島あたりを船で通ったとき
船からザトウクジラの尾が見えた時は何とも言えず
眩暈がするような気分だった。
(人様はお金まで払っても見たがる光景なのだが)

まぁ、もはやこうなると
すべてからクジラ圧力(?)を感じ
こんな平面に書かれた絵ですら
「トンネルに入ると周りをクジラに囲まれるのでは」
という謎の発想に至るようになる。(クジラ恐怖症か)
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*クジラを供養する*
そんな謎の恐怖症に震えていた管理人だが、
昨日の記事に書いた「てつめん餅」を食べて
少し元気を取り戻した。

そして、その亀八屋さんから少し歩くと
コチラの東明寺さん↓に到着。
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海に面した街の神社仏閣は高台にあることが多いが、
東明寺さんも道から幾分階段を上って本堂という立地。
津波が意識されているだろうという気はする。

階段を上がるとすぐ、
植込みの中に魚籃観音様らしき像があった。
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魚籃観音というのは、
魚の入ったカゴを持っているのが特徴で
魚売りの美しい娘の姿で漁村に現れた観音様だ。
日本では、千手観音や十一面観音に比べると
だいぶマイナーな観音様ではあるが…
こうした漁業の盛んな港町などでたまに見かけたり
刺青として背中に彫ってある人も見かける。

そして、こちら↓が
お目当ての「鯨供養碑」である。
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説明を読むと、
捕鯨に携わっていた浜八兵衛さんが建てたそうで
「鯨の殺生の罪が許されるよう皆で法華経を唱えた」
というようなことが書いてあるのだそうだ。

日本には色々な供養塔があるが、
このように文が書かれているとは限らない。
単に「〇〇供養」と書かれた石碑から、
人がどのような気持ちで建てたのかというのは
なかなか見えづらい。

なので「鯨の冥福を祈って」的な建前でなく
「自分たちの罪が許されるよう」という
本心に近い言葉が明記された この供養碑は貴重だ。
動物を殺さざるを得ない生業の人が感じた
「恐怖」「うしろめたさ」がよく表れた文だと思う。

*日本の供養・インドの供養*

突然だが、
管理人は「日本の信仰の特徴は?」と聞かれたら
なんとなくこの「供養」という概念が
その答えの1つではと思っている。

いつかの記事で もしかしたら書いたかもしれないが、
供養という言葉自体はサンスクリット語を意訳したものだ。
しかし、ヒンドゥー教での「供養(プージャー)」と
日本の「供養」というものは考え方が少し違うと思う。

そもそも対象からして「プージャー」は
神様や力を持った霊に向けられていることが多い。
そして、それは
神や霊に香や食物を「供え」て
その力を「養う」という意味合いが強い。

一方で日本の「供養」の対象は
亡くなった人、狩った動物、食べた魚介
使い古した道具にまで至る。
しかし神様がその対象になることは少ない。
それは、どこか大事に手を合わせ「弔う」と同時に
どこか「憐れむ」ような「償う」ような…
そしてその殺生を「許されたい」というような。
そんな気持ちが底の方に流れているからなのかもしれない。

*大背美流れ*

しかし うしろめたさ、とは書いたが
何も人が一方的に強い立場からクジラの命を奪って
自分たちは良い思いばかりをしていたというわけではない。
というのはこちらの碑の謂れからもわかる。
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こちらは「漂流人記念碑」。
記念碑というと、どうしても良いことのようだが…
コレは古式捕鯨で100人ほどの漁師が一度に犠牲になった
「背美流れ」を後世に伝えるため建てられた碑である。

日本で起きた海難事故の中でも最も大規模な部類
といわれるこの「背美流れ」は明治11年の年末のこと。
不漁続きで逼迫した状況だった太地で鯨発見が知らされた。
それは非常に大きい上に子連れのセミクジラだったという。
古くから太地では「親子の背美は夢にも見るな」と言われ、
通常であれば捕鯨の対象にすることはなかったはずだった。

しかし、もはやなんとしても鯨を獲らねば
村は年も越せないような状況だったということだろうか。
太地の鯨方は午後に漁へ出て、普段は獲らない母鯨を捕えた。
しかし、その時点で既に翌朝になっていた上に
西 つまり沖の方への風が強く、
いつにもまして大きな鯨をつないだ舟は沖へと流された。
そのうえ寒さの冴える年末のことである。

そこまでが今でいうクリスマス。12/25のこと。
船団の中には沖に米と水を届けてもらう必要があるため
一端村に戻って状況を報告したものが居たそうで、
この時点ではまだ漁が続けられる可能性があったようだ。

しかし、いよいよ26日ごろには村も大騒ぎになり始めた。
そして、沖では一度捉えた鯨を手放し
帰港を優先せざるを得ないという判断が成された。
泣く泣く鯨の綱を切り 舟同士を綱でくくって漕ぐが、
食料も尽き 体温も奪われ 体力も残り少ない状況。
一向に浜に近づくことはできず
ついには舟同士の綱も切って何艘かでも帰港を試みた。
しかし結局は風で運よく陸に打ち上げられた三艘程度が
マグロ船に助けられて生還したのみであった。

というのが「背美流れ」の大筋である。
この鯨方は全盛期1000人ほどで構成されていたとはいうが、
洋式捕鯨への転換期には構成員も多少減っていたはずだ。
そのうえ不漁で逼迫した最中100人もの働き手が亡くなる
というのは鯨方が壊滅状態になるには十分だっただろう。

しかし、それ以降も洋式捕鯨の導入などはありつつも
現在まで捕鯨の町として名を残している。

*燈明崎*
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さて、そんな漂流人記念碑を通り過ぎ
しばらく歩くと「燈明崎(とうみょうざき)」に着く。
先程の背美流れでも「鯨発見の知らせがあった」と書いたが、
古式捕鯨では高台から海を見張り、
鯨を見つけると狼煙を上げて海上の鯨方に知らせたそうだ。
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「燈明崎」の石碑の手前に
お地蔵さまと神道っぽいカミサマがいた。

「古式捕鯨支度部屋跡」↓は今はただの空き地。
高台の見張り場(山見)で働いた人たちが
休息や食事をとる場所が「支度部屋」である。
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そして、山見台の正面(?)には小さめの神様。
鳥居は大きめでしっかりしている。
地図などにはあまり社名は乗っていないが、
どうやら御崎神社というらしい。
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おおきくはないが、恵比須ノ宮と同じくらいだろうか。
放置されてボロくなっているという印象は無く、
お賽銭箱なども比較的最近新調してもらったようだ。
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位置関係としては、こんな感じ。
写真左側から歩いてきたわけだ。
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そして、これが山見台跡。
ここで夜明けくらいから海を見張り鯨を探していたわけか。
先程の案内図が無ければここが先端かと思ってしまうが、
この山見台の先に「燈明崎」の名前の所以たる燈明台がある。

その燈明台がこちら↓だ。役目としては「灯台」。
夜間に通る舟に場所を知らせるための灯りである。
現在は使用されておらず、
山見台も燈明台も資料を基に復元されたもの。
つかわれていたころは鯨油を燃料としていて、
一晩灯すのに3~4合は必要だったようだと書かれている。
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ちなみに、さきほど御崎神社の写真を見ていただくと
背景に石垣が写っているのが見える。
説明板によれば、これは燈明台を管理していた
新宮藩士の住居跡ではないかとのことだった。

海が怖いという割に、そこら辺に登るのは好きなので
この写真の後ろに写っている柵の二段目くらいに登って
海の写真を撮ってきた(/・ω・)/
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そして、いったん引き返して
もう一つの山見・梶取崎へ向かう。
燈明崎から梶取崎へは遊歩道でつながっているが、
燈明崎から引き返し遊歩道の方へ曲がる分かれ道に
コチラ金刀比羅神社↓がある。
注連縄ではなくロープっぽい綱がカワイイ(?)。
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拝殿は瓦葺き。壁や柱は簡素な感じがした。
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金毘羅(こんぴら)宮ではなく
金刀比羅(ことひら)神社という名前から、
ああ、ここにも神仏分離令の形跡が…。
と考えながら本殿を見に拝殿裏へ。
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…!?
覆殿?覆殿なの?
何この珍しい形状…。

この中の本殿がどんな感じなのか気になったが、
雨が降る中ガッツリした覆殿に囲まれて暗くて見えなかった。
この辺の神社はこんな感じなのか?と思ったが、
別に飛鳥神社はこういう感じじゃなかったよな…。

ちなみに燈明崎から梶取崎への遊歩道には、
数メートルおきにこのような↓
鯨図鑑のようなパネルが立っている。
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これは「背美流れ」の時に現れたセミクジラである。


文字が小さい上にはがれてしまっているのが残念だが
名前の由来や生態、見た目の特徴など細かく解説してあって
読んでいると なかなか楽しい。

雨の中、花も瑞々しく綺麗!
(雨女なので雨はあまり気にしていない)
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木の根元に、小さめのカニも見つけたが
写真を撮る前にどこかへ逃げてしまった…(´・ω・`)

さて、数十分歩くと梶取崎に到着。
東明寺さんのものほど古くはないが、
古式捕鯨船の上の鯨が乗ったデザインの鯨供養碑がある。
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ここには、先ほどの燈明台よりだいぶ近代的な灯台があるが
その最上部についているのは風見鶏ならぬ風見クジラ。
かわいいぞ!(*‘ω‘ *)
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この灯台の脇から、古式捕鯨に使われた「狼煙場跡」に行けるのだが…
先端へと歩いていくと、
先ほどの燈明崎よりも海に突き出ている形状なのか
両脇が波の音に囲まれているのにまだ先へと道が伸びている。
え?なに?怖いんですけど。どこまでつづいてんの?
こんな細いとこがそんな先まで伸びてて大丈夫なん?
と頑張ってはみたが…

f:id:ko9rino4ppo:20170513092227j:image
結局この↑狼煙場跡を写真に撮るや否や
逃げるように灯台まで走って戻った。
無理。海、無理。
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そして、もう海沿いは嫌なので
内陸を突っ切って「くじら博物館」へ向かう。

途中、抱壷庵さんという陶芸工房を見つけて
「たまにはお土産でも買ってみるか」と覗いたものの
奥の方に人の気配はあるが店には一向にだれも出てこない。
鍵が開いているので勝手にドアを開けて
しばらく商品を見てのんびりしていたが人は来ない。
選んでも店員さんがいないので買えないと悟り、退散。
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この鯨のレリーフ?も売っているようだ。かわいい。
そして、さらに歩いて博物館到着。
結論から言うと、抱壷庵の方はどうやら
博物館で絵付け体験コーナーをやっていたようだ。
それならそうと「博物館でやってます」という張り紙がほしい。
ちなみに商品は、博物館のお土産売り場で買うことができた。

展示は古式捕鯨の様子のジオラマ↓や
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ほぼ実物大と思われる、
天井から吊られた鯨と捕鯨船の模型↓など
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昔のクジラ漁の様子が具体的に分かるものが多かった。
コチラ↓は鯨銛の種類の解説。
f:id:ko9rino4ppo:20170508195417j:imagef:id:ko9rino4ppo:20170508195435j:image
壁いっぱいに貼られた捕鯨船のデザイン画も
シャープで素敵である。

そして、こちら↓が実物の1/10の模型。
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コレを見ていた女性が
「え?コレのたった10倍て、小さない?小さいやろ!」
とずっと言っていたが、たしかに。
鯨というから大きな「船」で獲るかと思いきや
木の葉のような「舟」である。

一隻で引っ張ってくるのでなく、
「勢子舟で追って 網舟が張っている網に追い込む」
という方式ではあるがなんとすごいのだろう。

そんな歴史的・文化的展示がある一方で
あちらの柱には実物大のオスの性器の模型が。
そして、向かい側の柱にはメスの性器模型が。
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2階にもまた別のオスの性器の模型が飾られているが
これまた「ミサイルか」という大きさであり
地元の「珍宝館」(一般的に言う宝物館)を思い出した。
そのほか、内臓や噴気孔、そしてイルカの胎児などの
ホルマリン漬けコーナーなどもあり
充実しているがおなか一杯感もある博物館だった。

ちなみに、そう巨大な博物館ではないが
鯨オンリーに関する博物館では世界最大級らしい。

さて、今回は
和歌山に来ておきながら熊野古道には行けなかったが
次の記事では宿泊した新宮にある
熊野にまつわる社について書く予定ですー。
(*'▽')

*おまけ*
紀伊本線は、ターコイズブルー
可愛いワンマン列車でした(*´ω`*)
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恵比須ノ宮の鯨鳥居(+α 飛鳥神社)

*電車の中で一苦労(雑談です)*
そんなこんなで、
大阪で見た雪鯨橋がこれから行く太地と深い関係にあった!
とゆう事実に御縁を感じながら電車に揺られること約4時間。
遠い。遠いぞ。
しかも後ろの席の女の子はテンションが上がってしまい、
アナ雪のLet it goを熱唱している。
車内で"ありのままの"元気を振りまかないでくれ…
と思いながらイヤホンで本家の歌声を聴いていたが、
幸い 女の子は和歌山あたりで降りた。

今回はそう長い滞在ではないので、
静かになったところで回る優先順位を決めるため情報収集。
いつも準備万端なほうではないので土壇場まで何か調べている…
(;´Д`A

そして悟った。これは、1日の滞在では足りない。
そして、太地にはあまり泊まるところがないことに気づき
特急のデッキで新宮のビジネスホテルに
片っ端から電話をかけまくる。
ゴールデンウィークに当日予約。
我ながら行き当たりばったりすぎるぞ!

しかも、やっと空いていそうなホテルがあったものの
名字を聞き取ってもらえない。
「それでは、ーーー様、1名様で本日ご宿泊ですね」
どうもさっきから砺波(となみ)と言われている気がする。
そして、念のため言い直すも
「あ、泊(とまり)様ですか!」
「ん…タミル、様ですか?」
おい、だんだん日本人じゃなくなってきているぞ⁉︎
中央アジア系?
特急からかけているから電波が悪いか?
いや、私の滑舌が悪いのかもしれない。
相手のせいにしてはいけない。
相手もあまりの聞き取れなさに動揺しているんだ。
「うーん、ミヤコにマルで、トマル、です」
「港に丸ですね?」
「ええと、東京都の都、に、牛若丸の丸、です」
「うしわかまる…」
「あー、えーと、数字の九に一本足したやつです」
こちらもあまりの伝わらなさに動揺しているのか
牛若丸とか九に一本たすとか、
全然わかりやすくない例しか出てこない。
丸ノ内とか、日の丸とか、他にもっとあっただろ!

*太地に到着*
まぁ紆余曲折を経て無事本名で予約ができ一件落着。
ちなみに、砺波は富山 泊は沖縄でよくそう間違われる。
そんな事件はあったが、無事 太地に到着。
タクシーなどは見当たらない、
駅前も特にコンビニもない、
特急が止まるのが不思議なような駅である。
しかも、予報は晴れだと友人たちが言っていたのに
私の雨女の力が予報を上回り まごうことなき雨である。
仕方なくフードをかぶって出発。

駅から少し歩くと、もう海である。
そしてそのまま
まずは、午前に売り切れてしまうこともあるという
太地名物・てつめん餅を求めて亀八屋さんへ。
住宅地、と言ってもかなり趣のある
撮影に使えそうな感じの場所にある。
看板は出ているが、
商品を見えるところに並べて売っているわけではないので
ウッカリ通り過ぎるところだった。

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私の前に買っていったおじさんは地元の人っぽいが、
どこかへ手土産にするのか10個くらい買っていった。
対して私は消極的に1個。
今日1日これしか食べない予定なので、
白と緑(よもぎ?)1つづつ買っても良かった気もした。
が…持って歩く間に雨でビチョビチョになるのは目に見えていた。
1ヶ110円なり。お安い。
あんこは管理人の好きな水分少なめ、こしあん。
まわりのモチはたよりない程に柔らかい。
うまし(*´ω`*)
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食べる前は
「名物ってクジラ肉とかじゃないの?」と思っていたが、
これは名物と呼ばれてしかるべき。

*薄命美男子とサビサビの剣*
なんとなくライトノベルの題名風だな…。
(´д` ;
なんというか雨の中傘もささずに
餅をかじりながら歩くというワイルド状態ではあるが
次の目的地「飛鳥神社」に到着。f:id:ko9rino4ppo:20170506145356j:image
詳しい説明版などはないが、
熊野信仰において重要な土地である「阿須賀神社」と
名前の音だけでなく祭神も同じようだ。
(その阿須賀神社についてはまたの機会に書くとして…)
祭神・コトサカノミコトは一般的に
縁切りの神として知られている。
一体何との縁を切る神社として建ったのだろう?

いや、単に
お隣・那智勝浦でブイブイいわしてる神様を
土地の守り神様として勧請したのか?
なぜコトサカノミコトかはわからないが、
捕鯨の町の氏神様なので絵馬は鯨である。
f:id:ko9rino4ppo:20170506145420j:image
ちなみに管理人には
「絵馬があったら片っ端から人の願いを読む」
という悪趣味な習慣があるが、
この神社にあった絵馬は たった1つ。
なかなか切実で具体性のある願いで、個人的にはいい。
そして、自分のある性格を変えたいという願いだった。
つまり、考えようによっては現在の自分の一部との縁切りだ。
叶うといいなあ。神様ではないながらに応援してます。

さて、この神社は御神体に少し特徴がある。
まぁ端的にいえば古い剣なのだが、
海に落ちていて漁師の網にかかったものなので
塩水でひどく錆びているという。
では誰が海に剣を落としてしまったのかというと、
平維盛(たいらのこれもり)という人物である。
源平好き(?)もしくは中世好きであればご存知かもしれないが、
平清盛の孫である。

早くに父を失い立場が微妙であったことなどから
度々周囲とぶつかっては止められ、戦の成績もふるわず、
二十代にして敗走の末に亡くなったという不遇な人物である。
しかし、美人薄命とでもいうのか
容姿は光源氏の再来と言われるほど端麗で、
初めて大将となった際の鎧兜姿は なんと周囲の男どもをして
「絵にも描けぬほど美しい」とさえ言わしむる程だったそうだ。
それは相当だな。

そんな彼が最後どのように亡くなったかには諸説あるわけだが、
一説には補陀落渡海(ふだらく-とかい)したと言われている。
つまり、入水自殺である。
補陀落とは観音様が住む山の名前(ポータラカの音写)。
そこに海を越え旅立つということなのだろう。
中世、那智では比較的盛んに補陀落渡海が行われたそうだが
一般的には高僧などが行うことが多かったようだ。
維盛も、落ち延びてから出家して熊野三山へ詣でた後に
那智の海岸から沖へ漕ぎ出したといわれている。

既に出家してこれから死のうという人間が
剣を帯びていただろうかという疑問もなくはないが、
僧が行う補陀落渡海でも決して浮き上がれぬよう
体に108の石を縛り付けたりすることがあるらしいので
もてる武具をすべて身に着けていた可能性もなくはない、か?
ちょっと細かい状況はわからないが、
ともかくその際に彼が落としたといわれている剣が
この飛鳥神社の御神体とされている。
もちろん、実物を見ることはできないわけだが。

*鯨鳥居と対面*
さて、この飛鳥神社の近くに
管理人がかねてよりお目にかかりたかった
小さな御宮「恵比須ノ宮」がある。f:id:ko9rino4ppo:20170506145605j:image
お宮自体は小さなものであるが、
鯨の肋骨で作った「鯨鳥居」ゆえに知る人ぞ知る神社である。
クジラとえびすと障害者 - とまのすを書いた頃だが、
管理人は「障害者と信仰」という視点で
一時期エビス(ヒルコ)にハマっていたことがある。
そのときに先の雪鯨橋と鯨鳥居を知った。



国内に現存する鯨鳥居は2つしか無いと言われ、
1つがこの和歌山・恵比寿ノ宮。
もう1つは長崎・海童神社のものである。
昔は日本統治時代の台湾や、色丹などにも数個あったらしいが。
そちらもきっと政治的な意味でも
神社ごとなくなっていたりするのかなぁ。

現在は、まだ一部の捕鯨が許可されているため
まぁなんとか劣化しても新調可能だ。が。
今後もし捕鯨が全面禁止になるか鯨が絶滅してしまえば
鯨鳥居は作れないということになる。

風雨による浸食ならば
コーティングか何がで防げそうなものだが、
万一 戦火や震災、津波で突然失われてしまえば
まぁおそらく守りようもない。

神社が昔の姿であり続けられるのは、
人の世が平穏なだけでなく生きものも豊かであり
その恵まれた状態であっても人が神様を重んじて
その住まいを保つことを忘れない。
という案外難しい条件が揃っているときなのだ。
そういう意味でも、
今や2つしかないが今後も鯨鳥居がずっとあってほしい
と思う管理人だったとさ。

管理人のたそがれは置いといて、
この恵比須ノ宮は小さいながら歴史はそこそこ古く
あの井原西鶴の「日本永代蔵」にもその様子が記されている。
f:id:ko9rino4ppo:20170506145643j:image
本当に大きさで言えば
どこかの末社かと思ってしまうような小ささなのだが
井原西鶴の文章を読むと、
そのころ既に盛んに信仰されていたようだ。
もしかしたら、昔はもう少し大きかったのかもしれない。

そもそも西鶴さんがどうしてこの土地を訪れたかというと、
「横手節」という小唄を聞いたからである。
まぁ江戸ではなく大阪の人とはいえ、
今でも4時間かかるのに当時は何日かかったのだろう。
だというのに、
「面白い小唄があったからその発祥の地を訪ねてみよう」
という軽い動機で すごいバイタリティだな…。

そしてちなみに
「日本永代蔵」というのはどういう本かといえば、
町人物といわれる庶民の生活を扱ったジャンルであり
裕福なやつはどうやって裕福になったかとゆうのがテーマ。
この本の2巻目に太地の鯨獲りの名手の話が出てくるわけだが、
その名手が盛んに拝んでいたというのがこの恵比須ノ宮である。
現代語訳しか読んだことがないのだが、
そこでは「鯨恵比須」と書かれていたような気がする。
そして、当時の様子では「高さは3丈ばかりもある」と。
つまり9~10メートルくらいということか。
まぁ読み物なのでもしかしたら誇張はあるかもしれないが
今よりもずいぶん立派なものであったらしい。
また文中で名手「天狗源内」が
例年より参るのが遅くなってしまい慌てて行くが
もう自分よりほかに参る人もいないようで
神楽を奉納したいと言うも遅い時間なので適当に済まされた…
というエピソードが書かれている、
なので、日中は参る人が多く
神楽も舞われるような宮だったのだろう。

*おまけ*
恵比須ノ宮の正面に
対面するようにこの石がある。
石棒や金精様というには少し前のめりで
ねずみ男のような親しみを覚えるのだが…。
これは一体なんだったんだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170506145731j:image
そんなこんなで、
この後はくじら博物館や鯨供養碑
そして古式捕鯨の形跡をめぐって歩きました。
そちらはまた次の記事で書きます~。
相変わらずまとめるのが遅い管理人ですいません。

瑞光寺さんの雪鯨橋。

今回は、和歌山・太地(たいじ)に行くのだが
高崎→(50min.)→東京→(2.5h)→新大阪→(4h)→太地
とブッ続けで電車に乗るのも辛いので、
新大阪で小休止がてら淀川区にある瑞光寺さんに来てみた。f:id:ko9rino4ppo:20170504230732j:image
瑞光寺さんは、小さいながらも歴史は古く
なんとあの聖徳太子が建てたと言われている。
本尊さんは十一面観音さんだそうな。

とまぁお寺さんの概要はそんなところだが、
普段神社に行くことが多い管理人がなぜ寺院にきたかというと…
前々から見たい見たいと思っていた
「雪鯨橋(せつげいきょう)」を見るためだ。
大阪は東京から3時間弱で着くし、
行きづらい場所ではないはずなのだがなぜか来たことがなかった。

さて、雪鯨橋とは何なのかといえば、
鯨の骨で作った橋である。
Wikipediaさんによれば、鯨の骨でできた橋というのは
日本でここにしかないらしい。

どうも、管理人は
狩猟や漁業に観点の深い神社仏閣が気になる。

というわけで、こちらが雪鯨橋。
f:id:ko9rino4ppo:20170504230302j:imageやはり骨なので風雨で劣化してしまい、
現在のものは6代目に当たるそうだ。
北海道沖で獲れたイワシクジラの下顎骨と扇骨(人間でいう肩甲骨)、
そして南極海で獲れたクロミンククジラの脊椎を使用している
と書いてある。そして、先代の欄干だった骨は…f:id:ko9rino4ppo:20170504230356j:image
f:id:ko9rino4ppo:20170504230430j:image
壁際に普通に並べられている!
盗まれたりしないんだな。案外治安いいな大阪!
ちなみに、山門も鯨の骨である。f:id:ko9rino4ppo:20170504230624j:image
でも、そもそもなぜ
殺生が禁じられている仏教の寺院に鯨の骨が?
とおもって調べてみると…
昔ここの偉いお坊さんが不漁つづきのの哀れな漁民に
泣き付かれて一度は断ったが根負けして祈祷をしてあげました。
とさ。さぁ!
コーヒールンバの節に乗せて歌ってみよう!
(オイコラΣ(’・д・))

まぁコーヒールンバはさておき、
だいたい発端はそんな感じ。
初めは
「仏様の教えに背くことになりますから、
 魚や鯨が獲れるようになどと祈祷はできません」
と言っていた彼も、貧しく飢えた様子の村人を放っておけず
結局は祈祷をすることとなった。
するとなんと鯨が獲れたではないか!

昔は鯨一本 七里が賑わう、鯨一疋 八郷潤すetc
(つまり一匹水揚げすれば
 7つの里(or8つの郷)が一度に食料や収入を得るほど)
と言ったそうで1匹獲れれば村人はずいぶん助かったことだろう。
さて、これを調べていて管理人は知ったのだが
この僧・潭住さんが行脚で訪れた村こそ、
これから行こうとしている和歌山県・太地だったのだ。

なんという偶然だろう!
しかも、太平洋戦争で焼失し
しばらくは架かっていなかった雪鯨橋が復活したのは
太地町の協力あってのことだという。
なんだかテンション上がって来た!

というわけで今回はさっぱり切り上げて
明日以降に備えます!

海をみまもる 津守神社。

先日書いた記事の久ノ浜から海を眺めると
左の方に海に突き出したような島みたいのが見える。
近くに居たおばあちゃんに聞いたら、殿上岬というらしい。

そして、その岬を眺めていたら
重いブーツで18km歩いたがために足はロクに上がらず
舗装路すら足を引きずって歩いているというのに…
見つけてしまったんだなぁ。鳥居を!
ここに!
f:id:ko9rino4ppo:20170412142319j:image
さて、足を引きずりながら歩くこと数分
工事中の橋の下に低い橋がみえた。
f:id:ko9rino4ppo:20170410220322j:image
橋の下はもう、すぐに海だ。
ちょうど大久川が海に注ぐ河口であり
津波の時はきっと押し寄せる津波がこの川をさかのぼったのだろう。
そうして大勢の人や物をさらった海かと思うと
当日は穏やかだったが空恐ろしかった。
※管理人はグンマーで育った山の民なので、
 そもそも海というもの自体が未知の領域であり怖い。
f:id:ko9rino4ppo:20170410220332j:image
その橋を渡り、緩やかなアスファルトの上り坂を歩いていく。
平地でも股関節が痛いので、緩やかでも坂であればさらに痛い。
そのうえ、ダメ押しのように…
f:id:ko9rino4ppo:20170410220402j:image
きゅうなかいだん が あらわれた!
▶︎たたかう
▷にげる

だぁれも人がいないので、
遠慮なくうめきながら登る。
そして、拝殿に到着。

通常よりお正月らしい縄の懸り方。
そして戸口のミカンが…干からびている!
あまり頻繁にはお手入れが入っていないのかもしれない。
(´・ω・`)

福島県神社庁HPに載っていないので御祭神がわからない…

f:id:ko9rino4ppo:20170410220425j:image
拝殿を見て、鳥居の方を振り返ると
登って来た時には気づかなかったが海が綺麗に見えた。
f:id:ko9rino4ppo:20170410220456j:image
さらに拝殿の脇の草の中を登っていくと、
大きな石碑のようなものがある。
f:id:ko9rino4ppo:20170410220522j:image
戒道大龍女 龍道大龍王
とあってなんだか仏教チックな雰囲気が出ている。
ココでの意味は情報が少なすぎてわからないが、
秋田・善寶寺で信仰されている龍神と同名である。

どうやら調べてみると善寶寺さんの龍道大龍王とは
法華経に登場する「八大龍王」の一人沙迦羅龍王らしい。
サーガラ=大海という意味らしいので、
沙迦羅龍王(サーガラ・ナーガラージャ)は8人の中でも
特に海に関連深い龍王様なんだろうか。

ちなみに戒道大龍女は、彼の奥さんではなく
三女である善女龍王(または八歳竜女)の別名らしい。
岩手にある報恩寺の記事でも少し触れたが、
彼女は龍王の娘というよりかは
「初めて成仏した女性」として有名神。しかも八歳で。
成仏した証に男性になったというトンデモ展開のため、
絵や仏像では女性でないこともあるのだが…。

このパパと娘、東北ではちょくちょく
海産物の供養塔や 漁業関係者の海上安全祈願
農村の雨乞いを龍がかなえた伝説などに登場する。

ココの場合、立地的に海上安全祈願かなあ。
「津守」神社だし。
3.11以降、東北で「津」と見ると津波を連想してしまうが
津とは船の停泊する場所=港のコト。
津守というのも「港やその周辺を守る」という意味のはず。
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上空から見ると津守神社はこんな感じの地形で
この津守神社の建つ「殿上岬」というでっぱり(?)は、
その北が港として利用されている。

この近くは南からの波浪が強く難破も多かったそうで、
南に岬が立ちはだかり波風を防いでくれる殿上岬は
まさに久ノ浜港にとっては「津守」だったのだ。

東日本大震災でも、津波は画像右下からやってきて
南寄りから殿上岬にぶつかるようにやってきたらしい。
そのため港は海に近い割には浸水は少なかったとのこと。

しかし殿上岬にぶつかった波と南からの津波
まともに大久川に流れ込んだため、
大久川周辺(特に津波の力の加わる側であった秋義神社側)
は川に沿ってだいぶ内陸まで浸水し火災も起きたという話だ。


地形というのはなんとすごいんだろう、
としみじみしながら海の方を見る。
すると、体を張って港を守っているばかりか
沖に出た舟までも見守れそうな風景だった。
管理人の写真がショボいので感動が伝わりづらいが…
f:id:ko9rino4ppo:20170410220809j:image
痛みに耐えて登った誰もいない神社から
この深い紺色の海と町を眼下に眺めて、
その海岸からは供養として
日蓮宗のお坊さんたちの少し変わった節回しの読経が聞こえたり
エイサーの太鼓の音なども風に乗って聞こえる。

管理人にはこれ以上ないようなご褒美である。
この風景を自分への今年の誕生日プレゼントとしよう。

(*‘ω‘ *)ではまた次回~

津波と神社と 念仏おどり。

ちょっと3月は色々処理できずマゴマゴしているうちに
なんとブログを書かずに終わってしまった。
大反省。

ということで、
ちょっと3/11に福島へ出かけた時のことを思い出して
とりあえず1つ記事を書きたいと思いますー(´・ω・`)

管理人は誕生日が3.11なので
・自分への誕生日プレゼントに民俗芸能や神社を巡る
東日本大震災を自分の中で少しでも色褪せさせない
という目的で毎年3.11付近は東北の神社や祭りに出かけている。

今回は、いわき駅付近に泊まり
目的地の久ノ浜まで神社を巡りながら歩いた。
総歩行距離18km前後だろうか。

「東北は寒かろう」みたいな安直な発想から
今回ブーツで来わけたが、これまた
「脚に重りをつけて修行しているのか」
というような重たいブーツを履いてきてしまった。
山道でないにしろ18kmという移動距離を考えれば、
このチョイス 愚の極み以外の何物でもない。

久ノ浜に着くころには股関節が疲労しまくり
足が何センチも上がらなくなっていた(笑)

まぁ私の股関節のことはさておき東北には
「想定外」と言われた大津波にもかかわらず
波にさらわれず残った神社が多数現存している。

今回はそうした神社を巡ったので
その中のいくつかをご紹介~(*´ω`*)

*四倉諏訪神社

f:id:ko9rino4ppo:20170322210444j:image
まずはこちら。
いわき市四倉町西にある諏訪神社
海岸線からは700mほどではあるが、
高台に登らなければ海は全く見えない。

しかし、この写真に写っている白い鳥居は
東日本大震災の揺れで倒壊し
津波も鳥居まで到達したそうだ。
f:id:ko9rino4ppo:20170322210507j:image
階段を上ってみると、
手水鉢はタツノオトシゴデザイン!
なんとかわいいんだ!初めて見た!
(/・ω・)/♪

富山県・八尾の「蚕手水鉢」が管理人の中では歴代1位だが
造りが雑ではない点、このタツノオトシゴいい勝負!
(あくまで管理人のテンションupランキング)

さて、上がってみれば
見慣れた(?)梶の御神紋が。
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別に長野出身じゃないけれど、
去年御柱祭ホリックになっていたからね。
すっかりお諏訪さまは親しみのある神様になりました。
(一方的に…笑)
確かに神社自体立派な神社だけれど、
大きな階段を上がった高台にあるのでさらに立派に見える。
津波が鳥居までで止まったことを考えても やはり、
津波を想定し「拝殿・本殿が安全な高さ」に建てられたのだろう。


拝殿の脇には摂社として
船玉神社」の扁額がかかった神社が。
f:id:ko9rino4ppo:20170322210635j:image
群馬・埼玉辺りにある「飯玉神社」が
稲魂(または稲の神ウカノミタマ)を祀る社であるように
船玉とは「船の魂」のことだろうか。
だとしたら、舟orその守神を祀る神社なのだろうか。
漁業や海水浴場に携わる地域らしい神社である。

そこからまたしばらく歩き、道なりに進む。
海に向かっているはずなのにどんどん山に入っていくような
「あれ?道まちがった?」的な不思議な感じに。

しかし、突然視界が開けたかと思うと
その遠く先はもう広い海だった。
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波立薬師まで行くと、もう道を渡れば海である。
現在も海沿いは津波の名残で更地が広がっていて、
話を聞いたタクシー運転手さんが
「アレだいたいは除染の人が買ったらしい」
と話す真新しい建売だけがまばらに建つ。
「地元の人はもう津波のコト考えたら買いづらいよココは」
と、自分も地元民だというドライバーさん。

この運転手さんも被災した時は一時、
我らが群馬県あたりに避難していたという。
不思議な御縁である。

あんなことがあった海ではあるが、
堤防ができてしまい街からは海が見えないのは
やはり寂しいし海が見たい。と運転手さんは言う。

パチンコ屋とビジネスホテルや旅館は
除染業者さんで潤っている。
いまも、常磐線は竜田-浪江の区間は運休である。

それを聞いて この風景を見ると
震災なんてとうに忘れて電気を使いまくっている
関東の生活なんなんだろうなぁと思ってしまう管理人だった。

そういえば震災ついでに、
先ほど紹介した諏訪神社のある「四倉」は
おそらく災害地名では?と管理人は思っている。

「倉(くら)」が付く地名というのは
「抉(えぐ)る」「刳(く)る」を意味するらしい。
つまり、津波で抉られる土地。
実はココだけでなく、
福島第二原発のある「波倉」もそうだと言われている。
さらには、ところ変わって有名どころ「鎌倉」も。
内陸部では洪水で川の濁流に削られる土地に
「倉」「暮」の字が使われることもあるようだ。

勿論、数ある地名の「倉」という字が
すべて同じ意味とは限らない。
しかし、災害地名の一般的なルールに沿って
全国の地名を見てみるのも何かの役に立つかもしれない。

それで何かが起きた時に被害が防げるなら。
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愛宕神社

しばらく海沿いを道なりに道なりに。
すると、そんなに新しくなさそうな神社発見。
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手前に何もないことから、
ココも津波に遭ったことは想像に難くない。
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神社に近づくと、鳥居の手前に小さな石標。
津波到達地点」。
少し高台にはなっているモノの、
先ほどの四倉諏訪神社が海から700mほどなのに対して
コチラは海から100mちょっと。
しかし、その距離の差にも関わらず
どちらの神社も鳥居の手前辺りで浸水が止まっている。
不思議なもんだな。

古めかしい「愛宕神社」の文字も
津波の被害をまぬがれたからこそ古くさいままなのだ。
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境内からは、堤防越しに海が見えている。


*久ノ浜諏訪神社
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さらに北上すると、
久ノ浜の諏訪神社が。
拝殿の中を覗くと天狗の面が飾られている。
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単に、修験道とかかわりの深い土地でしたよー
という理由かもしれないけれど(´・ω・`)デモ…
いわき周辺の地図を見た時いくつか
「大杉神社」の文字を見たのが気になる。

今回の福島では大杉神社には行ってみなかったが、
名前からし茨城県稲敷の大杉神社から分祀したのかな?
と感じた(裏を取った方がいいとは思うが)

その大杉神社は名前の通り
大きな杉の木が御神木となっている。
その杉は昔、常総内湾の船乗りたちにとって
船が自分の位置を知る指標になったため
大杉神社は海上安全の守り神ともされたのだそうだ。
※今はレーダーやらGPSやら便利なものがたくさんあるが、
 船乗りさんたちは海上から見える山の形や大木の位置関係
 そして夜は星や月の位置から現在地や天気を測っていた。

そのころ、土地の名前から大杉神社は
安婆さまor安波さまと呼ばれていたそうで。
さらに、海だけでなく利根川による水運が発展し
その信仰は利根川流域に広がった。
全盛期には仙台・千島方面にまで拡大したというから驚きだ。

さて、これが天狗面と何の関係があるかというと
昔、常陸海尊という有名な御坊様がいましたとさ。
この海尊が大杉神社の御神徳でたくさんの奇跡を起こした!
という伝説が残っているわけだが、
その容姿は赤ら顔に高い鼻。目は碧眼だったといわれている。
今考えれば「外国人だったのかなぁ」という気がするけれど、
もう当時の日本人は「天狗様だ!大杉神社の眷属・天狗様が奇跡を!」
みたいな感じでアゲアゲになったんだろう。
そこから大杉神社=アンバさまは天狗の姿で描かれることも増えた。
また海の神様であり「安波さま」という名前も手伝って
波を安らがせるカミサマというイメージがかなり強かったらしい。

長々した話になってしまったが、
何度も津波に晒された福島で 大杉神社はもちろん
大杉神社でない神社にも天狗面が浸透している!
というのはちょっと興味がある。
ここ以外に波立薬師や四倉周辺の神社でも天狗面を見た。

またゆっくり行ける時に
福島のアンバさま関連神社めぐりとかしたいなあ。
さっきの「愛宕神社」もモトは修験道系の神社であり
(現在はイザナミカグツチかもしれないが)
愛宕太郎坊天狗or愛宕権現を祀ることの多かった場所だ。
福島は、けっこう天狗圏なのかもしれないなぁ
(*'▽')
狛犬はなかなかユルイ顔をしていて可愛かった。

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*秋義神社*
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そしてついに、秋義神社に到着。
地図には秋義神社と表示されているが、
地元では単に稲荷神社と呼ばれている様子。
海から本当に50mほどかもしれない。
本当に周りは何もなく、すべて押し流されたのだろうと思う。

説明書きを読むと
3.11では奇跡的に回拝柱と鳥居が倒れるにとどまったこと、
昔から大火が起こり 疫病が流行り 高波の被害を受けるたびに
鬼渡神社 秋葉神社 稲荷神社と名を変えて
先人の心の拠り所になってきたことが書かれていた。
本殿も、道理でいろいろなカミサマがいそうだ。
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なにかのニュース番組で、
「東北の沿岸部にあるいくつかの神社は津波到達線上にあった」
という話が出ていた。
つまり、先ほどの四倉諏訪神社愛宕神社のように
鳥居は被害を受けたが拝殿・本殿は無事だったパターン。
テレビでは、宮城にある「浪分(なみわけ)神社」が
名前の分かりやすさからもずいぶん取り上げられたようだが、
そのほかの神社もずいぶん同じパターンがあったようだ。
また、今回紹介した中にはなかったが
神社の名前自体が津波に関するモノも東北には多い。

神社は、古くさいもので。
でもだからこそ昔からの生き残る知恵が詰まった場所だ。
先人の多くが神社の名前や立地に
かつての災害時「安全だった場所」の情報を詰め込んだ。

それを今回どれくらい活かせただろうか。
どれくらい、その情報は今に伝わっていただろうか。
別に被害にあった人が悪いというのじゃない。
日本全体が、世界全体が、きっとそうゆう状況で
その中で偶然今回は東北だった。そうゆうことなんだろう。

伝統芸能や神社が見直されてきたとしても
まだまだそれは直接の担い手以外にとって
珍しい・美しいという意味での「文化的な」とか
普通に生活が成り立ったうえで楽しむ「余暇的」な
というレベルでの「見直された」なのかもしれない。

今回福島に行った1週間後に
人前で少し神社や祭りの話をさせていただく機会があった。
福島で「津波到達線上神社」を巡りながらいろいろ考えて、
その時に「伝承」というモノに関して
・伝承というものは語らないと力を失ってしまう
・語るということは災害情報をファイリングするようなもの
 新人にファイルの存在と内容を伝えるとともに更新する作業。
・それを途絶えさせてしまうのは
 先輩が作ったファイルをなくしてしまうのと一緒。
というような話をさせてもらった。

今回の震災をきっかけに、
今度は次の地震まで生きる伝承を。
と願った。願うだけじゃ足りないよな。
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震災の時間に合わせて、黙祷が行われた。
堤防で黙祷している人は、管理人以外おそらく地元の人。
学生さんも多かったが、ただ行事としてやっているのではない
今も顔が思い浮かぶような近しい方が亡くなったのでは
と感じる表情が印象的だった。

黙祷後、地元の「じゃんがら念仏踊り」と沖縄のエイサー。
不思議なコラボに見えるが、
エイサーの方の代表さんの話では
東北のお坊さんが念仏踊りを広めながら全国を歩いたときに
琉球の貴族王族に人気を得て芸能として発展したのが
「エイサー」なんだそうだ。
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エイサー↓って、よく聞くけれどそもそも何かというと
盆の時期に踊られる「盆踊り」の一種。
本土の盆踊りと様相はかなり違うが
仏教行事である「盆」と踊り念仏ルーツの「エイサー」!
と考えるとマッチしているのかもな。
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そして、こちら↓が「じゃんがら念仏踊り」!
コレを見るために、
1時間に1本しかない電車を2本ほど逃した管理人であった。
(だって、予定表にあった時間と全然違ったんだもん…)
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じゃんがら念仏踊りは、
このいわきを中心にいくつかの地域で伝わっている。
本来は8月中ごろに新盆を迎えた家々を回る民俗芸能。
供養のほか、農業に関連して豊作や雨乞いのために踊られる
と説明されているものもあった。

鉦(金属の楽器)と太鼓を使って踊る。
じゃんがらというのは、
その2つの音「じゃん」「ぐわら」が語源だそうだ。

ちなみに長崎にもじゃんがら踊りというのがあるが
やはり鉦と太鼓を使う。
そして踊られる時期や目的も似ている。
※ラーメン屋「九州じゃんがら」さんは
 この長崎のほうのじゃんがら踊りがモトらしい…

もとはお坊さんが民衆の慰安をしつつ
識字率の悪い土地にも念仏と仏教を普及させるために
娯楽の要素を含んだ「踊り念仏」を始めたというが、

使う楽器や太鼓と体の位置、
バチの動きや輪になって踊るところ、
そして供養だけでなく農業にかかわりが深いところなどは
韓国の農楽(プンムルノリ/ 풍물놀이 )にもつながる気がしてくる。

ちなみにプンムルノリでは
金属を使った鉦が星(天)を表し
皮を張った太鼓が人(地)を表して
その2つが輪のなかで調和することが
天地の調和がとれた状態を表現している。
と、長鼓(チャング)をやっている先生に聞いたことがある。

そうか、
材質にまで意味があるのね、とそのとき思ったものだった。
まぁプンムルの思い出は置いといて。
(*‘ω‘ *)ダッセンシタゼィ

途中で切れている、
というか前半は踊っていないので
踊っているのは本当に最後の数分だが動画どうぞ。
(´・ω・`)粗茶デゴザイマス…


じゃんがら念仏踊り(2017.3.11 久ノ浜)

じゃんがらは鹿踊りや盛岡さんさ踊りのように、
身体の正面に太鼓を横向きにつけて踊る。
けれど、その位置はひざ上くらいと低め。
太鼓のバチは一般的な和太鼓のように太い木の棒でなく、
細めの木の先端に毛皮?のようなものが巻いてある。

ただ、よく見ると一番先端は木が出ていて
その端っこに毛か糸のようなものが挿してある。

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あー コレの意味とかも知りたいなー
あの巻いてあるのは毛皮なのか何なのか
先端の木が出てるところでたたいてるのか、
繊維が巻いてあるとこでたたいてるのか?

訊けばよかったー!
結構長いこと広場で待機してたじゃん
じゃんがら念仏の方たち!

ま、そんなこんなで穏やかな2017年の3.11でした。
このあと、足が疲れてバキバキの中
ちょっと遠くに鳥居が見えたもんで行ってきました!
次回はそちらの神社のことを書きますー。
(/・ω・)/♪